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デイジー・リドリー主演作『時々、私は考える』監督インタビュー。「空想は主人公にとって必要なこと」

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『時々、私は考える』

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デイジー・リドリーが主演を務める映画『時々、私は考える』が26日(金)から公開になる。本作は、人づきあいが少しだけ苦手で、空想することが日課になっている女性フランの物語だが、本作に登場する彼女の空想は“ファンタジー”でも“現実からの逃避”でもない。

「空想することは、フランにとって必要なことだと思います」とレイチェル・ランバート監督は語る。本作で監督は何を描こうとしたのだろうか? 公開前に話を聞いた。

物語の舞台は、穏やかな港町。ここで暮らすフランは、自宅と会社を往復するだけの単調な日々を過ごしている。フランは人づきあいが苦手で、少しだけ不器用な女性。自分の思っていることを誰かに話したり、誰かと笑い合ったりするのが苦手だ。そんな時、彼女は時々、考える。自分が幻想的な空間で死んでいる光景、森の中で朽ちている光景……。しかし、この空想は彼女が生きるために必要なことなのだ。

ランバート監督は「説明するのが難しいのですが」と前置きした上で穏やかに話し始める。

「空想することは、フランにとって必要なことだと思います。現実の世界が強烈だったり、複雑だったり、困難だと感じる時、人間は現実から一歩だけ遠ざかって、想像力でつくりあげた自分の“内なる世界”に身をひたして、自分を修復しようとすることがあります。

内なる世界は物事をしっかりと感じることができる安全な場所で、そこでなら自分の感情も表現できます。フランは、まだ現実の世界に自分の感情を表現できる安全な場所を見つけられていないので、自分の内なる世界にいる方が生き生きとしていると感じているのです。

もちろん、フランも現実の世界で生き生きとしていたいのですが、彼女にはそのやり方がわからない。まるで、みんなは子どもの頃に“こうすれば人間らしく暮らせるよ”という授業を受けたのに、自分だけその授業を受け損なってしまって、どうしたら良いのかわからないような感じです。そんなところからこの物語は始まります」

つまり、本作におけるフランの空想は、仮に死のイメージが描かれたとしても死への願望があるわけではない。浮遊する自分を想像したとしても飛び立ちたいわけではない。彼女の空想はいつも“生きづらい現実との向き合い”から生まれ、その視線は空想内ではなく現実に向かっている。

そのため、劇中で描かれるフランの空想シーンはすべて完全な想像世界ではなく、現実との接点のある光景になっている。

「そうですね。フランが想像する世界は、自然であったり、現実世界にあるものを“具材”にしています。私たちも夢を見たり、空想する際には意識的であれ、無意識的であれ、現実の世界の情報をベースに脳がビジョンを生成するわけですよね? 本作でもフランの空想はシュールなものになりすぎてしまうよりも、どこか現実的な光景の方が効果的だと思いました」

他にもフランの心象風景を表現するものがある。映画の舞台となる町と音楽だ。撮影が行われたオレゴン州アストリアは監督が自ら足を運んで見つけた場所。静かで、広々としていて、美しい風景が広がっているが、時に霧が出て見通しが悪くなる。そして、そんな光景に予想もしていないような音楽が響くのだ。

「撮影監督のダスティン・レーンと俳優の撮影が始まる前に、いわゆる“Bロール”と呼ぶような、風景などの撮影を4、5日かけて行いました。通勤中のフランが思わず目にするようなものを撮影するところから始まったんです。ですから、道を歩いている鹿とか、はしゃいで奇妙な動きをしている子どもたちとか、みんなが見逃してしまっているような町の美しい光景とかですね。

私たちが“フォトグラフ”と呼んでいたこれらの映像は、俳優たちとの撮影が始まる際にデイジーたちに観てもらって、この作品の世界観や状況を共有することができました。これが本作の成功の第一歩だったと思います。それに音楽もとても重要でした。フランの内なる世界が表現されているのが音楽だと思うのです」

本作は「フランの内の世界と外の世界が調和するまでの物語」

レイチェル・ランバート監督

自分の内なる世界に包まれて暮らすフランの日常は、映画が進む中で少しずつ変化していく。同僚の定年退職、中途入社でやってきた新しい同僚男性との出会い。しかし、本作は“恋愛で人生が変わる!”ような映画ではない。

それを象徴するのが映画の後半に登場するパーティのシーンだ。ある日、同僚と行ったレストランのウェイトスから招待を受けたフランは、ウェイトレスの仲間たちが集まるパーティに参加し、一緒にゲームを楽しむ。「家の中で殺人が起こった」という設定のロールプレイングゲームで、参加者たちは家の中で隠れたり、犯人を推理したりして楽しむ。唐突に始まるこのシーンは少し違和感があるが、実は重要な場面だ。

「フランは熱心にゲームを楽しんでいますから、熱中している間、彼女の心は“武装解除”されているんです。ゲームですからルールも明確で、フランは自分が何をするべきか、何を求められているのかもハッキリしていて、普段の日常よりもずっと楽なんだと思います。いつものように“この場面ではどうすればいいんだろう?”とか“こんなことを言わないといけないのかな?”なんてことを考える必要はないんです。

そこでは彼女は自然と誰が犯人なのか推理して語ることができます。そこまでルールというガイドがあったおかげで、彼女はあの瞬間に“ありのままの自分”で語ることができたわけです」

フランは現実から逃げていたい女性ではない。彼女は現実でも空想の世界と同じように語りたいし、生き生きと暮らしたいのだ。ただ、そのやり方がわからないので、困っている。

そして、そんな状況を打開するのは“恋愛”でも“新たな出会い”でもない。もちろん、日々、色々な出会いと別れ、葛藤がある。でもそれは“きっかけ”でしかない。フランは誘われて参加した初対面だらけのパーティでも心を開けた。誰かとの出会いや恋愛だけが彼女に変化をもたらすわけではない。

ランバート監督は本作を「フランの内の世界と外の世界が調和するまでの物語」だという。「彼女は自分の内なる世界と現実を統合するためにやれることがあるのに、難しいと思った瞬間に空想の世界にひいてしまう人間として登場します。しかし、物語を通じて彼女は、自分の心の中で感じていることを、外の世界で安全に感じたり表現できるようになるわけです」

映画『時々、私は考える』は、唯一無二のタッチと表現で、ひとりの女性の変化を描いていく。繊細にして大胆、油断していると不意打ちを喰らう“ありそうでなかった”傑作の誕生だ。

『時々、私は考える』
7月26日(金)より新宿シネマカリテほか全国順次公開
(C)2023 HTBH, LLC ALL RIGHTS RESERVED.

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