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PFFグランプリ『オーファンズ・ブルース』が描く“永遠の夏” 青春の道の先に待つものとは

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リアルサウンド

 「宇宙は細くなってく」――。路上で古本を売りながら海沿いの町に暮らすエマ(村上由規乃)は記憶に問題を抱えており、彼女の住む部屋の壁には付箋のメモがおびただしく貼られている。「宇宙は細くなってく」とは、ややもすると見過ごしてしまいそうな、そのメモの中の一枚に記された言葉である。とりわけファーカスされることもなくさりげなく掲げられたこの言葉は、本作『オーファンズ・ブルース』のアフォリズムであるかもしれないことにふと気が付く。記憶が、脳が、その人の一つの小宇宙を形作るのだとすれば、忘却の宿命を背負わされたエマの小宇宙は、未来に向けて小さく縮んでいくばかりだろう。そう、確かに彼女の宇宙は細くなっていく。

参考:鮮やかな場面写真

 映画の序盤には淡々とエマの日常生活が描かれ、説明も十分になされぬまま、幼なじみのヤン(吉井優)が描いたゾウの絵を頼りにしてヤン探しの旅が始まっていく。まるですでに起こった何かを見逃してしまっているような、すでに話された何かを忘れてしまっているような、そんな断絶の表情を垣間見せる映画のトーンが、記憶が抜け落ちながら生きるエマの感覚を私たちにも追体験させる。

 映画の最初のショットでカメラが背中越しから女の首筋をとらえると、汗の水滴が付着した肌がクロースアップで映し出される。映画は掉尾まで流れる汗を執拗に活写するが、この汗の表象には二重の意味が持たされている。記憶と現実の境界線が曖昧になっていく映画の主題の中で、暑さに流す汗はそこで描かれる季節が夏であることを強調する。また、映画の関心が役者の身体に向けられていることをほのめかしもする。セリフで多くを語るよりも、役者の所作で物事を伝えようとする、その表明として。

 あるいは、ここにレオス・カラックスとの共鳴関係を読み取ってみてもいいかもしれない。『レオス・カラックス 映画の二十一世紀へ向けて』(1992年、筑摩書房)を著した鈴木布美子は、同書において「『汚れた血』とは、いたるところで誰もがキャメラに向かって無意識の背中を晒している映画」だと述べる。『オーファンズ・ブルース』が無邪気に投げ出されたエマの汗ばんだ背中から始まるように、それぞれの回想の中のヤンの姿が総じて背中だったように、本作でも人物の背中が幾度もカメラの前に現れる。映画は表情でもなく言葉でもなく、役者の身体が物語るような表現様式を志向していることが見てとれる。

 そして、エマが自室の壁にメモを貼っているように、カラックスの『ボーイ・ミーツ・ガール』(1984年)のアレックス(ドニ・ラヴァン)の部屋の壁にも起きた出来事と場所と日付のメモが手書きで記されたパリの地図が描かれている。もっとも本作は「ボーイ・ミー
ツ・ガール」ではなく、エマが幼なじみのヤンに会うため旅に出る「ガール・ミーツ・ボーイ」である。

 このように工藤梨穂の劇場デビュー作となった本作『オーファンズ・ブルース』には、レオス・カラックスをはじめとして、ウォン・カーウァイなど巨匠と呼ばれる映画作家たちに影響を受けたその感受性が素直に認められる。彼女は直接的に引用することすら厭わず、自らの映画史的記憶をそのフィルムに乱反射させながら、”日本映画”あるいは”女性映画”などと一言で括ってしまうことも憚れられるような独自性を泰然と放っている。

 映画がどこか非日常的な雰囲気を醸し出しているのは、その無国籍な空気感に拠るものだけではない。唐突に、そして何の脈絡もなく挿入されるいくつかの現実離れした鮮烈なショットもその雰囲気に加担する。たとえば、エマが歯磨き粉を出そうとしてなかなか出せずにいると次のショットでは部屋の中にいたエマと、ヤン同様に仲の良かった幼なじみのバン(上川拓郎)が草原の中に移動している。新緑が占める画面の中に佇む若者を目撃してただちに胃がキリキリと痛むような青春の刹那なる残酷さが想起されるのは、かつて岩井俊二が『リリイ・シュシュのすべて』(2001年)を、青春映画史に残したからかもしれない。

 本作が着想を得たという寺山修司の夏についての一節「夏は、終ったのではなくて、死んでしまったのではないだろうか?」が書かれた『ひとりぼっちのあなたに寺山修司メルヘン全集3』(1994年、マガジンハウス)にはまた、こんな一文がある。「青春というのは、幻
滅の甘やかさを知るために準備された一つの暗い橋なのだ」。

 終盤、バンとエマは二人乗りをしながら背中合わせで自転車を走らせる。同一の枠の中におさまりながら、そして同じ場所へ向かいながら、二人の視線はまったく正反対の方向を向いている。二人が走るその青春の道の先には何が待っているのか。何を知るために準備された道なのか。甘美な絶望と不安定な希望を同時に感じさせながら、二人は走っていく。時折エマとバンが懐中電灯やCDディスクでお互いに光を当て合い戯れてみせるのは、二人が寺山の言うところの“暗い橋を渡っている”ことに対する暗示なのかもしれない。

 夏にはじまり、夏に終わる映画。この映画における夏、それは記憶についての土壌であると同時に、青春についてのユートピアでもある。ひとたび季節が移ろえば、冬の寒さが夏の暑さを忘れさせてしまうように、冬が訪れたなら、きっとエマは誰よりも早く夏のことを忘れ去ってしまうだろう。だから夏は忘れ去られぬためにこそ、永遠に続いていく。夏はエマのほとばしる生を駆動する。消えていくエマの記憶の星雲の中に、会いたかった人は存在する。そして、だからと言うべきか、いやそれでもと言うべきか。宇宙は細くなってく。永遠に終わらない夏の中で。(児玉美月)