すべての音楽好きにオススメ! 『ハーツ・ビート・ラウド』が「フィールグッド」な映画である理由
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舞台は2000年代インディーロックの中心地、ニューヨークのブルックリン。主人公はかつてプロのミュージシャンとして活動し、現在は街の小さなレコードショップを経営している中年男。一緒に音楽をやっていた妻を自転車の事故で亡くし、現在はティーンの娘と暮らしている。主人公はただでさえミドルエイジ・クライシスの時期を迎えているわけだが、レコードショップの経営が立ち行かなくなり、溺愛する娘はロサンゼルスの大学に進学するために親元を離れる決意をし、年老いて認知症を患う母親は万引きして警察に捕まるという、なかなかに「詰んだ」状況から本作『ハーツ・ビート・ラウド たびだちのうた』の物語は始まる。
参考:ジョン・カーニー監督はいかにして“音楽映画の名匠”となったか? そのキャリアを考察
邦題としてつけられたサブタイトル「たびだちのうた」はご愛嬌といったところだが、確かに、『ONCE ダブリンの街角で』『はじまりのうた』『シング・ストリート 未来へのうた』で日本でも連続してスマッシュヒットを飛ばしたジョン・カーニー監督作品と、本作のテイストは通じるものがある。恋人、友人、親子とその関係性に違いあれど、音楽制作を通じて人と人が心を通わせて再生への道を探っていく、いわゆる「フィールグッド・ムービー」の系譜。もっとも、同じ「フィールグッド」でもブレット・ヘイリー監督の『ハーツ・ビート・ラウド』はよりビタースウィート。最終的には音楽がもたらす「魔法」や「夢」を屈託なく(とりあえず作劇上では)信じてみせるジョン・カーニー監督作品とは違って、『ハーツ・ビート・ラウド』は抜き差しならない生活の中で、音楽の「魔法」や「現実」とどう折り合いをつけていくかがしっかりと描かれていく。
本作で何よりも出色なのは、リアリティとウィットに富んだその脚本だろう(ブレット・ヘイリー監督とマーク・バッシュの共同脚本)。大学進学を控えた娘を説き伏せて一緒にレコーディングした音源を、Spotifyに登録してこっそりとアップする父親。その曲がインディー系の人気プレイリストにフックアップされたことで、行きつけのカフェの店頭で流れているのに気づいて大興奮する父親の姿は、いかにも現代の音楽シーンにおけるサクセスストーリーを象徴する一場面(それに対する娘の「私に無断で曲をアップしたことで、訴訟を起こすこともできる」という冷めたリアクションも最高)。近年は若者を中心にアナログレコードが人気だとよく言われるが、ブルックリンのようなインディーバンドがたくさん住んでいるような街でも、主流となっているのはカフェを併設したような清潔でオシャレなレコードショップ。客がいても店主(=主人公)がタバコを吸ってるような、頑固オヤジ的なレコードショップは廃れていく。「すべての歌はラブソングでしょ」という娘に「いや、バットホール・サーファーズは違う」と返す父親(しかも着ているのはDJシャドウのTシャツ)みたいな、音楽ファンにとっては全編に散りばめられた小ネタもいちいち楽しい。
感心させられるのは、本作はそのキャラクター設定において異人種間婚姻やLGBTを含んでいるのだが、物語上それらのイシューがまったくと言っていいほど前景化することがないこと。例えば、娘から自分の恋人が女性であることを告げられた時も、父親は(少なくとも表面上は)それをごく自然に受け止めていく。そうやって、現代のニューヨークを舞台にした作品における模範的ガイドラインを嫌味なく示してみせるところも、本作が本質的な意味で「フィールグッド」な作品である理由だ。
そして、音楽映画において最も重要だと言える「音楽」そのものも、本作の「見所」となっている。主人公はよくいるクラシックロック至上主義のロックオヤジのようでいて、カメオ出演しているウィルコのジェフ・ トゥイーディーの来店に興奮を隠さず、意中の女性にアニマル・コレクティヴのアルバムについて熱く語るような、根っからのインディー好き。娘は娘で、YouTubeでミツキのライブ映像を夢中で見ているような新世代インディーの申し子。親子の音楽ユニットを描くとなったら、普通だったら世代間ギャップなどを面白おかしく描きそうなものだが、音楽制作に関してのやりとりや演奏のシーンは一貫してシリアス。クライマックスではまさにその音楽の力で、物語をエモーショナルな着地点へと導いてくれる。ジョン・カーニーの音楽映画にグッときたような人はもちろん、すべての音楽好きに自信を持ってオススメできる一作。(宇野維正)