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『天気の子』から“人間性のゆくえ”を考える ポストヒューマン的世界観が意味するもの

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ポストヒューマンから読み解く『天気の子』の可能性

 新海誠の監督第7作となる最新作『天気の子』が7月19日に、いよいよ公開されました。興行収入250億3000万円という日本映画歴代2位の大記録を打ち立て、ハリウッドでのリメイクも決定し、さまざまな意味で日本アニメの転換点になったとも評価された前作『君の名は。』(2016)から3年ぶりの待望の新作です。公開後の観客動員も好調なばかりか、批評的にも、すでに『君の名は。』以上の賛否両論を巻き起こしているようです。

 『天気の子』は、伊豆諸島の離島から家出してきた高校生の少年・森嶋帆高(声は醍醐虎汰朗)と、天気を局地的に操る不思議な能力を持った「100%の晴れ女」天野陽菜(声は森七菜)が、異常な降雨が続くオリンピック後の東京の街で出会うボーイ・ミーツ・ガールの物語です。周りに身寄りもなく、貧しい彼らが陽菜の特殊能力を活かして晴れ間を呼び寄せるビジネスを始めますが、しかし、やがて陽菜にはその能力の代償となる、ある宿命が隠されていたことが徐々に明らかになっていきます。

 さて、昨今、「ポストヒューマン」や「ノンヒューマン」という言葉が世間の耳目を集めています。「オブジェクト指向の哲学」などという思想もあり、それらは記号や物体をあたかも生きものや人間のように動かすアニメーション表現それ自体ともしばしば結びつけられたりします。ともあれ、それらは総じて現代世界のさまざまな変化の渦中で、かつての「人間」のイメージや位置づけが変わってきた事態を手広く名指すキーワードでしょう。ぼくもこれまでそうした視点からアニメーションや新海作品をたびたび論じてきたりしました。

 それで行くと、今回の『天気の子』もまた、そうしたポストヒューマン的問題――いわば従来の「人間」と「人間以後」のはざまを問う問題――について考えさせる細部を如実に含んだ作品に見えます。このレビューでは、さしあたりそうした視点からこのヒット作を読み解いていきたいと思います。

キャラクター表現の初期作への回帰

 まずはそのことを、新海作品の系譜から紐解いてみましょう。たとえば、それは『天気の子』の持つ、かつての新海作品を髣髴とさせるような、キャラクターの設定や描写の希薄さ――つまり、「人間」としての厚みを欠いたキャラクター像という意味でのポストヒューマン性として表れているように思います。

 今回の新作で目を引くのは、主人公の帆高や陽菜のキャラクター造型の薄っぺらさでしょう。神津島にいる家族のもとから家出してきたという帆高にせよ、映画の冒頭シーンで母親を亡くし、弟の凪(声は吉柳咲良)とともに安アパートで暮らしている陽菜にせよ、彼らの過去の説明は極端に省略され、また、今回の作品のモティーフである天候=風景描写の濃密さに比較すると、その感情や行動の説話的連続性や描きこみはかなりほつれ気味で、表層的な印象を受けます。今回、作品を観た少なからぬ観客がすでに指摘している、ラストの帆高の行動の選択と物語の結末の、いささか唐突で消化不良気味にも見える印象も、こうした設定や描写の希薄さに由来しているといってよいと思います。 

 事実、その点については新海自身も、公式パンフレットのインタビューのなかで、「トラウマでキャラクターが駆動される物語にするのはやめようと思った」(16ページ)ので、帆高の家出の理由をあえて意図的に語らなかったと述べ、また、当初、「父親殺し」のような濃密な関係性を割り振っていたという帆高と、彼を自身の零細編集プロダクションへ雇う須賀圭介(声は小栗旬)のあいだの描写も、より穏当なかたちに変更したと明かしています(14ページ)。

 こうした『天気の子』の演出は、さしあたり前作『君の名は。』とはいかにも対照的です。『君の名は。』では、ヒットメイカーとして知られるプロデューサーの川村元気の意向が大幅に反映されたと思われますが、そのために新海アニメーションの代名詞的なイメージであった風景表現が相対的に抑制され、代わって田中将賀のデザインによるキャラクターの描写や演出のほうが強調されていました。ひるがえって、その意味で(同じ田中が引き続きキャラクターデザインを手掛けているにせよ)『天気の子』は、新海のフィルモグラフィからいうと、むしろ『ほしのこえ』(2002)から『秒速5センチメートル』(2007)にいたる、初期作品群のテイストに回帰しているといえます。

 これまでにもしばしば指摘されてきた点ですが、これらの初期作品群に顕著なように、本来、新海という作家は、風景表現の緻密さに比較して、キャラクターの造型に関しては弱いところが目立ちました。そしてそれは、もともと彼がアニメーター出身ではなく、パソコンゲームのオープニングムービーの制作からキャリアを出発させたというユニークな経歴に由来しているとされてきたのです。つまり、新海のアニメーションの画面とはゲームの背景イラストとそのうえにペタッと載るキャラクターの立ち絵にそのままなぞらえられるのであり、そこではキャラクターの描写もどこかプレーンなものとなります。『天気の子』の帆高や陽菜の描写は、その意味で『雲のむこう、約束の場所』(2004)の浩紀や『秒速』の貴樹と同様のテイストに戻っているといえます。

ついに全面化した天気=風景モティーフ

 それゆえに、今回の新作で新海が、自らの代名詞的なモティーフである「天気」=「風景」を、満を持して本格的に物語の主軸に据えたのも、そうした人物描写の希薄さと表裏の関係にあると理解できるでしょう。

 余談ながら、新海の次回作が「空」や「雲」を本格的に舞台にするものになりそうだという予感は、じつはぼくには以前からありました。というのも、3年前の『君の名は。』公開直後に、――確かLINE LIVEでの映画公開記念イベントに新海が出演した際だと思うのですが――、彼がそれに近いことを答えていたからです。ぼくも細部は記憶が曖昧なのですが、その時に新海は、司会の女性アナウンサーに早くも次回作の構想を問われていて、「かなとこ雲」(だったと思うのですが)という積乱雲の一種で横に広がった雲があって、そういう雲が舞台になるような物語を作ってみたいと答えていたのです。おそらくそのイメージは、上空を飛翔する陽菜の目の前に広がる、庭のように緑が生えた大きな雲として『天気の子』に活かされています。

 ともあれ、デジタル時代のアニメーション作家である新海の創造性の内実を理解する時に、この風景=天気(と今回の物語の主要な要素である雨=水)のイメージはきわめて重要です。

 かつて映画学者の加藤幹郎は、新海アニメーションのクラウドスケイプ(風景表象)について論じ、その生成変化する雲の動きの「可塑性」(かたちの変化)に着目したことがありましたが(「風景の実存」、『アニメーションの映画学』臨川書店所収)、以前、ぼくも新海について論じた拙稿(「彗星の流れる「風景」」、『ユリイカ』2016年9月号所収)で記したように、こうした雲や水の表現が象徴的に描き出す可塑性のイメージ――グニュグニュモコモコと動くかたち――とは、一方でアニメーションというメディウム、他方でデジタル映像というメディウムが備える特権的な特徴でもあります。たとえば、水の表現に関していえば、6月にリアルサウンド映画部に寄稿したコラム(「『海獣の子供』『きみと、波にのれたら』『天気の子』 今夏アニメ映画の注目ポイントを一挙解説!」)でも書いたように、『Free!』(2013-)などの京都アニメーションの諸作品をはじめ、今年の夏アニメでも、『海獣の子供』や『きみと、波にのれたら』など、デジタル時代ならではの、さまざまな表現の実験や革新が試みられています(そういえば、『天気の子』で登場する魚のかたちをした雨滴も、宮崎駿『崖の上のポニョ』[2008]の「水魚」を思わせました)。もちろん、新海自身、雨=水の表現については、すでに『言の葉の庭』(2013)で極限まで追求していました。

 このように、『天気の子』のポストヒューマン性とは、まずは新海自身のキャリアを振り返ってみた時に、彼の創造性の根幹にあったキャラクター描写の希薄さに見出すことができます。さらに、なおかつそれは、あたかもそれと引き換えに全面化した、デジタル/アニメーション固有の特性を存分に表現するモティーフであり、なおかつ彼の作品の特権的なイメージを形作るクラウドスケイプ(天気=風景)の表現とも表裏をなしているというわけです。

アントロポセンに向かう世界

 いずれにせよ、以上に指摘してきた『天気の子』をめぐる表現上のポストヒューマン性は、いうまでもなく、他方で物語のうえのそれとも密接に連動しています。

 それはもちろん、この作品が主題とする、異常気候の近未来世界にこそ典型的に示されているでしょう。『天気の子』が描く2020年代初頭の世界では、長期間にわたって大量の雨が降り続き、現在の街はその一部が水没してしまっています。思えば、新海は『君の名は。』でも三葉たち人類の日常世界を突如襲う巨大な災厄(ティアマト彗星の分裂落下)と「人間の死滅」を描いていましたが、ご存知のように、同様のディザスター映画は、国内外でこの十数年、連綿と描かれ続けているわけです。

 こうした現象は、多くの論者がすでに論じ、またほかならぬ新海自身が述べている通り、明らかにぼくたちの現実世界で起こっているカタストロフ的な変化と関係しています。たとえば、それに作中で目配せを送っているのが、『天気の子』の終幕近く、帆高が眺めるオカルト雑誌の誌面に記された「アントロポセン」なるキーワードですね。アントロポセン(Anthropocene)とは「人新世」と訳される、近年、地質学の分野で提起されている新しい概念です。それ以前、もっとも新しい地質時代区分は、最終氷期が終わった以降を指すホロシーン(完新世)でした。ですが現在、人類という生物種の活動は大量の汚染物質の蔓延、6度目の大量絶滅とまでいわれるほどの生物多様性の急激な破壊、そしてほかならぬ地球温暖化をはじめとする急激な気候変動など、地球に対して惑星規模の大域的な影響を与えるようになっており、現状では現在形成されつつある地層は、もはや完新世とは異なる痕跡を地球に永続的に残す可能性がきわめて高くなっています。それゆえに、人類の生存可能性も含め、人類による環境変動を地質学的に確定しようと、ぼくたち人類の生きている現在を指す地質年代として、2000年に大気化学者のポール・クルツェンと生物学者のユージン・ストーマーによって提唱されたのが、アントロポセンなのです。

 つまり、作中でも慎ましやかに登場するこのキーワードが暗示するように、『天気の子』の物語もまた、まさに「人間以後」という意味でのポストヒューマン性をテーマとしているのです。また、この意味で、人間ではない動物に、「アメ」(雨)という可塑的な流体で、なおかつアントロポセンに関係する気候変動を意味する名前をつけられた猫のキャラクターは、きわめて暗示的であるといえるでしょう(新海の作品が『彼女と彼女の猫』[2000]、『猫の集会』[2007]、『だれかのまなざし』[2013]など、しばしば動物=人間以外の存在の視線から語られているという経緯も含めて)。

 あるいは、そうした世界観は、本作における――「美しい東京」や「豊かな日常」を描いた『君の名は。』とはいかにも対照的な――「汚い(ダークな)東京」や「貧しい日常」の描写にも表れているかもしれません。グローバル資本のポジティヴな趨勢とみごとに同調した日本の風景(クール・ジャパン!)を鮮やかに切り取り、1600円のパンケーキを放課後に頬張る、いわゆる「リア充化」した都会の高校生の主人公を描いた『君の名は。』に比較し、『天気の子』は一転、その行き詰まった負の側面を容赦なく描いている点でも強く印象に残ります。雨が降り注ぐ文字通り暗い東京の街は、雑居ビルの風俗店やラブホテル街、あるいはゴミ溜めの路地で溢れています。帆高はそんな街で、風俗のキャッチの男に殴られ、マンガ喫茶でカップラーメンをすすりながら、「Yahoo!知恵袋」でアルバイトの職を探すのです。

 こうした『天気の子』の描く、今日のグローバル資本主義の八方塞がりの閉塞状況のイメージは、イギリスの批評家マーク・フィッシャーがいう「資本主義リアリズム」という言葉を想起させるものではないでしょうか。あるいは、かなり雑駁な印象を承知でいってみれば、それはフィッシャーも関わっており、2010年代に大きな注目を集めている「加速主義」(Accelerationism)と呼ばれる思想的動向とも重ねてみたくなる世界観です。加速主義とは、さしあたりグローバル資本主義への唯一の「抵抗」として、テクノロジーを駆使しながら、現在の資本主義のプロセスをより加速させることで資本主義それ自体の「外部」を目指すという「反動的」な立場を指します。ある論者はそれを「悪くなればなるほど、良くなる(the worse, the better)」と表現しているようですが、それはあたかもYahoo!知恵袋(というダークでいまや古風なテクノロジー)に徹底的に依存することで、結果的に自己の未来へとイグジットしてしまう(「僕たちは、大丈夫だ」)『天気の子』の物語にも、どこかなぞらえられはしないでしょうか。そして、実際のところ、加速主義に詳しい文筆家の木澤佐登志も、まさに加速主義の「ポストヒューマン的」(あるいは「非人間的」)な性質に注意を促しています(『ニック・ランドと新反動主義』星海社新書を参照のこと)。とはいえ、加速主義の中身については、ぼく自身はほとんど詳しくないので、これ以上深くは論じませんが。

現代アニメのポストヒューマン性

 何にせよ、『天気の子』がさまざまな面で、今日のポストヒューマン的な表現や世界観に馴染んでいることは明らかなように思えます。そして、そのことはまさに現代のアニメーション表現が抱えている本質的な問題とも一脈通じるところがあるでしょう。

 たとえば、批評家の石岡良治は最近刊行した新著で、『ぱにぽにだっしゅ!』(2005)に触れながら、「シャフト作品における物と情報のあり方は、人間以外の様々な事物が「群像劇」のエージェントとなる状況を作り上げてい」(『現代アニメ「超」講義』PLANETS、98ページ)ると述べていますが、この指摘は、「人間以外の様々な事物」がかつてとは異なったあり方で人間と関わってくる様子が描かれるという点において、『天気の子』で示されたようなポストヒューマン的なリアリティとも共通する部分があります。

 あるいは、今日のアニメーション作品が従来のイメージの「人間」とはかけ離れた存在を描くようになっているのではないかという見立ては、アニメーション研究の土居伸彰も同様に提起しているものです(『21世紀のアニメーションがわかる本』)。土居によれば、現代のアニメーション表現には、「『私』から『私たち』へ」とでも要約できるような表現上のパラダイムシフトが見られるといいます。いってみれば、ディズニーからスタジオジブリまで、かつての20世紀的なアニメーションが確固としたアイデンティティを備え、世界と対峙する「私」を描いていたのだとすれば、21世紀の近年になって現れたアニメーションの注目作は、おしなべて複数の「私」があいまいに入れ替え可能となり、匿名的に共存し合う他者性のない「私たち」を描いている。土居は、そうした新たなキャラクター像を「棒人間」や「ゾンビ」といった言葉でいいかえているのですが、これもまた紛れもなく通常の人間から逸脱したポストヒューマンの姿そのものだろうと思います。土居は、そうした――ここでの表現を使えば――ポストヒューマン的な存在の具体的な例を、『映画 聲の形』(2016)や、まさに『君の名は。』に見出していたのであり、その文脈を踏まえても、『天気の子』がやはりそうしたパラダイムに沿って成立していることは一定の程度以上に確かなように感じられます。

 以上、さまざまな観点から辿ってきましたが、『天気の子』は「人間以後」の秩序や主体像をはっきりと垣間見せてくれるアニメーションだといえるのではないでしょうか。

帆高の選択の「人間性」

 ……しかし、最後に、ここで立ち止まってみたいのです。

 その理由は、ほかでもない、『天気の子』の、あのラストの(賛否両論の)帆高の決意の意味について考えるためです。率直にいえば、ぼくもあのラストにいたる流れは、少々強引で、自己愛的ではないかと思いました。しかし他方で、あの選択は、ポストヒューマン的な表現やモティーフをあちこちで描いてきたこのアニメーションのなかで、最後、逆にいまの時代における人間性のありようについて、あらためて観客に問いかけたシーンだとも思うのです。

 繰り返すように、ぼくたちの生きる現代世界は、AIから異常気象まで、ある種の「人間性」からラディカルに逸脱し、遠ざかっていくような事態がいたるところで起こっています。ですが思えば、そうしたポストヒューマン的でしかありえない事態が起これば起こるほど、その反動のようにして、ぼくたちがやはりどうしようもなく人間であり、また人間として社会や文化を組織し、維持していかざるをえないことも否応なく自覚的してしまいます。そしてまた、そうした自覚を求めてしまう状況がかつてなく広まっているともいえるでしょう。悩ましいのが、その場合、従来の人間的な倫理や道徳の根拠が疑われ出し、チャラになればなるほど、それらへの要求がいたるところで過剰に高まっているように見えることです。

 たとえば、その典型的な例が、近年のハリウッド映画のあちこちで目にする、ポリティカル・コレクトネスの表現でしょう。そこでは、女性やアフリカ系、性的マイノリティなど、多種多様な存在を公正に描くことが絶えず配慮されるようになっていますが、ここには、ポストヒューマン時代だからこその、人間主義の要求とでも呼べるような文化的感性が広がっています。あらゆる存在に「人間」としての公共性を付与しなければいけない――そうした現代ハリウッド映画の自意識は、一例を挙げるならば、まさに「人間以外の事物」=おもちゃの「群像劇」である『トイ・ストーリー4』(2019)の物語にも端的に表れていました。というのも、ピクサーのスタッフたちは今回、本来は持ち主の子ども=人間を信頼し、彼らに従属するはずのモノ=ノンヒューマン・エージェンシーであるおもちゃに、その結末で、彼らから離れ、いかにも人間的な主体性・自立性に目覚めるという選択をさせたのですから。そこでは、おもちゃすら人間的な自立や社会性(のようなもの)を与えられる。これは、いかにも現代の北米的なリアルをわかりやすく反映した表現です。

 急いでつけ加えておきますが、当然ながら、あらゆる人間(や存在)に社会的公正を約束するこうした今日的な配慮は、それ自体徹底的に擁護されるべきものです。それはいうまでもありません。しかし同時に、ポスト・トランプの現実に生きているぼくたちは、そうした「人間性」の擁護が、ややもすると別の隘路に入り込んでしまうこともよく知っています。

 そう考えた時に、今回、『天気の子』で新海が描いた、あの「独りよがり」にも映る結末は、本当の意味でポレミカルなものとして、ぼくたちに迫ってくるのではないでしょうか。たとえば、『天気の子』で帆高が取る選択は、『トイ・ストーリー4』のような今日のハリウッド映画が描くものとは真逆のものでしょう(おそらく、あの結末に納得できない観客の理由の多くにはそれが関係しています)。詳しくは書くのは控えますが、そこで彼は、公共的な社会秩序や厚生(小説版の表現を借りれば「大勢のしあわせ」)よりもごくごく私的な、個人的な思い(感情)のほうを選ぶ。この帆高の決断(これをあえて「倫理」と呼んでもいいでしょう)は、昨今のハリウッドの描く公共的な人間主義に明らかに背をむけつつも、それでも、この現代において、きわめて「人間的」でありうることの可能性と限界を同時に示してもいると思います。この問題については、ぼく自身ももう少し考えてみたいと思っていますが、帆高(と新海)のいう「大丈夫」という言葉を、ひとまずはそのような複雑な含蓄をもって受け止めておきたい。

 『天気の子』の「人間以後」は、同時に、ぼくたちが現代において、どこまで、あるいはいかにして「人間的」でありうるのかも問いかけているのです。

■渡邉大輔
批評家・映画史研究者。1982年生まれ。現在、跡見学園女子大学文学部専任講師。映画史研究の傍ら、映画から純文学、本格ミステリ、情報社会論まで幅広く論じる。著作に『イメージの進行形』(人文書院、2012年)など。Twitter

■公開情報
『天気の子』
全国公開中
原作・脚本・監督:新海誠
声の出演:醍醐虎汰朗 森七菜
キャラクターデザイン:田中将賀
作画監督:田村篤
美術監督:滝口比呂志
音楽:RADWIMPS
製作:「天気の子」製作委員会
制作プロデュース:STORY inc.
制作:コミックス・ウェーブ・フィルム
配給:東宝
(c)2019「天気の子」製作委員会
公式サイト:https://www.tenkinoko.com/