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塩田明彦がとりかかった映画史上の宿題 『さよならくちびる』が描いた男と女と一台の車

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 不機嫌にギターケースを提げたボブカットの女性が、いつもの道を歩いて首都高の高架下に着くと、そこには(おそらくいつものように)一台の黒のSUVが停車している。

 運転席に男シマ(成田凌)、後部にはマッシュルームカットのレオ(小松菜奈)。ボブカットのハル(門脇麦)は不機嫌に助手席に乗りこみ、「シマ、車内飲食禁止だって、そこの馬鹿女に思い出させて」と吐き捨てる。「お前ら、もう一度確認だけど、解散の意志は変わらないんだな」。どうやらこの三人は音楽ユニットらしい。そのやり取りから、この映画がユニット解散という、ある終末から始まる作品であることがわかる。今回のツアーを最終日までやり遂げてからおたがい自由になろう、という同意ののち、SUVは発進する。どうやら、これから解散コンサートツアーに出るらしい。

 ギターによるつつましやかなBGMが流れ始め、やおら一台の車が旅を始める。浜松、四日市、大阪、新潟、酒田、弘前……と、訪れる先々のライブハウスでライブがあって、関係破綻寸前の中でも旅は続けられる。音楽ユニット「ハルレオ」の旅の様子はまるで1970年代の青春映画のようなアナクロニズムにも見えるし、いや、現代においてもそれはそうなのだというふうでもある。そんなことは、オリジナル脚本をみずから監督した塩田明彦が最も承知していることだろう。「いったい、これはいつの話なんだ」と見る側から意見されたら、塩田明彦は悪びれずに「字幕で日付をいちいち入れておいたはずですが、あれは去年の夏の話ですよ」と答えることだろう。私たち観客は、あの律儀な日付にどのように付き合ったらいいのだろう。そうやって起こっている事柄との距離の取り方に、一歩二歩の調整を強いることもまた、塩田明彦の巧妙な戦術なのではないか。

 秦基博とあいみょんによる、心動かされるオリジナル楽曲を得て綴られるセンチメンタルジャーニー。喧嘩友だちの旅が淡々と続く、淡々としたロードムービーかと思いきや、画面には旅の行程に匹敵する比重でもって、過去の物語が巧妙なタイミングでインサートされていく。クリーニング作業工場でハルがレオに初めて声をかけた日のこと。「ねえ、音楽やらない? 私と一緒に」。ハルのアパートでカレーを作って食べたらレオが泣き出したこと(おそらくレオという女の子は家庭のぬくもりや、自炊された料理を食べた経験に乏しいのだろう)。河原のベンチでギターの練習をしたこと。そして、ハルがレズビアンであること。そこに、マネージャー兼ローディとして、元ホストのシマが加入し、三人のアンバランスなバランスが始まったこと、etc.

 旅の道行きのあいまあいまに、なぜ孤独な二人が出会って惹かれていったのかが霜降り状に叙述されていくみごとな先例を、唐突で恐縮だけれど1つだけ挙げておきたい。増村保造監督が倒産寸前の大映でロケ資金の欠乏に悩まされつつ、野坂昭如『心中弁天島』を原作に撮った『遊び』(1971)。関根恵子(現・高橋惠子)と大門正明の、今で言う下層カップルの破滅的な道行き。そこにインサートされる、彼らのみじめな青春。ラストで二人は、舟底に穴の空いたボートでは漕ぐこともできず、そのボートをビート板のようにして摑み、バタバタと川を泳ぎだす。筆者の根拠薄の勘に過ぎないけれども、映画史の知識については人後に落ちぬ塩田明彦監督のことだから、あれこれとシナリオ執筆時に叙述を画策したあげくに、そこにいるスタッフたちに「今回は『遊び』でいく」と威厳をもって告げたのではなかったか? そしてその時の威厳こそ、現在、本作がこうして存在している理由ではないか?

 貧困カップルと穴の空いたボート。まさに窮乏著しい大映の掉尾を飾る傑作『遊び』をなぞるかのように、『さよならくちびる』は現在と過去を自在に往還しつつ、一台のSUVの中の不機嫌な三人の男女そのものに還元されていく。ただし彼らはもう、かつてのように孤独ではない。『遊び』のカップルが最後のビート板にいたるまで孤立無援だったのと異なり、「ハルレオ」には、悲愴なまでに熱狂的なファンが付いている。このファンたちはひょっとすると、本人たち以上にこの音楽ユニットへの愛に忠実だ。それから同業者たち、見ず知らずのバンドメンバーの誰かがたがいに声を掛け合うこともなく「ハルレオ」は良いと思っていたり、解散の噂を嘆いていたり、各地ライブハウスの支配人たちが「ハルレオ」に最後の華を持たせるべくどうやら連絡を取り合っている様子であったり。

 「さよならくちびる」とユニットは声を合わせて謳い上げる。「さよならくちびる 私は 今 誰に 別れを告げるの 君を見つめながら」。

 それが愛だと気づいてはいる。愛は始めることよりも、続けていくことの方がはるかに難しい。不可能なのではないかとすら思うことしばしばだ。「さよならくちびる 君は 今 なんて 優しく 悲しい 眼差しをしているの」。

 サビの中の一人称「私は」は、こうして二人称「君は」に転化していく。「私」は「君」に差し出され、預けられ、ゆだねられていき、離反していく。そしてもう一回、一人称に回帰する。「さよならくちびる 私は 今 私に 別れを告げるよ ありがとう さよなら」。真に別れるべきは、きょうの「私」だ。

 かつてゴダールは初の長編映画『勝手にしやがれ』(1959)を作りながら、「男と女と一台の車があれば、映画ができる」とたけだけしく断言した。映画史上の有名な言葉だ。ゴダールが敬愛するロッセリーニの『イタリア旅行』(1954)を模範としつつ出た言葉だ。しかし『勝手にしやがれ』完成後、ゴダール自身は早くもそれを否定せざるを得ない。「自分には車の疾走を撮ることができない」と。「私にはロベルト(・ロッセリーニ)が作るような単純でしかも論理的な映画を作ることはできないからだ」。この映画史上の難易度高き宿題を、今、塩田明彦は威厳をもってとりかかった。女、もうひとりの女、そして男、一台の車。濃縮還元されたそれらは、可能なかぎり裸形で「私は」「君は」とたがいに居合わせつつ、コトバをコダマさせる。転化が起き、回帰が起き、そして次の変化が起きる。その変化の瞬間がまばたきとまばたきのあいまに見える、ということが映画。だから、女、女、男、一台の車、三台のギター、というふうに変化の裸形をもとめ、そこにある事物は濃縮還元されていく。(荻野洋一)