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『ライオン・キング』は“いま観られるべき映画”なのか 映像表現は革新的だが、価値観は後退!?

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 『リトル・マーメイド』(1989年)から始まった、ディズニー第二次黄金期と呼ばれる、劇場アニメーションの作品群が製作されていた時代のなかで、最も世界興行収入を伸ばしたのが、『ライオン・キング』(1994年)だった。ウォルト・ディズニー・ピクチャーズによる、ディズニー・クラシック作品の実写リメイク企画が盛んな現在、今回のリメイク版『ライオン・キング』が製作されることは必然的だったといえよう。

参考:『ライオン・キング』フル3DCGの世界を拡張する4DXの技術 「命の輪」を体感できる演出に

 ディズニーの近年の企画では、続編的な扱いのものや、内容を改変したものもあるが、本作『ライオン・キング』の内容は、基本的には忠実にアニメーション版をなぞっている。となると新たな見どころは、映像表現ということになるだろう。ここでは、本作の映像を中心に革新的な部分を紹介するとともに、オリジナル版を含めた本作の問題にも触れていきたい。

 ライオンが躍動し、動物たちがサバンナに佇む。ほとんど実写にしか見えない映像だが、じつは、これらが描かれた本作のすべてがCGアニメーションで表現されている。このような、実写かアニメーションか、一見して判断がつきかねる本作の製作というのは、監督ジョン・ファヴロー(『アイアンマン』)が、やはりディズニーのリメイク作品『ジャングル・ブック』(2016年)を手がけたときから予想できていたことだ。『ジャングル・ブック』でも、主人公モーグリ少年以外に登場する動物たちが、すべてCGアニメーションによって作られ、その意味において、本作への試金石となっていたといえるだろう。そして人間の出演者がついにいなくなった本作では、もはや全体が超リアルなCGアニメーション作品となっているのだ。

 CGアニメーションによる、実写と見まがう映像は、もはやオリジナル版が公開された25年前の映画業界から見ると、魔法としか感じられないかもしれない。本物にしか見えないライオンや動物たちが、過去のアニメーション版を基に、それぞれいきいきと適切な演技をしているのである。どんな優秀な動物や調教師がいたとしても、このような映像を実写で撮影することは不可能だ。さらに、主人公のライオン、シンバが生を受け祝福される、プライドロックを含めた自然もまた、CGによって雄弁な魅力を与えられている。

 この人間不在の、ほとんど実写のような映像を見ていると、もうCGのみで実写作品……いや、すべての要素が整理され必要なものだけで構成された、実写を超えた作品が製作できることが可能だということが実感できる。やろうと思えば、人間の出演者不在で人間ドラマをCG製作することもできるだろう。ただ、かつて『バットマン フォーエヴァー』(1995年)で、バットマンが高いところから飛び降りて着地し、去っていくまでのアクションをすべてCGで表現した際のように、ハリウッドの映画俳優組合の猛反発があることが予想されるため、なかなか同様の試みができなかっただけである。

 とはいえ、俳優の演技とCGの融合は進んでいる。『アリータ:バトル・エンジェル』(2019年)のように、精細なモーションキャプチャーによって、人間の演技を、表情のニュアンスまでCGキャラクターへと投影した例もある。

 ファヴロー監督の『ジャングル・ブック』でもモーションキャプチャーが使われていたが、本作では声の出演をした人物たちの動きを撮影し、モーションキャプチャーを使わずに、CGアニメーターが映像を基に、実際の動物の生態を加味しながら、キャラクターの演技を作っていったという。このように、数年の進化によってスタジオは、より直感的にCGキャラクターの動きを作ることができるようになってきているのだ。

 新しい試みは、それだけではない。本作はCGアニメーションによって、『ライオン・キング』の舞台となるプライド・ランドの風景や動物たちの動きをまるごと作り上げ、そのデータをVR装置を装着したカメラスタッフが実際にカメラを操作し、人の手によるアナログなカメラ操作によって撮影を行ったのだという。このことで、撮影は“完璧でない”実写のそれへと近づき、よりナチュラルでリアリティを感じる映像を作り上げている。

 とはいえ、こうやって作られた圧倒的な映像表現は、それがあまりにも実写映像へと接近していることで、オリジナル版と比べ、「ナショナルジオグラフィックのようで味気ない」と感じる観客もいるだろう。だがリメイクするからには、そこまでやってオリジナル版との違いを見せるからこそ、その存在意義が生まれるともいえるのではないだろうか。オリジナル版の良さを感じたいのなら、オリジナル版を鑑賞すれば良いのだ。

 その一方で、本作のストーリーや演出については、ビヨンセの曲が加えられているなどの細かな違いはあるものの、基本的にオリジナル版をかなりの部分でコピーしていて、ほとんど“アニメそのまま”と感じられるのも確かなことだ。これに関してファヴロー監督は、オリジナル版の完成度が高いため、大きな変更を加える必要がなかったと発言している。しかし、本当にオリジナル版の『ライオン・キング』は、そこまで完璧な作品だったのだろうか。

 本作が提示するのは、「サークル・オブ・ライフ(生命の輪)」という、動植物たちが生まれ、死んでいき、それが次の生命の糧となっていくという死生観であり、それがむき出しのかたちで表れるアフリカのサバンナの魅力であろう。だが、オリジナル版をも含め、本作はそのようなテーマを、ディズニーのいままで描いてきたような“王国”のストーリーに組み込んでしまっている。

 言うまでもなく、実際のサバンナにはライオンを王とみなす動物たちの生態は存在しない。それをファンタジーとして受け取ったにせよ、動物の肉を食らう肉食獣としてのライオンに、草食動物たちが従い忠誠を誓っている様子には強い違和感が与えられる。その矛盾を批評的に描いたのが、ディズニーアニメ『ズートピア』(2016年)であったはずなのだ。

 それでいて、善政を敷いていると描かれているライオンたちが草食動物を狩る実際のシーンは用意されていない。草食動物たちが、自分たちを食べるライオンの王を心の底から尊敬する……などということが、ファンタジーのなかとはいえ、果たしてあるのだろうか。草食動物たちの心理を描いた時点で、本作における善悪の基準や、王国のシステムの素晴らしさなどは一気に瓦解してしまうのではないか。本作で草食動物の立場に立った心理描写は、ほぼ“意図的に”抜け落ちているのだ。

 本作が類似を指摘されることがある、手塚治虫の『ジャングル大帝』では、虫をタンパク源にしたり、人間の研究者が開発し、動物たちの手によって栽培された“人造肉”が肉食獣に提供されるという仕組みを登場させることで、王国の動物の命を奪わない設定を作り上げていた。本作もまた、虫を食べるという描写を加えることで、納得しづらい王国のシステムに解決策を示している。だが、『ジャングル大帝』をも含め、これらの試みが虚しく感じられるのは、実際のサバンナの肉食獣は人造肉を食べたり、虫を主食にはしていないだろうからである。

 ライオンがすべての動物を支配するという、現実にあり得ない動物界の統治システムを成立させながら、その上で善悪を描くこと自体に、かなり無理があるのだ。そして、本作を含めてディズニーが描いてきた王国の物語自体が、現代の社会においては保守的なものとして映ってしまうことも事実である。

 オリジナル版同様に、シンバがたどり着いた、動物同士に上下関係のない共同体が虫を食べているように、現実の食糧危機においても、生産するコストが高い家畜を育てる肉食よりも、穀物を中心にした方が、人口増加による食糧危機に対応することができるというデータがある。そのように進歩的な文化にシンバが触れながら、「王の魂」のような血族的な誇りを理由に、彼は昔ながらのシステムへと回帰してしまう。このような進歩性からの脱出は、近年新しい社会的な要素を描いてきているディズニー作品としては、価値観が後退しているような印象を受ける部分である。革新的な映像以外の点において、本作が“いま観られるべき映画”であるかどうかというのは、怪しいところなのではないだろうか。(小野寺系)