【ネタバレあり】『名探偵コナン 紺青の拳』“基本キャラ設定の封印”で見えること 作り手の狙いとは
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昨年の『ゼロの執行人』の際に、「ほとんど“何でもあり”に近いものをやるために、それ以外の部分を締めすぎるほど締めるという生真面目なスタンスが、どことなくここ数年のハリウッドの超大作映画と似通っている」と、回を重ねるごとにそのスケールが大きくなっていく劇場版『名探偵コナン』シリーズを論じた(参考:“子供向け”のレッテルを超越! ハリウッド超大作に匹敵する『名探偵コナン ゼロの執行人』の凄さ)。ここのところ、何にでも付随してしまう“平成最後”という便利な触れ込みが伴った『名探偵コナン 紺青の拳』もまた、まさにその“何でもあり”と“締めすぎるほど締める”という部分を極めた作品になっていたことは言うまでもないが、それと同時に、原作の連載開始から四半世紀つづく長寿シリーズが依存してしまいがちな“キャラクター設定”という部分を、見つめ直そうというねらいを感じることができた。
※以降、一部ネタバレあり
今回の物語の舞台は劇場版シリーズでは初となる海外・シンガポール。早速ここで“何でもあり”の要素を発揮する。それは、高校生探偵・工藤新一から子供の姿になってしまった“江戸川コナン”という戸籍上存在し得ないはずの主人公が、いかにして日本の国外に出国するのかという疑問だ。とはいえ、これまでのテレビシリーズを知っている人であれば、過去にコナンがロンドンに行ったエピソードや、今年の年明け最初のテレビ放送で描かれたエピソード「紅の修学旅行」の中でも登場した“解毒剤”を使い、本来の工藤新一の姿に戻ることができるというのは理解していることだろう。とはいえ年々新規ファンが増加し、劇場版のみを観るという層も増えていることを踏まえると、この点にいかにして整合性を持たせるかがひとつの課題であったことだろう。もとより“子供向けアニメ”として定義されている本作だけに、劇中で表立って語られる情報量はあまりにも多い。しかしながら“全年齢向けアニメ”として毅然と確立するようになったからには、それ以上の情報過多を避けなくてはならないからだ。
その結果、冒頭からコナンが灰原哀に解毒剤が欲しいとお願いするも、それを拒否されるというシーンが組み込まれることで解毒剤の存在が周知のものとなるわけだ。けれどもそんなタイミングで、自身に向けられた濡れ衣を晴らすためにコナンの協力を必要とした怪盗キッドが、特殊なキャリーケースの中にコナンを閉じ込めてシンガポールへとすんなりと運び込む。じつに荒っぽい方法ではあるがこの一連のくだり、解毒剤が存在することと結果それを使わずにキッドによってシンガポールへと連れていかれることは、本作におけるキャラクター設定の“動き”をより強固にする役割であったといえる。前者は新一と蘭の関係性に進展があった前述の「紅の修学旅行」との明確なリンクを持たせること、後者はコナンとキッドの関係性(新一とキッドの見た目が同じという部分も含めて)を再定義させるきっかけとなる。
さて、そのシンガポールのシンボルともいえるマリーナベイ・サンズで起きた殺人事件と爆破事件に端を発し、現場に残された怪盗キッドの予告状と伝説の宝石と称される“ブルーサファイア”をめぐる事件にコナンと、そしてキッドが巻き込まれていくというのが今回のメインプロットだ。大規模な爆発(ほとんどシンガポールという国の大半を壊滅させていると言っても過言ではない)と、複数の方向へ張り巡らされた罠の数々。一見するといつもと同じような“コナン映画”の様式美が成立する反面、何かがいつもと違う。それこそが、コナンとキッド、主人公格となるキャラクターの描かれ方という部分に他ならない。
コナンは劇中の大半を何の変哲もない現地の少年“アーサー・ヒライ”として過ごす。もちろん観客にはそれがコナンであることは百も承知しているわけだが、おなじみのガジェットを持たずして事件に挑む(登場するのはここぞといった場面で登場するサッカーボールと麻酔銃ぐらいだっただろう)ことで、よりファンダメンタルに頭脳を駆使した探偵としての活躍を余儀無くされるわけだ。一方で“月下の奇術師”怪盗キッドは事件の重要な容疑者として殺人の濡れ衣を着せられたり、ライバルである京極真の台頭によって、華麗に盗みを働くことができないことで本来の彼らしさを制限されることと引き換えに、新一としてごく限られた周囲の人物を欺きながら過ごすことが可能になる。
そのような基本設定の封じ込めによってスクリーン上にあらわになってくるのは、そのキャラクターの上辺にとらわれることのない人間としての性分であろう。劇場版ではお馴染みの、蘭を守ろうとするコナン(新一)の姿であったり、稀代の怪盗としてではなくコナンの良きライバルとしてで存在する怪盗キッド。また、京極真が400戦無敗という記録の持ち主でありながらも大事な試合を放棄したり、その自慢の拳を最後の最後まで封印してしまう姿からも、この3人の男たちを主軸にした本作が、従来の謎解きミステリー+大スペクタクルというコナン映画の“上辺”を突き破り、さらにその奥深くにある一人一人のキャラクター性を重視しようとしていることが見て取れる。
もちろん、映画史全体を見渡せば長く続くシリーズ作品は数多あり、その中途において基礎的な部分に立ち返ってキャラクターの個性やバックグラウンドなどを冷静に描写し、定義し直すことも珍しくはない。しかしそのほとんどが、低迷期のテコ入れとして用いられてきただけに、現在の『名探偵コナン』シリーズのように年々その人気を高め、観客の多くが“いつも通り”を期待している中で行われるというのはかなりチャレンジングなことだ。これが劇場版としては23作目。あらかじめマンネリ化が訪れる前に、アニメーション作品において最も重要であるキャラクター関係に動きを与えるという策略は、よもや今年こそ興行収入100億円という大台へと導くという、作り手側の気概なのかもしれない。 (文=久保田和馬)