GOMES THE HITMAN 山田稔明が明かす、結成25年の歴史と再始動に至った背景
音楽
ニュース
GOMES THE HITMANが本格的に復活した。2014年に7年ぶりにライブ活動を再開したGOMES THE HITMANだが、彼らがライブ活動停止前にリリースした2000年代の3作品『mono』(2002年)、『omni』(2003年)、『ripple』(2005年)を収録したボックスセット『00-ism [mono/omni/ripple]』が7月25日にリリースされるのだ。さらに同日に、13年ぶりとなるレコーディング作品『SONG LIMBO』もリリースされる。
参考:小沢健二『流動体について』の歌詞は何を伝える? 宗像明将が“多層的な構造”を読む
振り返れば、1999年にメジャーデビューしたGOMES THE HITMANのCDを初めて見たのは、当時の渋谷HMVでのことだった。「ポスト・フリッパーズ」と呼ばれていたGOMES THE HITMANは、次第にその音楽性を変え、今回『00-ism』に収録される作品群のような深化を見せることになる。
しかし、2007年を最後にGOMES THE HITMANはライブ活動を停止。山田稔明はソロ活動や他のアーティストへの楽曲提供、堀越和子はソロ活動やバンド活動、高橋結子はさまざまなバンドへの参加、須藤俊明はジム・オルークや石橋英子などのバンドへの参加と、それぞれの道を歩むことになる。
言い換えると、GOMES THE HITMANのメンバーは誰ひとり音楽活動を辞めることはなかった。そして山田稔明は、2013年の傑作ソロアルバム『新しい青の時代』のアナログ盤化がクラウドファンディングで実現したばかりだ。
2000年代のGOMES THE HITMANとはどういうものだったのだろうか。そして、GOMES THE HITMANが今改めて復活したのはどんな理由があるのだろうか。山田稔明に話を聞いた。彼に会うのは、昨年の夏に吉祥寺のレコード屋でばったり会って以来のことだった。(宗像明将)
「『mono』を作った時はどうかしてた」
ーーGOMES THE HITMANが結成25周年を迎えて、2000年代にリリースされた3枚のフルアルバムが『00-ism』としてリリースされます。どのようなきっかけだったのでしょうか?
山田稔明(以下、山田):もともと2000年代に<VAP>から出したアルバムがサブスクリプションサービスに入ってなかったんですよ。サブスクで聴けるようにしたいなと思って、当時のスタッフの方に相談したんです。すごく早急に対応していただいて、今年の1月にはシングルも含めてだいたい全部の<VAP>の音源がサブスクで配信されるようになったんです。ただ、1枚だけ2002年にインディーズレーベルから出した『mono』だけは触れられない状態になっていて、「どうにかしたいですよね」っていう話をしたら、<VAP>の方が「レーベル自体がもうないから難しいけれど、ちょっとかけあってみるよ」って言ってくださったんです。
ーー<QUATTRO DISC>ですね?
山田:そうです。で、当時のスタッフの方とお話する事が出来たようで嬉しい事に乗ってきてくださったようなので、これはもうリリースするタイミングだなと。実は僕はいろんなところと一仕事終えると疎遠になったりする事が多いんですけど、それらをひとつずつ軌道修正していくことを2010年代の目標にしてるんですよ(笑)。2014年にGOMES THE HITMANが活動再開したときにひとつ大きな修正の機会があったんですけど、そこから4年経って2個目の軌道修正ですね。
ーー活動休止前のGOMES THE HITMANの最後のライブはいつでしたっけ?
山田:2007年ですね。
ーー私もそれを見ているんですよね。2007年で止まっていたバンドが2014年から復活したわけですね。
山田:そうです。お会いした頃は、僕がソロをやったりGOMES THE HITMANをやったりしているタイミングだったと思うんです。「ソロってやっぱり楽しいな」と思いはじめてるときに、GOMES THE HITMANはリリースの予定もないので、どんどんそっちが尻すぼみになっていったんです。当時は活動休止とも何も言わずに、ただライブをしなくなったという感じで、そこから7年何もしなかったんです。2014年からライブを再開するようになったのは、メジャーデビュー15周年っていう「ここしかないぞ」っていうタイミングだったんです。そこからじわじわと年に2回ぐらいライブを重ねて、「今年は結成25周年なので何かできたらいいな」ってタイミングでこういうボックスを作ってくれることになったので、「これはちょっとお祭りだな」と思っています。『ripple』に続くニューアルバムとは銘打たないで、「GOMES THE HITMANの新録音盤」っていう、リハビリみたいな感じで1枚作ろうっていう企画がバンドの中にあったので、それともタイミングが合うし、永続的な何かのきっかけになるかなと思って、すごくしっかりリイシューさせてもらおう、と。
ーー『00-ism』と書いて「ノーティーイズム」と読むのはどのような意味があるのでしょうか?
山田:ゼロ年代を英語で言うと「00’s」で、「ノーティー」っていうのがゼロっていう意味らしいんです。僕らが『mono』『omni』『ripple』を出したときに、それぞれ『モノイズムツアー』『オムニイズムツアー』『リップルイズムツアー』と、「主義」という言葉を付けてツアーを組んだので、『00-ism』っていうのはこの企画が立ちあがったときから自分の中でタイトルとしてあったんです。これをどう読ませるかというときに、ゼロ年代が「ノーティーズ」なんだったら「ノーティーイズム」にしようかなと思いました。造語ですね。
ーーフィジカルでまとまってリリースされる意味は、この時代にとても大きいと思います。
山田:ありえないですよね、びっくりしました。なんでそんなことしてくれるんだろうと思いました、何か他にもやらされることがあるんじゃないかなって思ったりして(笑)。でも、それはスタッフの熱意のおかげです。『mono』は全然手に入らなくて、「ヤフオク!」ですごい値段になっていたし。僕がソロでやっていて新しいお客さんが来て、「ちょっと昔に立ち返ってみようかな」っていうときに聴けないものがある状態が嫌だなあと思ってたんですよ。それでサブスクにあるなら高い値段のCDを買わなくていいなと思ったんですけど、『mono』がまたCDになるのは嬉しいし、自分たちの中でもこの3枚は3部作という意味付けがあったので、これをまとめられるっていうのは本当に嬉しいですね。『mono』と『omni』は対になってると思って自分は作ってたんですけど、それでも物足りなくて『ripple』を作ったところもあったので、そういう意味では3部作です。
ーー2002年の『mono』は、山田稔明さんのソングライティングの個性はそのままに、現在のソロよりもR.E.M.的なロックサウンドですね。ただ、強い寂寥感に包まれています。
山田:メジャーの<BMG>で華々しくやらせてもらって、最後のシングルも手応えはあったにせよ、結局そのレーベルでのラストシングルになったときの無力感が自分の中にあって。特に最後のほうのシングルは、自分のためでもあったし、頑張ってくれてるスタッフのためでもあったし、何か負うものが自分の中にあって。バンドも僕が作ったがゆえだという責任感みたいなものをすごく背負いこんでいたんです。そういうところからレールがなくなったときに、自分のエゴやパーソナリティを出したものを作りたいなと思ったんですよね。タイミング的にはアメリカで同時多発テロがあって、ちょっとしたぼんやりした鬱というか、「世界がなんだかすごいことになってる」みたいな感覚が2001年にあって、2002年からこのアルバムを作りはじめたときにもそういう感覚がありましたね。
ーー時代の空気がパーソナルな音楽として反映されているんですね。
山田:そうですね、やっぱりそれまでの暮らしが変わる感じとかも。それまでは事務所もあってレーベルもあったので音楽だけをやるって感覚だったのが、収入がなくなるからバイトを始めたりとか。
ーーバイトをしていた時期があったんですか?
山田:セブンイレブンで深夜に働いてました。夜10時から朝7時までとか。それを週に3日ぐらいやってると、やっぱりバイトがない日は休みみたいな感覚になるんですよ。で、休みの日に音楽をやって「わー、楽しい!」みたいな。自分はミュージシャンとして音楽で食べているって感覚がどんどん薄れていって、これはまずいなと思ってたら体を壊しましたね。
ーー入院したのはいつ頃でしたっけ?
山田:2004年ですね。
ーー『mono』では、「言葉の海に声を沈めて」でブラスサウンドが鳴る点や、語りがボーカルに寄り添う点が、今聴いてもとても新鮮です。
山田:あのブラスは本物を吹いてもらってます。『mono』を作ってるときのリファレンスディスクはPink Floydでしたね。それこそ『原子心母』や『狂気』とか。たぶんどうかしてたと思うんですけど(笑)。
――メンバーのみなさんはそれを渡されて何と言っていたんですか?
山田:まっとうなポップスをやってる人がいないバンドなので、面白がってくれてたような気はしますけどね。それ以前に、この『mono』に関しては本当に僕が傍若無人で、メンバーの意向を受け入れられない時期だったので、本当にピリピリしたスタジオでした。僕がいろいろイライラしてたんだと思うんですよね、「なんかうまくいかねーな」とか。自分が作ったデモとできあがったもののイメージの乖離も、もっとちゃんとメンバーと話をすれば解決したかもしれないのに、密に話すことを自分が避けてた。やっぱり学生のときからやってるバンドなので、家族みたいなものになるんですよね。風通しは悪かったと思うんですよ。2000年代っていうのはずっとそういう時期で、だからよく誰も辞めないで続いたなって今になって思うぐらいです。
ーー「笑う人」のようなラップは、ソロにはないアプローチですね。
山田:自分がミュージシャンである以前にリスナーなので、ラップをフィーチャーしたロックを90年代にいろいろ聴いてて取り入れてみました。「売れるものを作ってください」とレーベルに言われることからも解き放たれたので、好き勝手にやりましたね。今聴いても、よくこんな自由にいろいろやらせてもらってるなあ。
「『omni』でもう一度ポップスをやり直した」
ーー2003年の『omni』は<VAP>からのリリースです。生のストリングスも響きますね。「愛すべき日々」のスウィング感は前作になかったもので、変化が早いですよね。全体として楽曲も開放的になり、サウンドもダイナミックです。前作とここまで大きく変化したのはなぜでしょうか?
山田:1年しか経ってないんだなって自分でも思いますね。ディレクターの穂山さんは、『mono』のパート2を聴きたかったはずなんですよ。でも、パーソナルで、ちょっとうつむきがちな青年の歌っていうイメージが『mono』にあるとしたら、僕は同じ物を2枚作るのは嫌だなって思って、『mono』のときに一回手放したポップスをもう一回やり直したいと思ったのが『omni』です。<VAP>には大きいスタジオがあってそこを際限なく使わせてもらうことができたので、これはダイナミズムのあるポップスを作ろうと思いましたね。
ーー「それを運命と受け止められるかな」のような7分越えの大作もありますね。
山田:無駄に長い(笑)。意地を張ってるなと思いますね。最近聴いてて「ここで終わればいいのに」って思うポイントがすごくありますね。なんだろうな、あれ(笑)。
ーー「それを運命と受け止められるかな」に限らずですか?
山田:全部ですね。「長いよ!」って思って(笑)。
――この後の『ripple』にはもっと長い曲が入りますからね。
山田:たぶんどうかしてた、ノイローゼだとすると一番やばいときかもしれないです。
ーー「それを運命と受け止められるかな」から「千年の響き」「happy ending of the day」への終盤も美しいも流れですよね。
山田:ソングライティングは『mono』に比べるとすごく考えられてるなと客観的に分析できるぐらいに時間が経ちました。ただ、やっぱりもう一回メジャーレーベルでやるっていう自分の中の気負いが『mono』と確実に違ったなと思うんですよね。僕らが<BMG>時代に『cobblestone』(2000年)というアルバムを杉真理さんや斎藤誠さんと作ったときに、自分の中の音楽的なクオリティが上がった感覚があったんですけど、『mono』と『omni』の間にも自分の成長が確実にあったと思うんですよね。
ーーわずか1年の間に。
山田:その1年の何が違うかというと、それまでよりもたくさんライブをやったことですね。そのライブの中で穂山さんとも出会うことになるんです。僕らはライブで実力をぐいぐい付けてデビューしたバンドではないので、もっとうまくなりたいなって思っていた時期にあたるのかな。『omni』の頃はライブの会場もアストロホールとか、けっこう広いところで頑張っていたので、そういった変化が反映されてもいますね。
ーー2005年の『ripple』も<VAP>からのリリースです。メロウな「東京午前三時」で始まるこのアルバムのメランコリックな雰囲気は当時とても印象的でした。「ドライブ」の渋くて乾いたバンドサウンド、ジャジーな「bluebird」、10分を超える「夜の科学」など成熟感もあります。
山田:『ripple』は今でも聴くと自分の中で盛りあがるし、かっこいいアルバムを作ったなって思うんですよ。作った直後からずっとその印象は変わってなくて、だから「バンドでこれ以上のものを作るのってどうやるんだろう?」って思ったんです。もう出しきったんじゃないかな、っていうタイミングだったんですよね。結果的にその後にバンドは休むことになるんです。この『ripple』は1年ちょっと宣伝とライブを続けたので、僕の中ではロングセラーだと思ってるんです。
2曲目の「ドライブ」から8分あるし、「夜の科学」は10分以上あるし、わかりにくいはずのアルバムがそれだけたくさんの人に聴かれたっていうのは自分の中でも自信になったし、「手と手、影と影」って曲がプロフィールを書くときの代表曲になったのは本当に良かったと思います。代表曲って、えてして自分が好きじゃない一番売れた曲とかが載るはずなのに。「手と手、影と影」は今でもライブで久しぶりに演奏すると、「あ、この曲知ってました」って言われたりするんです。「最新作が一番いいバンドだな、GOMES THE HITMANは」って自分がここ10年ずっと思ってたし、やりきったなっていう感覚が当時もあったし、それがあったからソロでものづくりをするようになったというのもありました。
ーー「手と手、影と影」はJACCSカードのCMソング、「明日は今日と同じ未来」はアニメ『お伽草子』の主題歌でしたね。
山田:主題歌だったんですけど、主題歌としてシングルで出したバージョンとまったく違うアレンジで演奏してて、『ripple』では全部アコースティック楽器でやってます。なんでそんなことしたんだろうって今でも思います(笑)。アルバムの流れに入れたときに、シングルのバージョンだと違ったんでしょうね。最近GOMES THE HITMANでライブをやるときは、シングルバージョンでやるほうが楽しいです。
ー一般的に見たら、GOMES THE HITMANの知名度が上がったところでバンドが止まるわけですよね。
山田:ここから先の展開について明確なイメージがなくなったっていうのが正直なところでした。バンドで動く大変さにも疲れちゃったのかなって気はするんですよね。
ーーGOMES THE HITMANのアルバムの作り方って、山田稔明さんがプロデューサーの立ち位置のワンマンバンド的なところもあるんですか?
山田 そうですね。特にこの3枚に関しては本当に「俺、感じ悪かっただろうな」と思うんですよ。今回久しぶりに当時ひとりで作ったデモを大量に聴いたら、このデモを「はい、これ新曲です」って渡されたメンバーの気持ちってどうだったんだろうなってすごく思うんですよね。僕が全部楽器を弾いてるし、キーボードのフレーズも入ってるし、ストリングスも入ってるし、ドラムもサンプリングしたのが入ってるし、結局デモのバージョンとアルバムのバージョンはほぼ変わらない。ただメンバーがそれぞれ塗り替えてるだけっていう感じがして。
しっかり録音してるからアルバムのほうが当然いいんですけど、もっとみんなでディスカッションしてアルバムを作ってたらこういう風にはならなかっただろうなと思うんです。戻れない過去ですけど、あのときにみんなでわいわい「これはこうしようよ」ってやってたとしたらもっと良くなってたのかなとか、そうじゃなくて自分が耐えられないで辞めてたのかなとか、いろんな「たられば」を想像してしまいますね。しんどい時代だったなっていうことしか思い出せないです、2000年代っていうのは。
ーー2000年代のアルバムタイトルがシンプルなのはなぜでしょうか?
山田:『mono』を作ったときに『omni』ってタイトルはできてたんですよね。次は対になるコンセプトアルバムを作ろうって。『mono』は「単一」、『omni』は「たくさんの」っていう意味で。その2枚を作って、もう1枚『ripple』を作るときに、キーボードの堀越に「水滴をポンと落とすみたいな感じで弾いて」とか、そういう表現が多かったんですよ。あと僕がGrateful Deadの「Ripple」って曲が大好きで、それもあってタイトルを決めたんです。
ーーPink FloydやGrateful Deadの名前が出てきましたけど、2000年代に一番山田稔明さんが聴いていた音楽は何でしたか?
山田:Wilcoですね。『omni』と『ripple』はWilcoの影響がすごく大きいです。R.E.M.よりもWilcoのサウンドを志向していて、もしかしたらWilcoをプロデュースしていたジム・オルークってことになるのかもしれないですけど。
ーーそして、その後に須藤俊明さんがジム・オルークのバンドに入るわけですね。たしかに当時『ripple』を聴きながらWilcoの影響は感じました。
山田:アメリカのアコースティック楽器を使うオルタナティブなバンドにすごく影響を受けていましたね。
「『ripple』はめちゃめちゃなものを作ったはずだった」
ーー今回のボーナストラックで思い出深いものがあれば教えてください。
山田:「サテライト」のアーリーデモがすごくいいんですよ。僕の友達は「このバージョンでCDに入れてたら絶対売れてたのに」って(笑)。でも、僕は簡単に盛りあがって済ませちゃうのができなかったんですよね。
ーー『ripple』は不思議なアルバムですよね。そういうこだわりもあるのに、CMソングやアニメ主題歌も入っていて。
山田:そうなんですよね。妙に整合性が取れてるというか。自分はめちゃめちゃなものを作ったはずだったのに、第三者の人からいろんな冠を付けてもらった感じはします。
ーー今回のボーナストラックのチョイスには悩みましたか?
山田:ものすごくいろんなものがあったんですけど、この3枚の本筋から外れるものは入れないって決めてました。今のファンの子たちは「『mono』が全然手に入らないんです」っていう人たちばっかりだし、『mono』を出した当時のインストア特典の音源は誰も聴いたことがないのでボーナストラックに加えました。『omni』のボーナストラックに関しては、アウトテイクを聴いたときに「ああ、やっぱり『omni』ってすごくポップスを作ろうとしてたんだな」って思ったので、それが一番よく表れている「fielder’s choice」っていう曲を入れました。
――インディペンデントなソロ活動を続けてきた山田稔明さんの目には、かつてのGOMES THE HITMANはどう映っているのでしょうか?
山田:その時代はそんなにたくさんスタッフがいたわけじゃないんですけど、本当にありがたかったなって思います。今自分でレーベルをしてると、売れる枚数ってそんなに変わらないのに、すごくたくさんの人が宣伝してくれたり、営業してくれたりしていたんだなと思います。ソロをやるようになって、今までお世話になったレーベルのことをひとつも悪く思わなくなりましたね。ありがたいなって思うし。逆に、新しいものを作るときにメジャーのメーカーと一緒にやるっていうのは想像がつかなくなったんです。自分のやり方や方法論も明確になってきて。今回こういうリイシューをかつて所属したレーベルのスタッフと一緒にやるのは本当に幸せなことだし恵まれてるなと思う一方で、これが新譜じゃないからこそできるんだなって思うんです。
――逆にデビュー当時「ポスト・フリッパーズ」と呼ばれていた頃はどう考えていたでしょうか?
山田:そういう系譜の中で語られることが嬉しいなと思ってたのは、メンバーの中でたぶん僕だけだと思います。でも結局、途中から「フリッパーズ」みたいなキーワードで簡単に言われるのがあまり心地良くなくなってきて。2000年代はネオアコやギターポップとは全然違うところまで来たので、90年代にやってたこととは差がありますね。90年代に作ってたものは、意外とセルフパロディというか、わかりやすくキラキラする音楽を作ろうとしてたのかもしれないです。そういうものを求められていたこともわかってたし。
でも、そこから20年経ってみると、やっぱり1stアルバムや杉さんと一緒に作ったアルバムは、今でも演奏するのが楽しいんですよ。2014年に活動再開した後に僕らが4人でサポートを入れずに演奏してきた曲は、<BMG>時代の曲のほうが多いんです。やってて楽しくて。そのときのアレンジを「レコード通りにやってみようよ、恥ずかしいけど」ってやると楽しいしお客さんも喜ぶし、今はそうやって立ち返れる時代なんですよね。逆に、「ちょっと久しぶりに『omni』の曲やってみない?」ってなると「うーん」って(笑)。特に『mono』の曲をやろうとは自然な流れではならないんですよね。そういうアルバムたちだし、そういう時代だったんだなって思います。
ーー山田稔明さんはソロになってみて、アーティストとしてのスタンスは変わりましたか?
山田:変わったと思いますね。今はほとんどライブがメインで活動してるから、新曲はどんどんライブで育っていって、「新曲です」ってやりはじめてから1年半か2年経ってようやくCDになるっていうパターンが多いんです。ライブ活動がメインに完全に切り替わったのがバンド時代とソロの違いだと思いますね。
ーー2013年の『新しい青の時代』のアナログ盤化のクラウドファンディングもサクセスしましたが、自分の過去の音楽が再評価される時期になっていることはどうとらえていますか?
山田:今年は特にそんな感じがしますね。特に『新しい青の時代』っていうソロは、もしかしたらGOMES THE HITMANの『ripple』と同じところにあるかもしれないなと思うんです。『新しい青の時代』の後は企画盤やライブ盤を出してますけど、やっぱり「『新しい青の時代』の次のアルバムです」って言って満を持して出すっていうのがまだできていないんです。『新しい青の時代』の次の完全な新作はこれから先だなと思っています。次のアルバムは「山田稔明」っていうセルフタイトルのアルバムだって決めてるんですけど、まだそれが出てないんです。
ーーそれは出そうですか?
山田:今年は無理かな、今年は出しすぎてるなと思ってて。<VAP>からボックスを出してもらえるなんて思ってなかったから、来年だなって。
「12月のニューアルバムはネオアコ」
ーーGOMES THE HITMANとして13年ぶりに『SONG LIMBO』を制作した感触はいかがでしたでしょうか?
山田:楽しいですよ、本当に。1回リハビリしようっていう感じで提案して、新曲は1曲も入らない。前に作った曲を録り直そうっていう企画だったので、スタジオも使わないでリハーサルスタジオにパソコンを持ち込んで、4人だけでやって。たぶんすごくいいアルバムになると思います。
ーーGOMES THE HITMANが7年止まっている間に誰もミュージシャンを辞めてないのもすごいと思います。
山田:みんな音楽しかできない人たちなんだろうなと思いました。やりたいことをやってるなって思いますね。休んでる間は、みんなと話をするのを避けていたところがあって、「みんな俺のこと、どう思ってるんだろう?」と思ってて。ライブ活動を再開する前の年ぐらいからご飯を食べたりして、「またライブをやりたいんだ」と僕から告白したんですけど、「山田がやらないんだったらやらないし、やるんだったら付き合う」って言うんです。辞めないっていうことは意思表示なんだなと思います。スタジオの作業しててもみんなすぐ帰るし、馴れ合いになるのを警戒してる感じが今もありますね。それで保たれてるのかな。友達っていうのとはちょっと違う感じになってきてるかな。
ーーパブリックイメージ的には、7年経ってまたGOMES THE HITMANが和気あいあいとやっているイメージを持たれるんじゃないですか?
山田:和気あいあいは和気あいあいなんですけどね。音を出してるときとか休憩中とかも、何でもない話もするし、ライブをやったら打ち上げもしっかりしますけど、でも四六時中ベタベタするっていう感じはないですね。
ーーメジャーデビュー20周年の2019年12月にGOMES THE HITMANのニューアルバムのリリースが予告されていますが、なぜ12月なのでしょうか?
山田:12月だったらギリギリ間に合うだろうと(笑)。僕の誕生日だし。もう言っちゃったから、たぶん出しますよ。
ーーそれはどういうアルバムになると思いますか?
山田:全部今まで録音したことがない新曲で、僕はネオアコをやりたいと思ってて。ネオアコやギターポップをやりたいなと今思ってるんですよね。自分がソロをやってるので、シンガーソングライター的なもの、語り口がパーソナルなものはやる場所があるんですよ。GOMES THE HITMANがここ何年かライブをやって、演奏してて楽しいのが90年代の楽曲で、楽しいとやっぱり演奏も良くなる。そういう8ビート、16ビートのまったりしない曲たちで新作を作ったらすごくいいんじゃないかなと思ってます。メンバーに「ネオアコがやりたいんだよね」って言ったらみんな「いいねー!」となって。意外とみんな同じことを考えてるんだなと思いましたね。ネオアコがやりたいっていうのは、2000年代の3枚とのコントラストです。もうここには立ち返りたくないっていうか、もうやりきった。眉間に皺を寄せて、なんか物思いにふける感じは。30代だったからそういうモードになってたけど、40代中盤から後半になっていくときにはもっと楽しくやりたいなっていう感覚があります。今作ってる『SONG LIMBO』もやっぱりギターポップに寄ってる曲が多いので、録音してても楽しかったですよ。だからGOMES THE HITMANのニューアルバムはネオアコです。
ーー宣言しちゃいましたけど、1年後だからどうなるかわからないですよね。全然違うものになったらどうするんですか?
山田:ネオアコにもいろいろありますから。Feltみたいにね。ネオアコって言っておけば大丈夫かなって(笑)。(宗像明将)