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『なつぞら』はなぜ安心して観られる朝ドラとなったのか “定番”を覆した幼少時代の描き方

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 NHKの連続テレビ小説『なつぞら』のなつ(広瀬すず/粟野咲莉)の境遇を見たとき、筆者は昭和の少女漫画の名作『キャンディ・キャンディ』を思い出したが、同じように思った人もいるのではないだろうか。

参考:『なつぞら』第30話では、なつ(広瀬すず)が咲太郎(岡田将生)の知人から新たな事実を告げられる

 『キャンディ・キャンディ』は、1970年代に連載された、累計発行部数1200万部のベストセラー漫画で、テレビアニメ化もされていた作品だ。主人公のキャンディは孤児院で暮らしていたが、ある日、富豪の家に引き取られる。しかし、そこにはイライザという娘と兄のニールがいて虐められるが、それでも健気に暮らしている。『なつぞら』を引き合いに出すのは、戦災孤児のなつが、亡き父の戦友・柴田剛男(藤木直人)の家に引き取られ、そこに夕見子(福地桃子/荒川梨杏)という同い年の娘と、兄の照男(清原翔/岡島遼太郎)がいたという、それだけのことではある。

 ただ、『キャンディ・キャンディ』の記憶があるものとしては、『なつぞら』のなつが、新しい家族に疎まれ、不幸な境遇の中で耐えながら生きていくものだろうと想像してしまうくらいには刷り込みがされていた。だからなつがそうではない方向に展開していくことを、新鮮に感じてしまうところがある。

 なつ自身とて、その境遇では、自分が耐えていけばなんとか生きていけると想像したであろう。柴田家にやってきたとき、なつは「いい子」であろうとしていて、そのことが子どもらしさを失わせているとすら感じたが、それは戦災孤児が見知らぬ家で適応しようとしたからこそ起こる反応であることがわかった。こうしたドラマでは、子どもは子どもらしくという扱いがあまりに強すぎて、子どもであっても遠慮をしたり空気を読みながら生きているということが、まるでなかったことのようにされることも多かった。

 『キャンディ・キャンディ』では、キャンディが「笑った顔の方がかわいいよ」と言われるシーンがある。これは、どんなに不遇な境遇の中にいても、笑っているほうがいいよという意味があったと思うが、なつの場合はどうだろう。1話の最後では、なつが来たことで柴田家の面々が口論をしており、それを聞いてしまったなつは作り笑いをした後、泣き出してしまう。

 それに対して、内村光良(後になつの戦死した父親であることが明かされる)のナレーションは「なつよ、思いっきり泣け」と語りかけていた。またある日は、いつも無理しているなつに対し、柴田泰樹(草刈正雄)が、「無理に笑うことはない。謝ることもない。お前は堂々としてろ」と語るシーンがある。泰樹は、柴田家でなつが堂々とするために、労働が一役買うということを見越していたのだと思われる。これらのセリフは、これまでのフィクションで女児に向けられがちな、「どんな苦境にいても笑ってさえいればなんとかなる、誰かがなんとかしてくれる」ということの逆を行っている。「笑わなくてもよい、思いっきり泣け」というのが、このドラマの優しさであるとも思えるのだ。

 もちろん、柴田家の面々とて、すぐになつと馴染めるたけではない。同い年の夕見子は、なつを「ずるい」となじったし、泰樹がなつにだけ酪農のいろはを教えることで、照男は自分が祖父に頼られてないと感じたりもする。しかし、そんな小さな軋轢に対して、ひとつひとつ理由が明かされ、登場人物同士の誤解も解けていく。そこで密かにいい役割をしているのが、藤木直人演じる父親・柴田剛男であるとも思える。

 もともとは、「人の不幸は蜜の味」という言葉もあるほどで、フィクションではしばしば、主人公の不幸な状況、登場人物同士が理解ができない状況で人々の目を引くというものがあった。もちろん、視聴者として、それを楽しむ視線も持っていたのも確かだ。人と人との誤解やそこから生じる軋轢は、物語のスパイスどころか、本筋を変えるものにもなる。『なつぞら』にもそれはあるのだが、必ず誤解は説明によって解かれている。そんな物語の紡ぎ方が、とても心地よく、だからこそ安心して観ていけると感じるのだ。(西森路代)