大沢たかおが与えた“大きな可能性” 『キングダム』は“本気度”の高さが感じられる実写化作品に
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青年漫画雑誌に連載中の、春秋戦国時代の動乱を独自の解釈で描いた同名の漫画を映画化した実写映画『キングダム』は、日本映画として最大規模の製作費が投じられたとされる、2019年の目玉となる邦画作品だ。
参考:『キングダム』山崎賢人×吉沢亮の絆になぜ引き込まれるのか 2人の信頼感が説得力を生む
近年、漫画作品の実写化が続いているが、企画が増えていくにつれ、なかには原作人気にあやかろうとするだけに思える安易なものも少なくない。そんななかで、本作『キングダム』は、熱意を持って原作の持っている魅力を丁寧にすくい上げようとする、“本気度”の高さが感じられ、好感が持てる作品に仕上がっている。
この作品を語るためのキーワードは、「総合力」である。突出した部分をひとつ挙げることは難しいものの、巨大なセットを組み、ディテールにこだわった美術の豪華さ、実写とCGを組み合わせ、説得力を高めた映像表現、スピーディーな肉弾アクションなど、各部門が職人的で堅実な仕事をしているおかげで、邦画もまだ底力があると感じられるような、質の高い娯楽表現を楽しむことができる。ここでは、そんな『キングダム』の内容に、もっと具体的に迫り、本作に最も重要な存在は何であったのかをあぶり出していきたい。
中国の戦乱を描いた歴史物語といえば、とりわけ『三国志』の人気が大きく、映画化やコミック化されるケースも多い。ただ本作のように、それ以前の春秋戦国時代や秦の時代を題材にしたものがないわけではない。2017年に亡くなった台湾の優れた漫画家・鄭問(チェンウェン)の『東周英雄伝』は、春秋時代をとりあげ、そのエピソードを広く世に伝えた作品だ。さらに、彼が秦(しん)の始皇帝に特化して物語を描いた『始皇(シーファン)』は、『キングダム』同様の題材ながら、中国を統一した始皇帝のパーソナリティーや秦国の政府を、より毒々しいものとして描いていた。
それもそのはずで、始皇帝はその強大な権力をもって圧制を敷き、不老長寿の仙薬を求めて莫大な費用をかけて探し回らせたり、罪人を生き埋めにしたりという、わがままで残忍な個性が、いままで一般的に強調されがちだったからだ。ただ近年の研究によると、そのような極端な人物ではなかったのではと考えられてきている。
原作漫画『キングダム』は、のちに始皇帝となる、吉沢亮演じるえい政(えいせい)の若き野望を、ある種のさわやかな文脈のなかで肯定しているのが特徴的だ。えい政は、「天下の大将軍」を志望する、山崎賢人演じる信(しん)を右腕として、戦(いくさ)を繰り返しながら、ともに成長していく。奴隷の身から大将軍になるという無謀な夢を抱き、一心不乱に剣の腕を磨き続けることでのし上がっていくという、信の直線的な快進撃は、まさに弱小のスポーツチームが、多くの練習、試合を経て、地区大会や全国大会を駆け上がっていく、漫画的な黄金パターンを想起させるのだ。
しかし、もちろんそれだけでなく、何でもありの殺し合いである「戦」を描くという題材の性質上、「策」……つまり戦いに勝利するための優れた作戦や、だまし撃ちも重要になってくる。戦乱の世、剣の腕だけでは命がいくらあっても足りない。頭脳明晰な人物や人望のある人物、特殊な能力や情報を持つ者、そして単純に数の力などの総合力、それにくわえて地勢や気候条件などの要素によって勝敗が決定するのだ。そんな複雑なロジックが用意されているから、それを実写化した本作は納得しながら楽しめる作品になっているといえるだろう。
そんな世界観が映画版でも活かされているおかげで、本作はその意味において原作に近い重みを持ったものになっている。これは原作の魅力についての理解が深いことを意味している。そこが分かっていなければ、表面的な設定だけをなぞった、つまらない出来になりがちなのだ。これは、本作の原作者である原泰久が、今回の実写映画版でも協力し、脚本に参加していることが大きいように思える。
だが一方で、そのことが問題を発生させているようにも感じられる。漫画原作の実写化作品では、往々にして「再現度」に注目が集まる場合が多い。たしかに本作は、物語や演出などが原作通りの魅力を継承していて、出演者たちもコミック的なキャラクターを、リアリティを保ちながら熱演している。だが、本作があまりにも原作漫画の内容に沿い、その方向性で質を高めていくほど、原作に隷属している印象が強まっていくのだ。実写による「再現」に、ある種の快感があることはたしかだ。だが、それが徹底されていくにつれ、実写化する意義は薄れてしまうことになる。
おそらく、本作はシリーズ化をねらっているのだと思われるが、原作漫画の連載はまだ続いており、その長大な内容を全て同じレベルの質で描くことができるかというと、現実的ではないだろう。原作からすれば本作の物語というのは、まだ序盤も序盤である。原作が、連載を長く描いていくことを意識して、そのペースに合わせた設定を考えているのに対し、映画版が設定や伏線をそのまま受け継いだのでは、それらが十分に活かせないことになってしまう。1作で終わるにしろ続編が制作されるにしろ、ここでは映画版ならではの大胆な翻案が必要だったように感じられる。少なくとも、一つの作品としては、主人公・信の願いであった「天下の大将軍」へのステップを感じさせるような、平原での合戦を描くことが必要ではなかったか。
そして本作には、原作同様に、武力によって他国を支配することを「中華統一」として語るえい政を、基本的に肯定するという、テーマ的な危うさがある。暴力で権力を拡大することについて、本作はどう考えるのか。人の死が、よりリアルに表現される実写映画版では、そこに踏み込むこともできたかもしれない。
そのなかで、本作に大きな可能性を与えていると感じるのは、信の目標となる、大将軍・王騎を演じた出演者の大沢たかおである。大沢といえば、オーバーアクトと言ってもいいほどの熱演が特徴だ。
私が初めて彼の演技に注目したのは、スティーヴン・セガール主演の、日本のヤクザを題材にしたアクション映画『イントゥ・ザ・サン』(2005年)だった。日本刀を持って敵の中に切り込んで、痙攣しながら戦うその演技は、要求されるテンションをはるかに超えていて、鬼気迫るというよりは、それすらをも超えて滑稽に感じられるようなエキセントリックさを見せていた。
『終の信託』(2012年)での検事役もそうだが、大沢が熱演したとき、あまりに異質な空気を作り出すことで、作品全体のリアリティのバランスさえ危うくなることがあるのである。その意味で、彼は映画作品にとって危険な出演者だ。
漫画の実写化作品では、そこにリアリティを持たせるため、漫画のキャラクターのしぐさを、より自然な動作や表現に解釈し直そうとするのが普通だ。それが常識的な判断である。実際に大沢以外の出演者たちは、熱演しつつもその姿勢で臨んでいるように見える。本作の、馬上で激走しながら怪しくほほえむ王騎の表情を見てほしい。もともと異様なキャラクターだが、原作よりもすごい表情で笑っているのだ。その、底知れぬ狂気。本作で唯一、王騎だけが、原作よりもヤバい奴になっているのである。
思えば、原作で最も強い印象を残し、自分だけの判断で、超然とした態度をとる王騎のキャラクターこそ、大沢たかおの演技をそのまま具現化した存在だといえないだろうか。その意味では、王騎役は、常識にとらわれない大沢が最も輝ける役どころであり、悪人でもないが善人ではけっしてない、人を殺し天下に名を馳せる人間の狂気をさらに深化させることで、複雑さを発生させることに成功している。ここで本作は実写化作品として存在する意義を発生させ得たと感じるのである。
トレードマークでもある大きな矛を振るい、風圧だけで兵を何人も吹き飛ばしてしまう、まさに「JET STREAM(ジェット・ストリーム)」(大沢が5代目のパーソナリティーを務める長寿ラジオ番組)と呼びたくなるようなカリスマ的な必殺技も飛び出し、本作は実写映画としての価値を作り出した。大沢たかおという“劇薬”が光を放つことで、本作に非凡な印象が加わったのである。
原作では、この後描かれる戦のなかで、王騎本人によって「戦は武将のもの」という将軍論が語られる。兵隊たちが集まり、堅実な仕事をしたとしても、それはあくまで総合力を高めるだけで、“旗印”とはならない。圧倒的な演出力を持った監督でもいい、スター俳優でもいい。集結した総合力を生かすも殺すも、それに意味を持たせる「将軍」のような、象徴となり名を残す、傑出した存在次第なのだ。(小野寺系)
※山崎賢人の「崎」は「たつさき」が正式表記。