親から子へ贈る愛の歌ーーノルウェーの俊英 エスペン・バルグが目指す、ピアニズムの桃源郷
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優秀な人材ひしめく北欧ジャズシーンの中でもひときわ光彩を放つ気鋭ピアニスト、エスペン・バルグの第3作『Free To Play』が3月にリリースされた。ノルウェーという風土が生んだであろう、鋭く研ぎ澄まされた感性とトリオの完成度の高さは2回の来日公演を通して折り紙つきであるが、前作に増して深淵かつ大胆な今作はスカンジナビアンジャズに新たなポテンシャルを感じさせる。
『Free To Play』は今までにないメランコリズムとペーソスに溢れている。そして、何よりも苦しみや慈しみ、哀しみや怒り、これまで彼が抑えてきた感情が一気に吹き出した作品になっている。それはエスペンが昨年、親子別離の悲哀を味わったことに起因している。4月に出産予定だった第3子を亡くし、家族全員が哀しみに暮れる中、エスペンは心の内を音楽に託した。
緑も深い青葉のころ、筆者はエスペン・バルグに単独インタビューを行った。公演前の限られた時間の中で、アルバム制作のきっかけや、息子エドワルドへの思い、そして家族愛について語ってもらった。(落合真理)
深い哀しみを越えて
「アルバムは当初、全く異なった内容になるはずだった。最初からはっきりとしたコンセプトがあったわけではなく、2018年に起こったすべての出来事を思い起こした時、これまで以上に多面的な音楽になるだろうと確信した。トリオとしての技量が上がり、呼吸もぴったりと合ってきて、より解き放たれた音楽になった。そんな思いから『Free To Play』と名付けた。自身の体験を幅広いジャンルの音楽に取り込んだことによって、サウンドに深みが出て、アルバムにポジティブな影響を与えている」
アルバム冒頭の「Monolitt」(※英語で『Monolith』を意味する)ではチェレスタ(※鍵盤楽器)が使われ、幻想的なイメージから幕が開ける。世界屈指のレコーディングスタジオ、ニレントには「すでにチェレスタが置いてあって、それを使ってオープンでミステリアスなオープニングにしたかった」とエスペンは言う。
「ゆっくりとアルバムの音楽観に入れるように、ピアノトリオの楽曲よりも、即興性の強い曲を頭にもってきた。アルバム全体の統一感がでるようにね」
美しい旋律が緊張とリラクゼーションの間で揺れ動く「Skrivarneset」は、義母の家で過ごした家族の癒しの時間がサウンドに反映されている。
「夏の間、家族で義母の家に行ってホリデイを過ごした。山にハイキングに行ったり、釣りをしたりね。自然に囲まれた素晴らしい景観がそのまま音楽に映し出されている。リズム的には、これまでのトリオの音楽を継承したものになっているけれど、よりエッジの効いたある種のバラードになっている」
愛妻カミラに捧げられた「Camillas Sang」は、エスペンの愛情と感謝の気持ちが胸に響く1曲だ。
「妻のために2014年のソロ作品をトリオ用に書き直した。幸運なことに今回も気に入ってもらえてほっとしたよ。この曲には二面性があって、ひとつは彼女のチャーミングで明るい面を、2つ目は深層部分の哀しみやメランコリズムを表現している。彼女は私にとって、かけがえのない人で、その思いを音楽で描き出した」
2018年に起きた出来事は、家族全員の絆を一層深めたとエスペンは語る。
「それぞれ向き合い方が違って、私自身は哀しみと比例するように、もっと働くようになった。妻は1年かけて、ゆっくりと痛みと向き合っていた。今年の3月、私が仕事でずっと家を空けていた時、彼女はとても苦しんでいた。息子の死から1年が経ち、再びショックがやってきたんだ。でも、家族のサポートもあって今ではだいぶ落ち着いてきた。忘れるのではなく、哀しみを共存することができるようになってきた。子どもたちはエドワルドのことをよく話すんだ。特に3歳の息子が。初めは驚いたけれど、言葉を覚え、やっと自分の感情を表に出せるようになったんだね。家族全員がエドワルドのことを話し合うことによって、少しずつ癒されているんだ」
「’Oumuamua」(※ハワイ語で「最初の使者」を意味する)は、2017年に発見された史上初の恒星間天体から名付けられ、エスペンは銀河を彷徨う孤独な物体に思いを寄せている。
「この曲を書いていた時、オウムアムアのことがふと頭の中に浮かんだ。この不思議な天体はどこからきて、どこに向かっているのか。なぜ太陽系に来たのか、そんな哲学的なことに興味をひかれた。もしかすると、エイリアンなのかもしれない。突然現れて、孤独感と答えのない質問だけを残して去っていった天体が息子の姿と重なった」
これまでのゆったりとした流れと対照的な「Episk-Aggressiv Syndrom」は激情をむき出しにした異色の曲だ。
「昨年の秋に書き下ろしたんだけれど、息子を失ったことに対するリアクションだった。怒りを消化する必要があったんだ。この曲も多面的で、激しい表現方法とクラシックに影響された手法が混ざり合っている。アルバムの中でも異彩を放ち、ダイナミックな1曲として気にいっている」
ラストを飾る「Furuberget」はエスペンが幼い頃に遊んでいた山の名前だ。どこか懐かしい気持ちにさせられる「Furuberget」は、家族の帰る場所であり、故郷でもある。
「アルバムの多種多様な曲を包み込む意味でも、この曲は最後のトラックに相応しい。少しの余韻を与え、この世界観の中でリスナーがそれぞれの曲に思いをはせるスペースを与えている。この曲は昨年の出来事とのパラレルで、心の平穏を表している。実際、山というよりは、なだらかな丘でとても静かなところだ。この場所を家族だけでなくリスナーの皆さんと共有したかった」
3度目の日本公演には愛妻カミラの姿も
3度目の日本公演は新宿の新宿文化センターの小ホールで行われた。その晩のステージは成熟したトリオの高度な技術力に加え、エモーショナルなプレイと激しい感情が交差した感動的なものであった。また観客席には、結婚10周年を迎えた愛妻カミラの姿があり、ステージ上から感謝の言葉を捧げるエスペンの姿には心あたたまるものがあった。
最愛の息子を失くし、深い哀しみから新たな傑作を生み出したエスペン・バルグ。彼が紡ぎだす美しい景色は、これからも多くの人々の心を癒し、聴き継がれていくことだろう。
(取材・文=落合真理/撮影=Atsushi Toyoshima, jazzprobe.com/アーティスト写真=©Christina Undrum Andersen)