『海獣の子供』なぜ賛否を巻き起こす結果に? 作品のテーマやアニメーション表現から考察
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五十嵐大介による同名の漫画作品を、『マインド・ゲーム』(2004年)、『鉄コン筋クリート』(2006年)など、異色の作品を多く手がけてきた、「STUDIO4℃」によって製作された劇場長編作品、『海獣の子供』。力の入った映像表現に圧倒される声が多い一方で、ストーリーや登場人物のセリフなどに難解な点が見られ、その評価は、かなり割れていると感じられる。
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ここでは、そんな本作『海獣の子供』のテーマやアニメーション表現について考えながら、どのあたりが賛否を呼び起こす原因になっているのか、それらの謎をできるだけ深いところまで潜って、考察していきたい。
■“感覚”の世界を表現すること
「ミュージシャンズ ミュージシャン」という言葉がある。これは、プロのミュージシャンたちが聴いて参考にするような音楽を作っている人物を指す言葉だ。漫画家・五十嵐大介は、その意味でクリエイターたちに影響を与えるような作品を作る、「クリエイターズ・クリエイター」といえるような存在である。アニメーション界のなかでも尖った作品が多い、STUDIO4℃に映画化を切望されたといのも、その証左であるといえるだろう。
原作となった漫画『海獣の子供』で、まず注目すべきなのは、その圧倒的な描写力だ。とはいえ、その魅力は誰にでもすぐに理解はできないかもしれない。基本的にボールペンを使用して描いているところもあり、一見すると描きなぐった雑な絵のようにも見え、むしろ下手くそだと感じる人もいるだろう。
問題は、何をもって“絵の上手さ”だとするかである。五十嵐大介の作品にあるのは、コミック風の流麗なペンタッチや、正確に仕上げるトーンワークなどの職人的な漫画製作というよりは、現実の世界から受け取った印象や感覚を、“記号的”な表現にできるだけ変換せずに、活きたままに描写するという、「絵」という表現方法が本来持っていた、より根源的な存在意義としての“上手さ”である。
描く対象を立体的にとらえ、重量や質量を感じるような、実在感をともなった表現。これによって、読者は現実に近い感覚を味わうことができるのだ。雨粒が顔にかかる感触、素足の下の砂が波で動いていく肌触り、誰もいない教室で寝そべったときの床の温度……。それらが、魔法のように伝わってくる。
劇場長編作品として編み直されたアニメーション版『海獣の子供』は、そんな繊細な感覚を呼び覚ます絵柄を、動画として表現し直している。五十嵐作品の絵に魅了されたことのある観客ならば、それだけで感動してしまうだろう。作画では、例えば人物の顔だけを見ても、鼻の頭や頬骨のあたりにニュアンスとしての無数の線や、まつ毛がたくさん描き込まれていたりなど、アニメ作品として異質とすらいえるような、原作の雰囲気に近いビジュアルが実現している。
線が多くなるだけで、それだけ作画に時間と労力がかかってしまう。人物以外に、ウミガメやジュゴン、イルカ、サメ、クジラなど、海洋生物の描写については、3DCG技術も併用しながら、夥(おびただ)しい数の個体数とカット数、水しぶきや泡などが、動画として表現されていく。
例えば、原作でも印象的だった、土砂降りの雨のなかを、主人公である14歳の少女・琉花(るか)が自転車に乗って走っていくシーンは見事だ。身体に感じる水がかたまりのように感じ始め、ついには水中を進んでいくように思えてくるという、感覚から生じていく空想が、そのまま映像として表現されていく。
こうやって得られる、人間の主観的な体験に近い、“生(なま)”の感覚というのは、次第に展開がエスカレートしていく後半部において、効果を発揮してくる。海中で巨大な生物に遭遇するおそろしさや、海の不思議、そして宇宙の神秘に触れるという、現実を超越した世界が、あたかも現実と地続きにつながっているような気がしてくるのである。
■『海獣の子供』が描き出したもの
本作が語るのは、原作から枝葉のエピソードをいくつか削ぎ落とした、より主人公の琉花にフォーカスした物語だ。他人になかなか自分の気持ちをうまく伝えられない琉花は、夏の間にジュゴンに育てられたという不思議な二人の少年、海(うみ)、空(そら)と出会う。
二人の少年、海と空が交わす、言葉を超えた不思議な意思伝達を目の当たりにした琉花は、クジラやイルカが超音波を放出して、図像のような複雑な情報を一瞬で送り合っているという、“ソング”(エコーロケーション)と呼ばれるコミュニケーションがあることを知る。それに対し、人間はいかに、まだるっこしい不正確なやりとりをしなければならないのか。そこで気づくのは、琉花に与えられた欠点や課題というのは、程度の差こそあれ、じつは人間すべてに共通するものではないのかということだ。
そこで得られるのは、宇宙との同一化であり、宇宙という存在を、マクロとしてもミクロとしても感じるという想像力である。宇宙の物質と人間を構成する物質に共通したものがあるのなら、人間と宇宙は、ある意味で“同じもの”と考えることができるかもしれない。そう考えると、地球に存在するあらゆるものは、全て人間とつながっているといえるはずである。“自分と違う”ことで傷つけ合ってきた人間同士も、いつか分かり合えるかもしれない。そのような希望を本作は示している。
そういったテーマは、会話の応酬でなく映像によって観客に伝えようとするような、本作の表現手法と同期しているように感じられる。ある事象や考え方というものを、映像と音によって、つまりクジラの“ソング”として理解しようとすること。これが本作のやろうとした最もチャレンジングな部分であろう。
だが、琉花の日常における問題を主軸に置いたときに、彼女が海洋で遭遇する壮大な出来事についての落差が、あまりにも大き過ぎると感じるのも確かだ。SF作品の表現のようでもあり、また宗教的な儀式のようなものでもある現象のなかに琉花が飛び込んで体感する、宇宙的ともスピリチュアルともいえる現象というのは、言うまでもなく、実際の自然の仕組みとは明らかに異なるものである。
その荒唐無稽で異様なイマジネーションの世界というのは、『新世紀エヴァンゲリオン』において、主人公の碇シンジが巡ることになった精神世界に近いといえるし、その前段階にある『AKIRA』や、『王立宇宙軍 オネアミスの翼』、また、近年の松本大洋の漫画作品における、エキセントリックなイメージを連続させていく手法が想起される。
もう一つ特徴的といえるのは、エコロジカルな要素が中心に置かれているという点であろう。しかもそれは、人間が住みやすい環境保護ではなく、人間をあくまで自然のサイクルのごく一部として捉え、生物全体の繁栄する環境保護を目指す「ディープ・エコロジー」の思想に寄っているように見える。これは、宮崎駿作品の世界観と共鳴する部分だと感じられるところだ。とくに『風の谷のナウシカ』との類似は多い。
説明が少なく、難解だと思われがちな本作だが、原作自体が一部のアニメーションや漫画作品によって描かれてきた思想や表現手法と、時代のなかで影響を受け、また共鳴しており、アニメーション版である本作は、それが再びアニメーションに還流したものになっているのである。その意味に限っては、本作における“海の秘密”というのは、かつてないものというよりは、むしろ複数の作品の表現やテーマに、異なる分野の要素を加えつつ再調整したものだと捉えることができる。その意味で、この作品はある系統の漫画・アニメーションの、一つの集大成になり得る題材だったといえるかもしれない。
■賛否があぶり出した原作付き作品の課題
一つ気になるのは、本作と原作から与えられる印象が、あまりにも近すぎないかという点である。もちろん、原作の持ち味を消すような作品になってしまっては、原作つきのアニメーションを製作する意味はなくなってしまうかもしれない。しかし、本作は原作の美点をとり入れながら、その弱点も受け継いでしまっているように感じられるのだ。
具体的には、作者の思想を代弁しているように感じられる、常識を超越し、意味深なセリフを口走るような達観したキャラクターが、あまりに多すぎるという部分である。原作に馴染めないという読者が少なくないのは、この点が障害になっているからではないだろうか。ここで描かれる、作者の想いが優先され、理想化が徹底されている世界というのは、一見すると広大なもののように見えて、むしろ小さな箱庭のようなものとして映ってしまうところがある。そして、その狭い範囲に入り込めない読者は対象からは外れてしまうことになる。
アニメーション作品として、あらためて本作を作り直すのならば、そのような部分を改善するいい機会だったのではないだろうか。原作が、読む人を選ぶような、「クリエイターズ・クリエイター」としての作品になってしまっているように、めざましい改変を加えなかった本作もまた、その点において“観る人を選ぶ”作品になっていないだろうか。「そこがSTUDIO4℃らしい」と言ってしまっていいのかもしれないが、より地に足の着いた、人間的な登場人物を劇中で活躍させ、より観客に作品世界への興味を持たせる工夫をしたとしても、本作が失うものはあまりないように、少なくとも私には思える。
自然と人間との関係を、映像を中心にダイナミックかつ繊細に語っていく手法を、これまでの日本の漫画・アニメーションの、一つの到達点として提示する試み。そして同時に、謎めいた登場人物たちによって、スピリチュアルなメッセージが語られていく側面。この二つの要素をどう判断するかによって、本作の評価は変わってくるはずだ。
人気ある原作の映画化作品において、キャラクターを改変したり、設定を変化させると、決まって一部で叩かれることになるのは確かだ。しかし、作り手までもが、そういうファンと同じような視点から作品づくりを考えてしまっては、作品をより広い観客に届け、原作をさらに優れた領域へと押し上げるチャンスを逸してしまうことになる。せっかくなら、圧倒的な映像表現以外でも、新しく作品を作る意義を感じさせてほしい。この原作を、例えば宮崎駿監督が、あるいは湯浅政明監督が手がけたら、やはり原作とは違う印象のものがいろいろと生まれてくるのではないだろうか。それが監督の仕事における、一つの大きな役割であるように思う。(小野寺系)