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いたずら好きの小妖精に誘われてーー『イメージの本』の観客は“森”の中で前後不覚となる

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リアルサウンド

 フランスの女性映画作家アニエス・ヴァルダがこの3月29日、癌のためパリの自宅で息を引き取った。90歳だった。昨年公開された彼女の生前最後の公開作品『顔たち、ところどころ』(2017)のラストで、ヴァルダ自身はゴダールの自宅をおとずれたのに、みごとに居留守を使われ、会うことができずに終わる。そして翌4月、ヴァルダ追悼文の執筆依頼をうけた筆者は、この非常に印象的なシーンについてを言い添え、悲しみの文章の掉尾とした(「アニエス・ヴァルダ追悼 貴女と我等の合言葉ーーさようなら、そして今日は」)。あらかじめ約束しておいたのにもかかわらず居留守を使われたゴダール家の玄関、そして近くのレマン湖のベンチをもって、ヴァルダは自身の作家人生の幕を下ろした。彼女には、これが今生の別れだと分かった上での訪問撮影だったことだろう。

 一方、居留守を使い、ヌーヴェルヴァーグ時代の古き盟友の訪問を拒んだゴダールは、いったいどうしたというのか? 先述の追悼文において筆者は「不機嫌な独居老人となり果てたゴダールにはもう、古い友人をどうやって歓待してよいか分からないのかもしれない」と斬って捨ててしまった。近隣には公私のパートナー、アンヌ=マリー・ミエヴィルの一家が住んでいるそうだから、完全に天涯孤独というわけでもないらしい彼は、ひょっとすると新作映画の仕上げ作業で疲れ果て、寝込んでいただけなのだろうか? そしてヴァルダの訪問時におそらく制作まっただ中であったはずの彼の新作『イメージの本』が、ついに日本公開されているところである。いくぶんロマン的にすぎる解釈だけれど、この新作には、アニエス・ヴァルダが叩く玄関のノックも反響しているのではないだろうか?

 1930年12月生まれだから、今年末には89歳になろうとしているジャン=リュック・ゴダールとは誰か、と説明を求められたら、今さらどう答えるべきだろうか。現存する最も偉大な映画監督? そう、その通りである。今なお、私たち観客の怠惰な精神を叩き起こす挑発的な作品を発表し続ける彼は、他を圧倒して世界最大の映画作家だと言える。しかも彼は挑発的作品を、ある程度メジャーな立ち位置から発信し続けており、彼の新作はそれが発表されるだけでひとつの事件だ。どこかの慌て者がその名声に目をつけ、当世流行の炎上商法とやらでひと稼ぎしてやろうとサモしいアイデアを思いつき、『グッバイ、ゴダール!』(2017)などという救いようのない伝記映画の駄作を作って世界中の失笑を買う、といった一幕が演じられる程度には、ゴダールが依然として「時の人」たり得ているらしいのだ。

 新作『イメージの本』を簡便に説明するなら、総尺6時間超におよぶ大作『映画史』(1998)以後、顕著となってきた古今東西の映画、絵画、写真、音楽、文学の引用をコラージュし、行きつ戻りつ、せわしなく場面から場面へとジャンプし、カットし、ペーストしていく、そうしたアーカイブのストップ&ゴーが、ここでもくり返されている。『ゴダール・ソシアリスム』(2010)、『さらば、愛の言葉よ』(2014)ではまだかろうじて行われていた出演者を起用した新撮が、『イメージの本』ではほとんど見られなくなり、ここでは地中海をのぞむチュニジアの実景くらいしか残っていない。あとは、ただただ無手勝流のアーカイブのストップ&ゴーに、観客はとにかく気合を入れて臨むことになる。開始のホイッスルを鳴らすのはスコット・ウォーカーの「Cossacks Are」。くしくもアニエス・ヴァルダの死のちょうど一週間前となる3月22日に死去したこのロックシンガーが、2006年にイギリスのポストパンク=ニューウェイヴ・レーベル「4AD」からリリースした傑作アルバム『The Drift』の1曲目だ。

 ゴダールは観客が安直な感動へと流れないよう、映画内を逃げ回る。美しい音楽は鳴らされたと思うと、観客が「きれいなメロディだ」と感じ入ったそばから切断され、画面という画面は元のオリジナルの痕跡を留めないほど毒々しく不自然な着色で汚しをかけられる。夥しい量の書物からの引用が読み上げられ、画面と関係づけられたり、離反したりしながら騒々しく乱れ飛んでいる。83分間の上映時間は音と画面の洪水だ。にもかかわらず、ゴダールはぬけぬけと次のように語っている。

「ガレルは言葉なしの映画を作っています。思い切りがいい。ただ、ぼくの作っているものも、どちらかと言えばサイレント映画なのです。音はたくさん入っていますが、テクストに意味はありませんし、言葉の選択も……。(中略)ぼくは言葉が好きなんですよ。それらはシェイクスピア劇に出てくるいたずら好きの小妖精みたいなものです」(今年2月に邦訳が刊行された『ディアローグ デュラス/ゴダール全対話』より)

 ゴダールに言わせればこの音+映像の洪水もサイレント映画の一種なのだそうだが、もしそれが「いたずら好きの小妖精」のしわざだとすれば、いくつものアナグラムが乱発されてきたのも頷ける。前作『さらば、愛の言葉よ』の原題『Adieu au langage(アデュー・オ・ランガージュ)』の中の「Adieu(さらば)」が「A dieu(ああ神よ)」に解体される。それはあたかも神に対して決別を宣言したかのようにスキャンダラスに受け取られるだろう。小妖精の飛び回りによって言葉は解体され、それ本来の意味が剝離し、まったく異なる文脈が浮上してしまう。たとえばオーディオ(audio)の語源はラテン語の「私は聴く(L.audire)」らしいけれども、au+dioに分解してしまえば、「私」が教会にいてdio(神)の声を聴くというニュアンスさえも嗅ぎつけ得るのだ。

 21世紀に作られたあらゆる映画の中で最も美しい映画のひとつであり、ひたすら痛ましく、また清雅簡潔な作品『アワーミュージック』(2004)の中で、ゴダールは登場人物に「アメリカ先住民は世界のことを“森”と呼ぶ」と発言させていた。ゴダールはアメリカ先住民に倣い、映画を森とする。これまでのゴダール映画に頻出したマテリアルーー自動車、列車、カフェ、ホテル、ガソリンスタンド、スタジオ、空港、フェリーetc.ーーは世界の中継地点であるがゆえに、常に重要さを保っていた。新作『イメージの本』でも、第1章の冒頭でF・W・ムルナウ監督の名作『最後の人』(1924)のホテルのドアマンが登場し、第3章は丸ごと列車のイメージに捧げられている。それらのマテリアルは常に中継地点であり、接続詞でもある。

 「イメージの本(Le livre d’image)」における前置詞「の」はいつでも平然とした顔で接続詞「と」へと代置可能である。「イメージの本」は「本のイメージ」と反転させることも、「イメージと本(Le livre et l’image)」へと代置することも可能であって、また「本」は「森」に代置することさえも可能であり、「イメージの本」はいつでも「イメージの森」へとメタモルフォーゼを果たすだろう。じっさいこの映画の観客は、小妖精がいたずらっぽく招き入れた森の中で前後不覚となりながらも、散策をやめない失踪者だと言えるのではないか。そしてそれこそまさに、「アメリカ先住民は世界のことを“森”と呼ぶ」ことの意味ではないか。(荻野洋一)