『暁に祈れ』地獄の中にしか生まれ得ない生の美しさーー充実の特典映像でその魅力は倍増に
映画
ニュース
仏教のシンボル、蓮は泥水の中でしかその美しい花を咲かさない。仏教の「蓮華の五徳」の教えの1つに「淤泥不染の徳(おでいふぜんのとく)」というものがある。これは、どんな心を持つ者に本当の信心が芽生えるのかを、蓮の花の特徴をモチーフに例えたものだ。淤泥とは泥水のこと、これは悪人の例えだ。悪がすくう心を持つ者にこそ、本当の善なる信心が芽生えることを、泥水の中でしか花をつけない蓮の花に例えたものだ。
そんな教えを持つ仏教が盛んな国、タイを舞台にした『暁に祈れ』はまさに蓮の花のような映画だ。誤解を招きたくないので最初に断っておくが、これは宗教映画ではない。泥水のように劣悪な環境だからこそ見いだせる生命の輝きが、この映画にはある。
本作の舞台となるタイの刑務所は、想像を絶する過酷さで知られ、劣悪な衛生状態の大部屋に何十人もの囚人が雑魚寝し、所内では暴力が日常茶飯事。時には殺人や強姦まで起こるが、刑務官たちには汚職がはびこり、麻薬すら流通している。本作は、そんな地獄のようなタイの刑務所に入れられてしまったイギリス人ボクサー、ビリー・ムーアの実話を基にした作品だ。
劇場公開時にはR15+指定となるほどにその描写は過酷であるが、露悪的なバイオレンス映画ではない。地獄の中にしか生まれ得ない生の美しさこそ本作の魅力なのだ。
●地獄のタイ刑務所を完全再現
本作を観てまず驚くのは、タイの刑務所の過酷さである。麻薬所持の罪で逮捕されたビリーが目にしたのは、全身タトゥーだらけの囚人たちであふれかえる想像を絶する環境だった。劣悪な衛生状態の部屋で何十人も押し込められ、朝起きたら隣の男が死んでいたりする。しかし、誰もそのことに驚きはしない、ここではそんなことは良くあることなのだ。ときには、殺人、強姦まで発生する。
そんな地獄と呼ぶにふさわしい刑務所内を再現するために、ジャン=ステファーヌ・ソヴェール監督は、直前まで刑務所として使用されていた建物でロケを敢行、さらに囚人役の大半を実際に服役経験のある元囚人たちに演じさせた。筆者は、本作の劇場公開時にソヴェール監督にインタビューさせてもらったが、ロケハンで訪れた時には、囚人服や切り刻まれた手紙、ナイフのように尖ったスプーンが散らばっていたという。また、元囚人たち聞いたエピソードも脚本に盛り込んだそうだ。
また、本作のDVD・Blu-rayの特典映像に、囚人役で出演した元囚人の一人のインタビューが収録されているが、本作で描かれる90%はリアルだと感じると語っている。本作は、全編、本物でなくては出せない迫力に満ちあふれており、リアリティ(現実性)があるというより、もはやリアル(本物)と言ってよい。
●暴力が支配する世界で見出したムエタイという希望
刑務所の過酷な環境で絶望していたビリーに再び生きる希望を与えたのはムエタイだった。刑務所内にムエタイのジムがあるのも驚きだが、これも事実なのだそうだ。ビリーは元ボクサーで、戦うことにしか生きる意義を見いだせない男だった。ボクシングとムエタイの違いに戸惑いながらも、頭角を現し始めたビリーは、地獄の刑務所で生きる実感を持ち始める。その這い上がる姿には、神々しささえ漂う。ムエタイでは、試合前にワイクルーの舞いで祈りを捧げるのだが、これは「師に捧げる感謝の舞い」なのだそうだ。ビリーの祈る姿には、まさに生命の輝きが感じられる。
本作が描きたかったのは、これなのだ。地獄の中でしか見つけることのできない生命の輝きというものがあるのだ。
本作を観る動機が怖いもの見たさでももちろん構わない。しかし、最後にはビリーの放つ生の美しさに打ちのめされることだろう。ただの地獄巡りツアーでは終わらない、人間の生命の強さと輝きを描く傑作だ。
●作品の魅力を拡げる映像特典の数々
本作のDVD・Blu-rayの映像特典は大変魅力的だ。我々の知らない現実を突きつける本作の内容を補完し、想像力を拡張してくれる。
まず本作の主人公であるビリー・ムーア本人のインタビューが収録されている。彼がどんな人生を歩み、タイに行くことになったのか、そして、自らの過ちによって収監された過去、さらにイギリスにおいても何度も収監されている彼が自らの人生を振り返るインタビューとなっている。時おり見せる、深い悔恨の顔が彼の歩んできた人生の苦しさを物語る。
そして世界の危険地域を取材してきたジャーナリスト、丸山ゴンザレス氏による現地レポートも非常に見応えがある。ロケ場所となった建物への潜入取材では、捨てられた囚人服や、壁に貼られたグラビア写真など、囚人たちの生活の跡が生々しく残った様子が映されている。さらにタイで弁護士活動をする日本人、金丸昌弘氏へのインタビューでは、タイの犯罪事情などを詳しく聞いている。本作の物語のきっかけは、ビリーが麻薬所持で逮捕されることだが、タイでは麻薬を手に入れることが容易であり、若者たちにとって身近な脅威であることなどがよくわかるインタビューとなっている。
さらに映画に囚人役で出演した男性や、本作のヒロインであるレディーボーイの女優、ポンチャノック・マーブグランにもインタビューしており、映画の描写がいかに本物志向であるかなどが語られる。特に、囚人役で出演した男性は、かつて殺人で終身刑となった本物の犯罪者であり、恩赦で釈放されたそうだが、インタビューだけでも本物の犯罪者が放つ異様な迫力がビシビシ伝わってくる。
ゴンザレス氏のレポートの中で、筆者が特に印象深かったのは、入れ墨彫師へのインタビューだ。ギャングたちが全身に入れている入れ墨は、サクヤン(護符入墨)と呼ばれる宗教的な意味合いの強い種類の入れ墨で、彫る際に行う降霊の儀式の模様も記録されている。サクヤンは、ギャングだけではなく、仏教の僧侶なども身体に入れていることもあるが、悪い宿縁などから身を守るという願掛けの意味もあるそうだ。そういった意味のある入れ墨を、地獄のような刑務所に入れられた囚人たちが全身に施しているのは皮肉にも感じるが、ギャングたちも、ただのアウトローの象徴として入れ墨を背負っているわけではないということなのだろう。そんな宗教的な側面について知ると、映画本編もまた違った一面が見えてくる。
総じて、映画本編をより深く理解するのに役立つ情報ばかりだ。映画本編は、平々凡々と生きる我々にとって未知の世界を体験さえてくれ、映像特典はその世界をさらに拡張してくれる。本編の魅力を高めてくれる理想的な特典だ。(杉本穂高)