「オッペンハイマー」35mmフィルム上映の舞台裏
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「オッペンハイマー」の35mmフィルム。全9巻のうちの3巻目。
クリストファー・ノーラン監督作「オッペンハイマー」の35mmフィルム上映が、東京・109シネマズプレミアム新宿と広島・八丁座の2館で行われている。フィルムは配給のビターズ・エンドがアメリカから取り寄せ、それに字幕を焼き付ける作業をしたのが創業73年の日本シネアーツ社だ。本記事では日本シネアーツ社への取材を通し、「オッペンハイマー」フィルム上映の舞台裏に迫っていく。
取材・文 / 村山章 撮影 / 清水純一
デジタル時代に復権を遂げたフィルム撮影
デジタル技術が映像の主流になって久しいが、映画の世界ではフィルムが見直されている。特に撮影ではフィルムカメラを使用し、編集から完パケまでのポストプロダクション作業をデジタルで行うケースが増えているのだ。今年のアカデミー賞作品賞候補を例に取ってみると、ノミネート作10本のうち半分(「オッペンハイマー」「キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン」「マエストロ:その音楽と愛と」「パスト ライブス/再会」「哀れなるものたち」)はフィルムで撮影されている。
安価で手軽で画質がクリアなデジタル撮影ではなく、あえて手間もコストもかかるフィルムを選択する理由として、フィルム特有のアナログな質感を外すわけにはいかない。「本来映画はフィルムのもの」と歴史を盾に取ったり、「映画ならフィルムでなくちゃ」と熱いこだわりを語るのはもはや中高年のノスタルジーにしか聞こえないかも知れないが、多くの映画監督や撮影監督が審美的な理由からフィルム撮影を選んでいることは紛れもない事実なのである。
とりわけフィルムへの強い愛着で知られている映画監督が、クエンティン・タランティーノと「オッペンハイマー」のクリストファー・ノーラン。特にノーランは、近年の作品ではエンドクレジットに必ず「THIS FILM WAS SHOT AND FINISHED ON FILM(この映画はフィルムで撮影され、フィルムで仕上げられました)」の一文を記載するほど、撮影だけでなく完成品の形態もフィルムであることにこだわっている。
しかしいくらタランティーノやノーランが作品をフィルムで納品しようとしても、フィルム上映は確実に衰退の道をたどっており、すでに世界中の映画館のほとんどがデジタル上映に置き換わっている。タランティーノはそんな現状を憂慮してか、ロサンゼルスにフィルム上映専門の映画館ニュー・ビバリー・シネマを所有することで、途絶えそうなフィルム文化を守る活動を続けている。
「オッペンハイマー」の35mmフィルム上映は日本で2館のみ
ノーランは「オッペンハイマー」の公開にあたって、最もスタンダードなフィルム規格である35mm(フィルムの幅が35mm)と、70mm、そしてIMAX70mmの3種類の上映用フィルムを用意した。ただしIMAX 70mmフィルムは日本には上映ができる映画館が存在せず、世界でも30館のみという激レアなフォーマット(例外的に鹿児島市立科学館ではオムニマックス方式でIMAX 70mmフィルムを上映している)。また通常の70mmフィルムが上映できる設備も日本では東京の国立映画アーカイブにしかなく、特別な企画でなければ使用される機会はない。
デジタル上映が主流になった現在、35mmフィルムが上映できる映画館も激減。ただし「オッペンハイマー」に関しては、東京の109シネマズプレミアム新宿と広島の八丁座の2館で35mm版の上映が実現した。
ノーランは、「35mmプリントを上映し、観客にアナログ体験を提供できる場所がまだ世界にあることに、私はとても興奮しています。なぜなら、映像の奥行きや色の表現が重要だからです。それは、観客がもっと没入感のある体験をすることを可能にし、映画の世界にもっと入り込むことができるのです」とコメントを寄せている。フィルム撮影された「オッペンハイマー」を本来の意図に近い形で表現できるのはデジタルよりもフィルム上映であると、監督本人が太鼓判を押しているのだ。
109シネマズプレミアム新宿は2023年にオープンして以来、旧作を中心に35mmフィルムの上映を行ってきた。しかし完全な新作映画をフィルム上映するのは「オッペンハイマー」が初めて。また八丁座でフィルム上映が行われるのは7年ぶり。フィルム映写機は破棄する予定だったのだが、「オッペンハイマー」のために眠っていた映写機材をメンテナンスし直して、フィルム上映を復活させたのだという。
しかし、ちょっと待てよ? 日本でフィルム上映するには、日本語字幕を焼き込んだフィルム(上映用プリント)が必要になる(字幕だけを別に映写するという方法もあるにはある)。わざわざ2館だけのためにコストをかけて上映用プリントを用意してくれた配給のビターズ・エンドの英断には感謝しかないが、そもそも新作映画のフィルム上映が滅多にない昨今、字幕付きのプリントを作れる業者はまだ残っていたのだろうか?
あった! ありました! 創業73年という字幕制作の老舗、日本シネアーツ社が、かろうじて現在もフィルムに字幕を入れる作業を請け負っているという。そこでどんな作業が行われているのかを教えてもらうべく、社会見学に行ってまいりました!
「オッペンハイマー」35mm版のフィルムの長さは5km!
まずフィルム上映について簡単に説明しておきたい。
現在主流のデジタル上映は、デジタルシネマパッケージ(DCP)と呼ばれる動画データを映画館のサーバに転送して、デジタルプロジェクターを使ってスクリーンに映写している。
一方フィルム上映では、ポリエステル製の半透明なフィルムとフィルム専用の映写機が使用される。映画館には約2000ft(約610m)のフィルムが1巻になった缶入りの状態で届けられる。35mmフィルムには1ftにつき画像が16コマ(フレーム)並んでおり、映画は1秒24コマでできているので、1巻にはおよそ20分の映像が収められている。「オッペンハイマー」は3時間の作品で、1600ft~2000ftのフィルムが全部で9巻。延べおよそ1万6200ft、だいたい5kmだといえば、ボリューム感をなんとなく想像していただけるだろうか?
その膨大な長さのフィルムがいくつもの歯車をつたって映写機の中を運ばれ、ランプの前を正確に1秒24コマのスピード(分速27.4m)で通過する。そしてランプの光に照らされた各コマの画像がレンズを通して拡大されて、映画館の大スクリーンに投影されるのだ。
ちょっと単純化が過ぎる説明で恐縮だが、インドの辺境の小学生が独学で映写機を作り上げる「エンドロールのつづき」という映画がわかりやすく仕組みを解説してくれているので、興味ある方はそちらをご覧いただきたい。
いずれにせよ、目に見えないデジタルのデータではなく、フィルムという物体を直接手に取って扱うため、映写機内でフィルムが絡んでしまったり、傷や汚れを付けたりしないように細心の注意を払う必要がある。また昔のフィルムは燃えやすい素材で危険物扱いだったこともあり、1962年までは映写技術者免許という国家資格が必要とされていた。
フィルムの字幕加工ができる業者は日本で1社だけ
さて、映画字幕の話に戻ろう。日本シネアーツ社も、現在ではほとんどデジタル素材を扱っているが、いまでも16mmと35mmのポジフィルムに字幕加工する技術を保持している。同業他社がフィルムから撤退していったため、現在日本で唯一残っているフィルムの字幕に対応できる業者だという。
かつては字幕ひとつひとつに銅製の凸版を作成し、フィルムに字幕を直接押し付ける「タイプ方式」などを採用していたが、1995年に当時の最先端の機材をフランスから輸入し、日本で初めてレーザー光線で字幕を焼き付ける「レーザー方式」を導入。「オッペンハイマー」にもこのレーザー方式で字幕が付けられた。
タイプ方式は、手動の機械を使ってひとコマひとコマに凸版を押していくという、現在の感覚にしてみれば気の遠くなるような作業。「フィルムを傷めないように、押すときの力加減も重要だった」そうで、熟練の技が必要だった。
レーザー方式は、コンピューター制御された「レーザーサブタイトラー」という機械に字幕のテキストデータを取り込み、レーザー照射でフィルム表面の色素を文字の形に焼き取っていく仕組み。字幕のデータはリスト化されており、必要な箇所に自動で入れられる上、フィルムへの物理的ダメージも少ない。以前はシネアーツ社ではレーザーサブタイトラーが4台稼働していたが、フィルム需要の減少や機材の故障などで、現在稼働しているのは1台のみ。バックアップのない状態で、もし故障してしまったらどうするのだろうか?
営業の斎藤誠さんに聞くと「フランスで機材メーカーがまだ存続しているので、部品は取り寄せられるかも知れない」という。1898年から続くDEBRIEというメーカーで、ジガ・ヴェルトフ監督の「カメラを持った男」にも登場する手回しカメラ「パルボ」を開発したことでも知られている名門だ。ただし公式サイトを覗いたところ、現在ではレーザーサブタイトラーの取り扱いは確認できなかった。少なくとも新品を購入することは難しそうだ。
シネアーツ社では、ごくたまに短編映画のフィルムに英語字幕を付けて海外に送る発注などを請けてはいたものの、フィルムの長編映画を扱うのは同じノーラン監督の「ダンケルク」以来だったというから、実に7年ぶり。「オッペンハイマー」の依頼を引き受けた際も、突然故障してレーザーが出なくなる可能性なども懸念され、テストを重ねて「おそらく大丈夫」という目算が立つまで35mm版上映の公式告知は待ってもらっていたという。
Windows98や3.5インチフロッピーディスクが現役で活躍
シネアーツ社の作業スペースに置かれていたレーザーサブタイトラーは、レトロフューチャーなSFを思わせるコンソール部分が付いており、大きさは冷蔵庫4つ分くらい。それともうひとつ、同じくらいの大きさのフィルムをかけられる歯車がいくつも付いた機械が隣に設置されている。
こちらはレーザー照射によって生じる煤などをクリーニングする、同じDEBRIE製の製品。こちらも以前は2台稼働していたが、現在では1台しかない。しかしフィルムを洗った後、乾燥させて巻き取るまでが自動化されていて、フィルムに傷を付けないために非常に重要な役割を果たしている。
この製品の傍らにうちわが置いてあったので、レーザー作業を担当している早川亨さんに「暑くなるのですか?」と聞いたところ、「これもフィルムを乾かすためのものです、機械では完全に乾かないこともあるので」と教えていただいた。どこまでも細心の注意で取り扱わないといけないのがフィルムということなのだろう。
レーザーサブタイトラーは35mmと16mmのフィルムに対応しており、1巻ごとに字幕を焼き込んでいく。「オッペンハイマー」はセリフが多い作品であったため、20分に字幕を入れる作業にだいたい2時間ほどかかったという。
驚いたのは、テキストデータを読み込む装置が、3.5インチのフロッピーディスクドライブだったこと。1980~90年代に記録メディアの主流だった、あの3.5インチフロッピーディスクである。新品のフロッピーディスクはまだネット通販などで購入できるが、生産は2011年をもって終了している。その点では10数年間、時が止まったようでもある。
さらにいえば、字幕のテキストデータ作成に使用するパソコンのOSは、マイクロソフトがサポートを終了して10年以上が経っているWindows98とWindows XPだった。レーザーサブタイトラーに読み込ませるデータを作るソフトが、古いOSでしか動かないというのだ。テキストデータを担当する仁村祝子さんは、字幕の位置を指定する際に、タイムコードやコマ数ではなくft単位で数えなければいけない感覚を思い出すのに苦労したという。またレーザー担当の早川さんに「オッペンハイマー」の字幕加工で苦労したことを聞いてみると、「苦労というより機材が壊れないでと願っていました」と答えてくださった。
映画ファンはフィルム上映を存続させられるか?
日本シネアーツ社を訪れて、フィルムの魅力と職人的な仕事の大切さを間近に感じることができたと同時に、想像していた以上に日本でのフィルム上映が危機に瀕している現実も痛感させられた。
シネコンのほとんどはデジタル上映にしか対応していないものの、名画座などを中心にフィルムの映写機を使っている映画館は少なからず存在する。また八丁座のようにフィルム上映を再開した劇場もある。筆者が八丁座の「オッペンハイマー」35mm上映を鑑賞した際には、開映前に劇場スタッフの方が前説に立ち、「今後もフィルム上映を続けていきたい」という抱負を語っていらっしゃった。
しかし、何度も書くようだが、フィルム上映は物理的に存在しているものを扱うため、細心の注意と知識、そして機材を扱う技量が必要とされる。映写のクオリティを担保する専門的なスキルは、次の世代に継承されなければ途絶えてしまう。もはや貴重品となった上映機材も、正しく扱う人材がいなければただの骨董品になってしまうのだ。
そしてもうひとつの問題が、洋画の興行には必須の字幕付きプリントの問題。前述したように、いまや国内でフィルムに字幕を付けられるのは日本シネアーツ社のみ、しかも稼働している機械は最後の1台、である。つまり定期的なメンテナンスだけでなく、適切な設備投資が必要な段階に入っているにもかかわらず、それだけのコストに見合う新作映画のフィルム上映が頻繁に行われている状況とはいい難い。なにせ日本では、「オッペンハイマー」が数年ぶりの新作映画のフィルム上映なのだから。
また、フィルムに付随するデジタルの音声データに字幕情報を足して、映写機とは別のプロジェクターを使って字幕を投影する技術も存在する。その技術を使えばIMAX 70mm(IMAX 15/70ともいう)や通常の70mmフィルムでも字幕付き上映は可能であり、フィルム上映の未来が開けるかも知れない。しかし上映用プリントを供給する本国と、字幕を用意する日本の配給会社、設備を追加しなくてはならない映画館とが足並みをそろえるのは容易ではないだろう。つまり今後劇場で上映できるのは、かろうじてフィルムが現存している過去作だけ、という事態にもなりかねない。というか、おそらくそういう未来が遠からずやって来る。
時代の変化の大きなうねりを押し止めることはできないかも知れないが、われわれ観客がフィルム上映を求める機運が高まれば、小さい規模であっても興行として成り立つ可能性は高まるはずだ。
そのためにはまずはフィルムの魅力を知ってもらうほかない。「オッペンハイマー」でも旧作でも構わないので、足を運べる距離でフィルム上映がやっていれば一度体験してみていただきたい。保存状態のいい35mmフィルムが適切に映写されれば、画質としてデジタル上映に勝るとも劣るものではない。筆者は八丁座の最前列で「オッペンハイマー」の35mm上映をかぶりつきで観て、眼の前に映画が物体として存在しているアナログの実在感に感動し、思わず涙ぐんだことを書き添えておきます。
村山章(ムラヤマアキラ)プロフィール
1971年12月24日生まれの映画ライター。2009年より続く「しりあがり寿 presents 新春!(有)さるハゲロックフェスティバル」では運営スタッフを務める。配信系作品のレビューサイト・ShortCutsの代表。ハル・ハートリー作品などの自主配給にも携わっている。