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音楽偉人伝 第9回 忌野清志郎(RC時代前編)

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忌野清志郎

日本の音楽史に爪痕を残すアーティストの功績をたどる本連載。5人目に取り上げるのは忌野清志郎だ。ロック界のカリスマ、巨星、レジェンド、頂点……彼を形容する言葉はさまざまなものがあるが、いかにしてそう言われるまでになったのか。山あり谷ありの彼の生き様を、まずはRCサクセション(RC)時代からお届けしよう。書き手は、80年代にRCの衣装係やマネージャー、ファンクラブ会報誌の編集などを務め、彼らのごく身近で過ごしてきた片岡たまき。

RC時代の前編となる今回は、東京の西のほうに住んでいた1人の中学生が幼なじみたちとRCを結成するまでの道のりと、デビューしたもののやがて突入する鳴かず飛ばずの暗黒期である。

中学生バンド“ザ・クローバー”

1951年4月2日、東京都中野区に生まれ、都下、国立(住所区分は国分寺市)で育った忌野清志郎。彼は中学校に入学した1964年、幼なじみの同級生リンコ・ワッショ(小林和生)と初めてのバンド“ノー・ネーム”を結成する。その後このバンドは、転校生の破廉ケンチ(桶田賢一)を加えて“ザ・クローバー”に発展。この3人がのちのRCサクセションのオリジナルメンバーとなる。時代は、The Venturesによる空前のエレキブーム真っ最中。しかしながら、裕福とは言えない中学生の彼らが手にできたのはフォークギターだった。音楽仲間の宝物である輸入盤レコードを繰り返し聴いて旋律を耳で探る。ラジオから流れる洋楽を聴いて想像を膨らませる。そんな日本における洋楽ロックの黎明期、清志郎たちは海外の音楽にのめり込んでいく。

ザ・クローバーは人気のフォークトリオ、PPM(Peter, Paul and Mary)のコピーを始めた。オリジナル曲はまだなかったが、The Venturesの「Pipeline」を半音ズラして作った「オキナワライン」という曲はあったらしい。バンドの練習場所は各自の自宅を持ち回りにして、清志郎の家では同級生たちが通るたびに覗いていったという。

やがてザ・クローバーは近所の人気者に。しかし高校進学を機にメンバーは離れ、自然消滅。清志郎とリンコは2歳先輩の武田清一(のちに“日暮し”のVo,&G)と、“ザ・クローバーの残党”を意味した“リメインダーズ・オブ・ザ・クローバー”を結成し、武田のアドバイスによりリンコはギターをウッドベースに持ち替えるが、それもつかの間、音楽性の違いで彼らは解散してしまう。

その後、それぞれに活動していたザ・クローバーの3人が再び結集したのは1968年のこと。“ザ・クローバーの残党”に“継承”の意味を持つ“サクセション”を付け加えて、“リメインダーズ・オブ・ザ・クローバー・サクセション”と命名。頭文字を取ってRCサクセションとしたのだが、清志郎はインタビューで問われるたびに「『ある日、作成しよう!』が訛ったのだ」と得意気にうそぶいていた。

1969年6月、高校3年生、RCサクセション(以下、RC)はTBSの人気音楽番組「ヤング720」に出演し、オリジナル曲「どろだらけの海」(のちのデビューシングル「宝くじは買わない」B面)を演奏した。登校すると校内の有名人となっていた。

リンコと分け合ったR&Bのレコード

1969年8月、「東芝カレッジ・ポップス・コンテスト」で入賞。自ら初代マネージャーを買って出た大学生の金田仁氏に「清志郎の声は、R&Bの歌い手に通ずる」と評価され、メンバーはR&Bに傾倒する。金田氏からもらった2枚組ソウルミュージックのオムニバスレコードを、こともあろうに開いたジャケットの真ん中からザクザクと切って分割、清志郎とリンコは1枚ずつ聴いていたそうだ。ダビングのための録音機材を持っていなかった2人の斬新な発想。リンコは当時を振り返って、

「オーティス・レディング、Booker T. & the M.G.'s、ウィルソン・ピケット、Sam & Dave……1バンド、1曲ずつ入ってて。それはもうカルチャーショックだった」「そのBooker T. & the M.G.'sと清志郎はアルバム(1992年「Memphis」)を作ったんだから、これまた驚きだ!」

と言っていた。

その後、ライブを観に来た大手芸能プロダクションの社長にスカウトされて契約を結ぶ。清志郎とリンコは美大進学を目指していたが、音楽の道を選び、1970年3月5日、高校卒業と同時期にシングル「宝くじは買わない」でレコードデビューを果たした。

続いて同年12月にはシングル「涙でいっぱい」をリリースするが、両盤共に売り上げは伸びず、話題にならなかった。しかし、本人たちは、思いもよらず早々に叶ったレコードデビューがうれしかったに違いない。「デビューレコード以来、毎回リリースされるたびに(清志郎は)わざわざ届けに来て、近況を報告してくれた」と清志郎の親戚、栗原本家の叔父様から聞いた。

70年代前半、清志郎の詞に彼らが育った国立の風景や日常が描かれ始める。「ぼくの自転車のうしろに乗りなよ」には、国立駅の「南口」や「大学通り」「一つ橋」など実在の場所が登場し、「君が編んでくれたマフラーあたたかい」と聴くと、冷たい風を切って走る2人乗りの姿、その先に駅が浮かび上がって、日常言葉の歌詞が私たちの目線と重なる。

また、「ベルおいで」では、清志郎が失恋の悲しみを愛犬ベルにこう訴える。「僕はもう恋なんかしないのさ お前ももうしちゃダメだよ」と。このたったワンフレーズで清志郎とベルの距離がなくなり、清志郎が自分に放った独り言だと、はたと思わせる。そして「お墓」は、「ぼくはあの街に 二度と行かないはずさ ぼくの心が死んだところさ そしてお墓が建っているのさ」と、両曲共に“失恋”という言葉を使わず歌詞を仕上げている。ほかの誰かの歌詞とはみずみずしさが格段に違う。

この時代に生み出された膨大な楽曲は、1980年のブレイク以降、1990年以後のソロ活動に至るまでも、アレンジを替えレコーディングされている。「指輪をはめたい」「僕とあの娘」「あそび」「ガラクタ」など、長い時間を経ても色褪せずに、その時々のアレンジによってより磨かれ底光りするのは、清志郎の曲の圧倒的な力強さだ。

やがて時代はニューミュージック全盛に

1972年2月、シングル「ぼくの好きな先生」をリリース。高校時代の恩師を歌ったこの曲がヒットし、一躍RCの知名度は上がった。深夜ラジオからは牧歌的な演奏に乗って、清志郎の特徴あるボーカルが流れてきた。当時高校生で、すでに音楽活動を始めていたボーカリストの金子マリはそれを聴いた瞬間、こう思ったのだそうだ。

「宿題のノートの上に、ラジオから声がポトンって落ちたの。衝撃的だった。清志郎って一体何者なんだろう? いつか、この人と一緒に歌うときがきっと来る」

そしてこの予感は8年後に的中する。

1972年は、シングル「キミかわいいね」「三番目に大事なもの」、アルバム「初期のRCサクセション」「楽しい夕(ゆうべ)に」とリリースラッシュだった。初めてのレコーディングを経験したメンバーは、できあがった音源がスタジオミュージシャンの演奏に差し替わっていたり、意図と異なるアレンジが施されていたりという事務所やレコード会社の横暴なやり方をあとから知る。後年、「レコーディングのことなんか、何も知らない子供だった。この経験がこの後の勉強になった」と清志郎は言っている。当時は21歳であった。

この頃、テレビ神奈川の音楽番組「ヤング・インパルス」に毎週ゲスト出演している。スタジオに客席を作った公開番組で、生演奏だった。清志郎のリズムギターの強いカッティングにリンコのウッドベースが絡み付き、そこにケンチのとがったリードギターが重なる演奏スタイルに、清志郎はアドリブで「ガッタ、ガッタ、ガッタ」とソウルフルに歌う。当時からこのアンサンブルは実に新鮮で衝撃的だった。RCのサウンドは、周囲の四畳半フォークとはかけ離れていた。体内でエネルギーを燃やしながら、ガシガシ前に進む機関車のような重厚さ。ほかにも軽い曲調のものも多々あったが、どれもセールスには結び付かなかった。

時代は吉田拓郎や井上陽水のヒットから、はっぴいえんど、荒井由実、シュガー・ベイブなどに代表される音楽が主流となって、ニューミュージック全盛へと移り始めた。RCの重いサウンドは置いてきぼりにされていく。そして、RCは事務所の独立トラブルに巻き込まれて、あろうことか仕事を干されてしまう。75年は、ライブもできない状態のまま時間だけが経っていった。

RCサクセションと名乗り始めたときから、曲も演奏も磨かれた宝石のようだと私には思えた。しかし70年代半ば、その宝石は何かしら取り除かなくてはならない“曇り”に覆われていた。リスナーのアンテナに届く的確なアプローチが、清志郎には見えていなかったのかもしれない。この数年後のヒット曲「トランジスタ・ラジオ」(1980年)にある「陽のあたる場所」や「屋上」の眩しさに向かって、RCの長い低迷期が続く。

<つづく>

文 / 片岡たまき 編集 / 木下拓海 ヘッダ画像提供 / ユニバーサル ミュージックジャパン