杏沙子が描く、“自分の心に素直な歌” 松本隆が与えた作詞への影響をふたりの出会いから読む
音楽
ニュース
4月14日に神戸で開催された『トアロード・アコースティック・フェスティバル2019』。三宮~元町間にある神戸・トアロード界隈のカフェ、旧小学校、元キャバレー、ライブハウスを会場にしたこのライブサーキットに、今年もベテランから新人まで数多くのアーティストが出演したわけだが、2月に1stアルバム『フェルマータ』を発表したシンガーの杏沙子も出演(会場はTHE PLACE KOBE)。そのステージをあるひとりの有名な作詞家が客席から観ていた。
その作詞家とは松本隆。杏沙子の憧れの人だ。終演後、ふたりは初めて対面し、記念写真もパチリ。松本はあとでこうツイートした。
「大学の卒論で松本隆論を書いて、先日、NHKのcoversでルビーの指環を歌ってくれた杏沙子が神戸のアコフェスで歌うという。朝ご飯も食べずに聴きに行ったらケチャップの歌を歌ってた。終演後、挨拶したら泣かれてしまった。なんて自分の心に素直な歌なんだろう」
それを受けて、杏沙子は次のようにツイート。
「松本隆さんが、ライブに来てくださいました。本当に、うれしい。小さい頃から憧れ続けた人に、自分が歌い手になって、こうして歌を聴いてもらえて、お会いできるなんて。胸がいっぱいで苦しいです。自分の心に素直に、これからも歌い続けます」
杏沙子がどれほど松本隆の詞を好きで、多大なる影響を受けてきたか。昨年のメジャーデビュー前に筆者が初めて杏沙子にインタビューした際、彼女はそれを熱く語っていたので、苦しくなるほど「胸がいっぱい」になったのはよくわかる。では、どのように憧れ、どのような影響を受けてきたのか。ここで改めてそのインタビュー(音楽ナタリー/2018年5月18日掲載)を振り返っておこう。
杏沙子は1994年、鳥取生まれ。母親が松田聖子が好きで車のなかでよく曲をかけており、幼少の杏沙子はよく母親と一緒に歌っていたそうだ。特に好きだったのが「瞳はダイアモンド」。作詞はもちろん松本隆である。以降、彼女は「言葉が心に入ってくる歌が好き」になり、洋楽よりも日本のポップスを好んで聴くように。そして大学に入ってから改めて松田聖子の曲をじっくり聴き返したと言う。「それで“ああ、いい歌詞だな”って思ってクレジットを見てみると、どれも松本隆さんが書かれていて。そのときはまだ松本隆さんのことを知らなかったから、こんな歌詞が書ける人はどんな人なんだろうと思って、そこから松本隆さんが詞を書かれた歌をいろいろさかのぼって聴くようになりました。そうしてどんどん松本隆さんの世界が好きになって、大学の卒論で私、松本さんについて書いたんですよ。それを書くにあたって、松本さんのエッセイを読んだり、NHKの番組を観たりもして」
その卒論の内容は、次のようなものだったと言う。
「松本隆さんの歌詞を書かれた松田聖子さんのシングル曲を全部自分なりに分析して、“これはこういう風景を表わしている”とか。あとは言葉と言葉の共通点を探したり。ほかにも松本隆さんの書かれた作品をいろいろたどっていきながら、自分なりの解釈で歌詞分析をしていったんです。その中で、はっぴいえんどの「風をあつめて」も好きになりましたし。あと太田裕美さんの「木綿のハンカチーフ」とか、薬師丸ひろ子さんの「探偵物語」とかも」
では松本隆の歌詞のどういうところにそれほど惹きつけられたのかと聞くと、彼女はこう答えた。
「風景の描写の仕方ですね。卒論のタイトルも「松本隆の風景」って付けたんですけど、どの曲を聴いても風景が感じられるし、色まで感じ取れる。でもそれはガチっと固定されたものではなくて、聴く人それぞれが思う風景だったりする。松本さんも“どの人も寝転ぶことのできるハンモックみたいな歌詞を書くことを意識している”というようなことをおっしゃってましたけど、まさにそんな感じで、自由に感じ取れる余白があるんですよね」
そのような作詞家・松本隆は、言わば杏沙子にとっての心の師匠。そんな人が自分のライブに足を運び、終演後に突然目の前に現れたのだから、そりゃあ驚きと感激のあまり泣いてしまうのも無理もない。ちなみに松本がツイートで触れていた“ケチャップの歌”というのは、杏沙子が作詞作曲した「ケチャップチャップ」のこと。NHK『みんなのうた』で放送中のこの曲を、杏沙子は「オムライスを作ろうとしたらケチャップだけがない!ケチャップを買いに行こうと出かけている時に、“ケチャップチャップチャップ”と口ずさんで」ーー作ったのだそうだ。
さて、そんな杏沙子の、今のところ代表曲とも言えるのが「アップルティー」だ。もともとインディーズでのデビューシングル『道』(2016年7月リリース)のカップリングに収められていた曲で、そのMVが中高生の間で人気となった(YouTubeオフィシャルチャンネルで注目を集め、再生回数は2019年4月の時点で約600万回)。そして今年2月発表の1stアルバム『フェルマータ』にも再レコーディングした新バージョンを収録。杏沙子はビクターのサイトにアップされたセルフライナーノーツで、この曲についてこう語っている。
「実体験ではないけど、高校時代のあのキラキラした青春っぽさを曲に落とし込みたいと思って書いた曲。日常のふとしたことから妄想を膨らませて物語にするのが好きで、これもそうやって作った1曲です。もともとインディーズで2016年に自主制作したシングルに収録されていた曲だけど、新しいエッセンスを加えて再レコーディングしました。ちょっとロックっぽい要素も加わったし、歌い方も変えている。前の歌い方を残すのではなく、今の自分が歌いたいように歌ったら、こうなったという感じですね。もともとYouTubeやSNSで中高生のみなさんにいっぱい聴いてもらえた曲だったけど、今回、少し大人の味も加わったかな。アップデートされて、心地いい変化のニューアップルティーになったと思います」
展開のある弾んだポップメロディに乗せて杏沙子が快活に歌うこの曲は、母音のしっかりした発音もあって、聴けば言葉が耳に残るもの。作詞作曲は杏沙子自身で、なるほど松本隆の影響あってか、ちょっとした描写から風景が見えてくるし、季節感や温度までもが主人公の感情の動きと共に伝わってくる。例えば〈きんこんかん いつもより明るい鐘〉という歌い出し。「あなた」のことを考えれば毎日聴いている鐘もいつもより明るく聴こえ、続く〈ほらね たぶん スカートもちょっと短い〉で気持ちの軽やかさを表現。2番の同じ場所では〈きんこんかん あたしの背中押す鐘〉というふうに、1番で明るく聴こえていた鐘の音が今度は自分の背中を押す役割を果たし、〈ほらね ぎゅっと ポニーテール結んで〉で「あなた」と会う前の期待感、高揚感を表現する。そして「あなた」とふたりでの帰り道の場面では〈りんご色に染まるふたり 溶けてゆくの 真夏の空に〉。そう、ふたりの幸福感に色がつき、その色が曲の表題とも繋がりながら、その瞬間の感情の高まりと景色の広がり(つまりは希望のようなもの)までも伝えてくるのだ。〈今までで一番甘い夏〉。〈今までで一番暑い夏〉。それは一瞬の夏だが、きっと“彼女”のなかで永遠の夏としても記憶されるに違いない。と、そんなことをも思わせる。
そんな「アップルティー」は、1月から『JTBついてる!Hawaiiキャンペーン』のCMソングとしてオンエア中。これから夏に向けてさらに見る(聴く)回数も増えることと思うが、述べてきたような杏沙子の歌詞に注目すれば、曲の輝きの印象もまた少し違って感じられるはずだ。
そして、「アップルティー」を気に入ったなら、デビューミニアルバムの表題曲「花火の魔法」や、同作に収録されていた「流れ星」も続けて聴いてもらいたい。「アップルティー」とはまた違った切り取り方による“一瞬の夏”の歌で、いずれも青春時代の甘酸っぱさとほろ苦さが感じられる。夏と杏沙子。その相性はどうやらとてもいいようだ。
「言葉を大事にしたい」と、インタビューでも何度かそう話していた杏沙子。それはそもそも松本隆の作詞によるさまざまな歌を聴いて芽生えた思いだっただろうが、その松本隆が彼女の生歌を聴いて「なんて自分の心に素直な歌なんだろう」と感じ、それをツイートしたことは、きっと彼女の自信や確信にもなっただろう。そんな「自分の心に素直な歌」は、「アップルティー」も収録されたアルバム『フェルマータ』でもいろんな形で味わえるし(「とっとりのうた」がまさに!)、これからも杏沙子はそういう歌をたくさん聴かせてくれるに違いない。
(文=内本順一)
■リリース情報
『フェルマータ』
発売:2019年2月13日
初回限定盤:¥3,200(税抜)
ぐるぐるリングノートデラックス盤(縦15cm×横21cmのリング綴じノートタイプ)
通常盤:¥2,700(税抜)
〈収録曲〉
01着ぐるみ
02恋の予防接種
03ユニセックス
04チョコレートボックス
05よっちゃんの運動会
06ダンスダンスダンス
07アップルティー
08半透明のさよなら
09天気雨の中の私たち
10おやすみ
11とっとりのうた