『きみと、波にのれたら』の違和感の正体 湯浅政明監督の作風から探る
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『夜明け告げるルーのうた』で、アニメーション界のカンヌといわれる「アヌシー国際アニメーション映画祭」最高賞を獲得し、次々に話題作を手がけている湯浅政明監督が、初の本格ラブコメ作品に挑戦したのが、映画『きみと、波にのれたら』である。
参考:脚本家・吉田玲子が語る、『きみと、波にのれたら』湯浅政明監督との2度目のタッグで描いたもの
ダンス&ボーカルグループ“GENERATIONS from EXILE TRIBE”の曲「Brand New Story」にのせて、潮風が吹き波濤がきらめく、まぶしい季節のなかで、主人公の女子大生・向水ひな子(むかいみず・ひなこ)と、消防士の雛罌粟港(ひなげし・みなと)のサーファーカップルのキラキラした恋愛描写が描かれていく。
「えっ、何? 大丈夫なの、これ……?」
サーファーのカップルがラブラブなデートを繰り返す本作『きみと、波にのれたら』の前半の展開を目にしながら、どうしても戸惑ってしまう自分がいるのである。そう、人は見たことがないものに、反射的に拒否反応を示してしまうものである。実写映画やドラマなどでは、このような描写のある作品はいくつか挙げられるが、イケてるサーファーカップルのラブストーリーを描いたアニメ映画というのは、非常に新鮮に感じられる。
しかし、このような違和感を覚えてしまう観客であっても、本作を鑑賞しながら次第に適応し、最終的に疑問は雲散霧消してしまうはずだ。ここでは、この作品から与えられる違和感の正体と、それを凌駕することのできる作り手の力について解説していきたい。
日本におけるサーフィンやホットロッド文化の源流には、アメリカ基地などからの影響があり、それは、同じようにアメリカの影響を受けた日本の不良を指す“ヤンキー”文化ともつながりを持っている。そして、その延長線上にある、現在のヤンキーの象徴となるイメージが、“EXILE”をはじめとした関連アーティストたち“EXILE TRIBE”ということになるだろう。本作は、実際に“EXILE TRIBE”とコラボレーションしているように、その文化圏を扱った作品だといえよう。
とはいえ、日本には不良漫画と、それに準じるアニメーションの系譜も存在していたこともたしかである。その意味で本作は、下火になったジャンルへの、洗練されたかたちでの先祖帰りとしての役割もあるのかもしれない。
また同時に、“現実の生活が充実している”、すなわち「リア充」と呼ばれる、素敵な理想の恋人と楽しい日々を送る二人が主人公だというのも、本作の特徴である。そのような人たちと、現在のアニメーションのコアな観客との間に断絶があるかといえば、それはやはりあるだろう……。
素敵な恋人たちの関係を見て、自分をそこに投影するというのは、恋愛映画の王道といえる楽しみ方である。しかし、近年の日本のアニメーション作品は、実写ドラマのようなストレートな恋愛描写を避ける傾向にある。なぜなら、ドラマよりも現実から離れることができるアニメ作品においてリア充が描かれるというのは、「非リア充」である現実を観客や視聴者に意識させることによって、それがある種のストレスになるという事情を、製作側が忖度し、そこを刺激することを極力やめようという暗黙の了解が、一部で出来上がってしまったからである。
だから、『君の名は。』(2016年)のような大ヒット作の出現は、ある種の衝撃であった。とはいえ、その主人公たちの造形や設定は依然としてオタク的な文脈のなかにあったといえるだろう。『きみと、波にのれたら』は、そこすら超えていこうとする作品なのだ。
『マインド・ゲーム』(2004年)からはじまる湯浅監督の作風を振り返れば、じつは本作はそれほど意外な題材ということもない。湯浅作品は、アニメファンのメインストリームではなく、どちらかというとアニメにもアンテナを伸ばすアートやサブカルチャー方面に興味のある人々から強く支持されている印象がある。つまり、“オタク”の文脈をあまり感じさせないアニメを作ることで、日本のアニメ文化の多様性を大きく広げるという仕事をしてきたのだ。
『マインド・ゲーム』や『夜明け告げるルーのうた』が、海外の映画祭で賞を受賞し、高い評価を得たり、日本人である湯浅監督が、アメリカのTVアニメ『アドベンチャー・タイム』のエピソードの演出を担当できたのも、まさにそのような広い視野を獲得しているからであるだろう。だから、今回サーファーを主人公にしたり、若者のドラマを描いたりすることにも、さして無理を感じるところはない。先入観や固定観念に縛られ、視野の狭い監督が本作を担当したら、目もあてられない作品になってしまうところである。それは、トレンドに適応できるというような能力ではなく、多くのものごとをフラットに理解する能力に長けているというところからくる。
その意味において本作は、『君の名は。』のような、監督の持っているオタク的な資質や文脈を矯正するプロセスを経ていくことで、マスの需要に流れ込むことに成功した作品とは趣が異なる。そしておそらく、本作が新たに掘り起こそうとする観客層は、『君の名は。』とも微妙に異なるはずだ。本当にその層が動くかどうかというところは非常に興味深いが、どちらにせよ、このようなチャレンジングな作品が作られていかなければ、本来は多様な価値観を持っていたはずのアニメ文化は、日本において細分化された閉塞的な文化に過ぎなくなっていくのではないだろうか。
本作が後半で描いていくのは、海難事故によってカレシの港を亡くした、ひな子の悲しみと、立ち上がっていく姿である。もともとサーフィンが好きだったひな子は、心に受けた傷によって、波に乗ることができなくなってしまう。
“波に乗る”というのは、ここでは人生を上手く生きていくということのメタファーでもある。上手にオムライスを作ることができないことが象徴するように、しっかりしているように見えて、ひな子は様々なことに不器用な女性で、将来の夢も見つけられていない。だからこそ彼女は、なんでも器用にこなし、消防士として立派に活躍している港に憧れることになる。
しかし、港と恋愛をすることで彼女自身の課題が解消されるはずもなく、港を失ってからは、悲しみで日常生活すらもままならなくなっていく。そんなとき、港のある秘密を知ることで、ひな子は何でもこなす港が、スーパーマンのように優れた存在ではなく、じつはもともとは自分とそれほど変わらなかったということに気づいていく。そして港が自分の人生の波に乗るために奮闘していたように、自分の力で波の上に立とうとし始める。
器用に生きる港と不器用なひな子に、決定的な違いがなかったように、ここで描かれるテーマは、誰にでも共通する課題である。その意味において、“ヤンキー”も“リア充”も“オタク”も、それほど違うことはないだろう。
これまでの壁を破り、これまでのアニメーションのファンにも、いままでアニメに興味のなかった層にも通じるメッセージを伝えながら、その両方にそれぞれ新たな世界を見せていく。『きみと、波にのれたら』は、様々な観客にとっての発見の場になり得る可能性を持った、貴重な作品である。(小野寺系)