ナカハラの佇まいに共感の嵐 『愛がなんだ』テルコの“盲信”を際立たせた若葉竜也の名演
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誰もが経験するであろう、恋愛の苦い側面を幸福感いっぱいに描いた今泉力哉監督の『愛がなんだ』。主人公テルコ(岸井ゆきの)は“好きな人”であるマモちゃん(成田凌)を想う気持ちが止められず、仕事も手につかない日々が続く。しかしマモちゃんにはすみれ(江口のりこ)という好きな人がいる。テルコの友人の葉子(深川麻衣)はテルコの恋愛に苦言を呈すものの、自分はナカハラ(若葉竜也)という年下の男の子を振り回している。誰もが叶わない恋心を抱き、悪意のない世界で傷つけあっていた。
本作で特に多くの人がその佇まいに共感したとの声が多かったのはナカハラだった。SNSなどでは、「自分はナカハラに似ている」という声も散見された。ナカハラは葉子のことを「(自分のことは)さみしい時に呼んでくれればいい」と割り切った関係だと話す。成就したいわけでもない、高望みはしない、ただ自分が好きだから側にいたいだけだと言わんばかりに葉子にブンブン振り回される。テルコが葉子の家に来るとなれば、夜中だろうと追い出され、年末は実家に呼ばれ葉子の母と餃子を作らされる。葉子が忙しい時は、母親やテルコの相手までさせられている始末だ。しかしナカハラはそんな自分を呪ったりはしない。葉子の支えになれればと献身的に尽くすのであった。出過ぎることはなく、奢ることもない。困ったように笑う瞳の奥が泣いていても、葉子の元に駆けつけるのがナカハラなのだ。
ナカハラを演じたのは若葉竜也。大衆演劇出身の俳優で、幼少期にチビ玉三兄弟として話題をさらった。『愛がなんだ』ではどこか自信なさげで繊細な青年・ナカハラを演じているが、実は俳優キャリアの中では『ごくせん 第3シリーズ』(日本テレビ系)の不良少年や映画『葛城事件』の殺人犯などナカハラとは程遠い役柄が多い。キリッとした目と、明るい髪色、無精髭、少しふっくらしたほおでワイルドな風貌にしているのだ。しかし『愛がなんだ』では一変、華奢で黒髪、髪ももっさりと伸ばしっぱなしで目尻を下げて悲しそうに笑い、とても誰かに食ってかかる姿など想像もできない。若葉の表現したナカハラは、とにかく表情と間合いが特徴的であった。
河口湖にみんなで旅行に出かけたシーンで、ナカハラは葉子との関係をすみれに詰められる。そこで怒りをグッと抑えながら、お酒を飲み、その場をしのぐ様子の緊張感は若葉がリードした芝居だろう。本当は心底怒っているのだ、という表情の微妙な変化と、小道具であるお酒を使った巧妙な芝居は、実にナカハラを象徴させる気弱で神経質なはっきりと表していた。ナカハラはこのすみれとのやりとりをきっかけに、決心する。
ナカハラは、葉子のことを「寂しくならない側の人」とテルコに話す。葉子が寂しくならない人だからナカハラは惹かれるし、それゆえに葉子はナカハラを必要としない。それを聞いたテルコは、後々葉子に真相を確かめに行くのだが、葉子はそれを聞いて「私をなんだと思っているの」と怒りを露わにするのであった。この作品では、テルコにしか見えないマモちゃんや、ナカハラにしか見えない葉子が存在する。葉子の怒りは、自分の理想を押し付け、愛情で包み込んだ信仰対象が、無意識に感じていた息苦しさを見事に表していた。
葉子が悪く言われてしまうくらいなら、自分は身を引くと話したナカハラ。結局はテルコの言う通りに、手に入らないから諦めたのか、本当に葉子を思って身を引いたのかは定かではない。しかし前を向いて建設的な時を歩むためには、必要な決断であった。ナカハラの英断に、過去に自分が決別してきた恋愛を重ねた鑑賞者も多かったのではないだろうか。
ナカハラの弱さは、一般的で親しみやすい。報われない恋というのは、普通はいつか心が折れる。テルコのように盲信的に愛を突き詰めていくパワーなど到底湧き上がらない。ナカハラのスタンスは誰よりも鑑賞者に近く、そしてテルコのパワーに当てられてしまう様子を投影した存在なのだ。この作品に若葉が演じるナカハラがいたから、テルコの凄まじい愛のパワーと、狂った恋の渦が顕著に浮かび上がる。渦中でいながら、客観的な、重要な役であった。
『愛がなんだ』は誰にとっても「問いかけ」を感じてしまう作品だろう。共感を楽しみ、自分と違う部分を楽しみ、たまに自分に問いかけてしまう。愛することや、好きになることの正解を、そんなものは存在しないのに追い求めようとしてしまう。この作品を観ている間は、そんな束の間の追いかけっこが許されるのだ。答えなど出なくても、大切にしたいと思う時間と出会える作品だ。
(Nana Numoto)