『名探偵ピカチュウ』のピカチュウは実写映画における映画スター! その“かわいさ”が意味するもの
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「かわいい! ピカチュウかわいい!」の声が、鑑賞した人々から聞こえてくる。映画作品における一つのキャラクターが、ここまで広く賞賛を浴びたことが近年あっただろうか。
参考:『名探偵ピカチュウ』最大のキモは完璧に実写化されたポケモンたち 1種ごとに異なったアプローチ
ビデオゲーム、カードゲーム、TVアニメや劇場用アニメ、スマホのアプリなど、日本のみならず海外で広く楽しまれている、“ポケモン(Pokemon)”こと『ポケットモンスター』。その実写映画版が初めてハリウッドで製作されたのだ。しかし、この企画で驚かされるのは、ピカチュウに焦点をあてた番外編といえる同名のゲームタイトル『名探偵ピカチュウ』を基に、製作費約150億円ともいわれる巨費が投じられたという事実である。
ここでは、本作『名探偵ピカチュウ』映画化にどのようなねらいがあったのか、そして、ピカチュウの尋常ではない“かわいさ”が意味するものを考察していきたい。
ゲーム作品『名探偵ピカチュウ』が今回の映画のベースに選ばれたというのは、ポケモンをアメリカで実写化するのに適した、いくつもの理由があったように思われる。もともとのシリーズに存在した、“ポケモン図鑑の完成”という目的や、ポケモントレーナーとしての成長物語は、一つの映画の尺にまとめるのは難しい。
であれば、すでにアメリカで確立されている探偵映画としてのジャンルを利用し、それを柱にすれば、安定した出来になることが期待できる。とはいえ、バトルやアドベンチャーなど、本来の『ポケモン』の魅力を部分的にとり入れていることから、実際には『ポケモン』カルチャー全体を題材にしようというねらいがあることも明白である。
そして、さらに重要だと思われるのは、本来のシリーズにある、“人間がポケモン同士を戦わせる”という、『ポケモン』の核となる要素をメインに置くことを避ける意図があったのではないだろうか。
「『ポケモン』世界で行われていることは動物虐待ではないのか」という疑問は、いままで何度も持ち上がってきた。実際にある動物愛護団体が、現実の動物虐待へとつながりかねないような思想的問題があることをキャンペーンで訴えたこともある。野生のポケモンを捕まえ「モンスターボール」に閉じ込め、闘鶏のように見える「ポケモンバトル」において呼び出すという、もともとゲームが行ってきた行為が、人間の都合を優先させ、ポケモンを道具のように扱う“虐待”のように見えるというのである。
このような批判を回避したり、倫理的な作品であろうとするため、製造元の任天堂は人間とポケモンが共生しているということを強調し、アニメ版でも、本作で見られたような“ポケモン自身の意志”が重要だということを描いたり、「モンスターボールの中はポケモンにとって快適」などというような設定上での工夫がとられてきた。とはいえ、批判者にとってそれらは帳尻を合わせる言い訳に過ぎないと感じられる部分もあるだろう。ポケモンブームが到来しながらもアメリカで映画化しづらかった理由は、このあたりにもあるのではないか。『ポケモン』の送り手側の設定したあれこれを受け入れるにしても、それらを丁寧に説明しなければ虐待に見えてしまうというのでは、公開後に問題が起きる可能性がある。
そういう視点から本作を見れば、さらに周到に批判を受けないような策がはりめぐらされていることが分かる。本作では、たしかに競技としてのポケモンバトルは存在するようだが、画面の中に登場するのは、あくまで通常であれば認められない違法な地下バトルである。そしてジャスティス・スミス演じる少年が、自分自身も死のリスクを承知でピカチュウを助けようとする描写を加えている。
これによって、本作はバトル自体の危険性や残酷さを描くことにより、批判的な視点を作品中に先回りして置いておく。そしてポケモンはバトルの道具ではないということを観客に印象づけていくのだ。逆にいえば、人間とポケモンとの関係について、ここまで繊細に気を配ることで、現在のアメリカ国内や世界中で広く公開できるハリウッドの子ども向け映画として、やっと成立させることができたといえるだろう。
では、このようにポケモン本来の楽しみ方を、ある程度回避しながら、それでもなお本作が強い魅力を持つためには、どうすればいいのか。それこそ本作が、その精神的な柱を、人気ポケモンをフィーチャーした『名探偵ピカチュウ』に選んだ、もう一つの理由であろう。つまり、ピカチュウという存在に魅力を集約させるということである。
たしかに本作には、オリジナルの『ポケモン』へのリスペクトを感じることのできる描写がたくさんある。ピカチュウを含め、ポケモンたちのデザインや、CGによる表現力によって、もともとのデザインを活かしつつ、さらにそれを立体的に造形し直し、リアリティあるヴィジュアルや動きを作り上げている。だが、そのなかでもピカチュウだけは注力のレベルが異なる。これは、多くの観客の想定外の領域に突入していたのではないだろうか。
公開前、ピカチュウの姿が静止画として出回ったとき、CGによって立体化され、顔にシワが刻まれた表情に注目が集まり、「気持ち悪い」などと違和感を露わにする反応もあった。そんな評価が生まれたというのは、おそらくいままで慣れ親しんだピカチュウのデザインが、平面的でシンプルなものだったからであろう。それが本作では、体毛やシワの表現も含め、現実世界に馴染むようなものとなった。つまり、オリジナルに敬意を払いながらも、根本的には違うものとなっているのだ。
例えば日本のアニメーションにおけるピカチュウは、かわいいとはいえ、実際に現実世界に存在するようなイメージができないほどにイラスト的である。そのかわいさを理解するためには、まずデフォルメされた世界観や手法を受け入れるという段階を、頭の中で踏まなければならない。そのような見方に慣れてない観客からすれば、現実の犬や猫、ねずみなどのペットに近い、実写版ピカチュウのかわいさの方が自然に受け入れやすいはずだ。だから、いままでのピカチュウに対して、とくに興味を持っていなかったような人でも、今回のピカチュウの魅力にノックアウトされるケースが多く見られることになったのだ。
そんなピカチュウの実体感に大きく寄与しているのが、俳優の動きをCGアニメーションの動きに同期させる「モーションキャプチャー」である。今回、ピカチュウの声を担当しているライアン・レイノルズは、その表情をも担当し、彼の演技はピカチュウに反映される。つまり我々は、ピカチュウの表情にため息をつくときに、レイノルズこと中年男性の表情を間接的に眺めているのである。ある意味でそれは、CGで作られた最新の「着ぐるみ」のようなもの、もしくは“魂のある人形”だといえよう。
先立って公開された『アリータ:バトル・エンジェル』は、俳優の姿かたちや動きをモーションキャプチャーによって克明に再現しながら、主人公であるサイボーグの少女の瞳を、生身の人間としてはあり得ないような大きさで表現した。技術の進歩が、実写映画における新しいヴィジュアルを、自然な演技のなかで映し出すことに成功している。その意味では、本作のピカチュウもまた、かつてない領域に踏み出すキャラクターとなっているのである(参考:『名探偵ピカチュウ』『シン・ゴジラ』……“モーションキャプチャー”が可能にする新時代の映像表現)。
人間を危険にさらすことも可能な電撃技を持つピカチュウだが、本作では、ちょっと高いところから降りるのに、おそるおそる確認しながらの仕草を見せたり、上目づかいでウルウルとした瞳を人間に向けたりなど、“かわいさ”を強調する工夫が、あらゆる角度から徹底的にとられている。アメリカでは、日本における“かわいさ”を珍重するポップカルチャー、いわゆる“Kawaii”がすでに浸透しているが、今回は物量をもってして、その分野で日本の限界を凌駕してしまった感がある。
近年、映画作品のなかには多種多様な魅力を発生させようという努力が見られ、映画スターの姿にうっとりするために映画館に足を運ぶという価値観は、健在ではあるものの、以前より希薄になってきているといえる。そんな状況下において、「もっとピカチュウを見せてほしい」という、強い欲求を少なくない観客に感じさせるというのは希有なことだ。本作のピカチュウは、様々な工夫と技術が集結して再び創造された、実写映画における紛れもない映画スターである。(小野寺系)