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マイケル・ベイ映画の“ギラギラ至上主義”ーー大失敗の『アイランド』とスピルバーグからの打診

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 マイケル・ベイという1人の天才監督に迫る、高橋ヨシキによる連載「過剰な狂気ーーマイケル・ベイ映画の世界」。第2回は、ベイをどん底に叩き落とした映画『アイランド』の失敗から、彼の代表作となった『トランスフォーマー』誕生の背景について。(編集部)

 『トランスフォーマー』(2007年)はマイケル・ベイの監督人生において転機となった作品だ。いや、真の意味で転機となったのはひとつ前の『アイランド』(2005年)だった。

 劇場用長編デビュー作の『バッドボーイズ』(1995年)以来、マイケル・ベイはプロデューサーのジェリー・ブラッカイマーと常に共同で映画作りをしてきた。『バッドボーイズ』、『ザ・ロック』(1996年)、『アルマゲドン』(1998年)、『パール・ハーバー』(2001年)そして『バッドボーイズ2バッド』(2003年)は全てブラッカイマー製作作品である。

 企画先行型でない脚本のことをハリウッドでは「スペック・スクリプト」と呼ぶ。スペック・スクリプトはハリウッドを周遊魚のように泳ぎ回る。あちらのスタジオからこちらのスタジオへ、プロデューサーからプロデューサーへと。運が良ければ、力のあるプロデューサーが企画にゴーを出し、そこから製作がスタートするわけだが、多くのスペック・スクリプトの行き先はプロデューサーのオフィスのゴミ箱である(ゴミ箱に直行せず、引き出しにしまわれたまま長年に渡って塩漬けにされてしまうこともある)。

 カスピアン・トレッドウェル=オーウェンが書いた『アイランド』のスペック・スクリプトはジェリー・ブラッカイマー事務所のゴミ箱に投じられた。だがマイケル・ベイは『アイランド』に可能性を見出していた。『アイランド』は一種のディストピア的な未来SFであり、メインのテーマはクローン技術と生命倫理。ベイはこの作品を「爆発と破壊ばかりの商業監督」というイメージを刷新できるチャンスだと捉えたのである。

 そんなベイに救いの手を差し伸べたのはスティーヴン・スピルバーグだった。自分が代表を務めるドリームワークスで『アイランド』を映画化しないか、というスピルバーグの誘いにマイケル・ベイは飛びついた。「ドリームワークスでの仕事は自由度が高いのが魅力だ。彼らは監督に協力的だし、(監督をコントロールする)手綱を緩くしてくれるんだ」とベイは語っている。(『MICHAEL F-ING BAY:The unheralded genius in Michael Bay Films』より)

 ところが気合十分で臨んだ『アイランド』で、ベイは映画監督人生初の挫折を味わうことになる。『アイランド』以前、ベイの映画は(程度の差こそあれ)すべてヒット作だった。だが『アイランド』は1億2600万ドルの製作費に対し、米国内の収入がわずか3500万ドルという惨憺たる結果に終わったのである。「大作がひしめく夏に公開されたのもまずかったし、題名も失敗だった。『アイランド(島)』という題名から人々はまるで違うものを想像してしまった。それに、もっとアクション映画として売り込むべきだったのに、そうもしなかった。大失敗だったよ」(ベイ)。公開して数週間後に行われたアンケートでは、500名の回答者のうち450人が「『アイランド』なんて映画は知らない」と答えるほど『アイランド』は浸透しなかった。

 悪いことはさらに続いた。プロデューサーのウォルター・F・パークスと製作総指揮のローリー・マクドナルドが、映画が大コケした責任を主演のスカーレット・ヨハンセンとユアン・マクレガーになすりつけたのだ。プロデューサー側はウェブサイトで「安いテレビ女優ですら、スカーレット・ヨハンセンよりは観客の心を掴むことができる」と言い放った。これに対しヨハンセンは「これこそが、カネをもらうだけもらって、責任は一切取らないというプロデューサーのまたとない見本だ」と反論。まあ、どう考えてもヨハンセンの主張が正しいように思えるが、製作者と出演者の確執の他にも火種が発覚する。それが「パクリ疑惑」である。

 1979年のSF映画『クローン・シティ/悪夢の無性生殖(ビデオ題名)』は、クロヌスという名前の施設で暮らす若者たちの姿を映し出す。彼らは健康を維持し、体を鍛えることに余念がないが、それは健康状態が優秀な者から優先的に「アメリカ」という楽園に行くことが出来るからである。だがクロヌスの実態は大金持ちに健康な臓器を提供するためのクローン人間養成施設であり、「アメリカ」に送られた者は臓器を抜き取られて死ぬだけなのである……。

 『アイランド』が『クローン・シティ』を剽窃した疑惑については、映画ニュースサイトなどで当時広く報じられたので、覚えておられる読者も多いのではないかと思う。『クローン・シティ』の監督と製作者はドリームワークスを相手に訴訟を起こし、最終的にカネで決着したようである(監督によれば和解金額は7桁の数字とのこと。日本円だと億単位)。なお、オリジナル脚本を担当したカスピアン・トレッドウェル=オーウェンはこの件に関して「完成した『アイランド』自体、観ていない」と言っているが、いずれにせよ、非常に難しい立場に追い込まれたであろうことは想像に難くない。無意識のパクリだったら気の毒なことであるし、意識的にやったのであれば悪質だと思うが、『アイランド』と『クローン・シティ』の類似は「偶然」で片付けるには重大すぎる感がある。

 生まれて初めて映画がコケるわ、製作者と女優が泥仕合を繰り広げるわ、盗作騒動で訴訟問題にまで発展するわ……意気込んで『アイランド』を監督したマイケル・ベイはキャリアのどん底にいた。いかに「爆発と破壊ばかり」と言われようと、間違いなくヒットを飛ばす監督として築き上げた評判は『アイランド』の失敗で崩れ落ちようとしていた。

 マイケル・ベイがスピルバーグから『トランスフォーマー』の監督をやってみないかと打診されたのは2005年6月30日。『アイランド』公開前のことだった(『アイランド』の公開は同年7月22日)。このときベイは「いや、だって『トランスフォーマー』って、子供向けのアニメとかオモチャのアレでしょ? それはちょっと……」と難色を示している。が、スピルバーグに言われて『トランスフォーマー』のオモチャ会社ハズブロを尋ねたベイは、そこで数時間に渡って『トランスフォーマー』世界についてレクチャーを受け、「これは、やりようによっては面白い映画になるかも」と考えを改めることになる。「『リアル』にロボットが描けるなら、クールな映画を作れる可能性はある」と。

 マイケル・ベイはインタビューなどで「リアル」という言葉を好んで使う。「『リアル』にしたからカッコイイものができた」「ここでは『リアル』を追求した」という風に。しかし、マイケル・ベイの言う「リアル」とはどのようなものか、ということについては考察の必要がある。

 『バラエティ』誌の映画批評家ピーター・デブルージはマイケル・ベイ作品の「ルック」について次のように書いている。

「事実上、すべてのショットが完璧に輝いている。コマーシャル内の商品がベストな見え方で映し出されるように。さらに、すべての一瞬が強調されている。映画の予告編の映像のようにだ。予告編は2分半のうちに、その映画でベストな部分が集約されている。最も素晴らしいショット、もっとも凄い特殊効果、最もスリリングな瞬間が。マイケル・ベイの映画を観るというのは、2時間半に渡って(コマーシャルか予告編のように)カネのかかった(ように見える)ショットと、真似したくなるようなカッコイイ言い回しを観続けるという体験だ。マイケル・ベイの映画を観ていて、私は長編の予告編を観ているような気持ちになる。彼はそういう『息を飲むような映像』を長編の長さにまで引き伸ばしーーそれをさらに延長して見せる」

 デブルージが言うように、マイケル・ベイの映画は不必要なまでにギラギラしている。ギラギラする照明の中、ギラギラした美女やギラギラした車、ギラギラしたロボットが交錯し、衝突し、爆発して炎上する。この「ギラギラ至上主義」ともいうべき傾向がどんどんエスカレートしていくさまは『トランスフォーマー』シリーズを続けて観るとよく分かる。つまり現在も進行中なわけだが、その端緒となったのは『アイランド』と1作目の『トランスフォーマー』であるーープロデューサーがブラッカイマーからスピルバーグへと変わったことで、ベイの「ギラギラ至上主義」が本格的に頭をもたげ始めたのだ。(第3回へ続く)

(高橋ヨシキ)