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世界と繋がる手段としてのピアノ 『蜜蜂と遠雷』が描く、孤独な天才たちの拠り所

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 「世界」のなかで私たちは、「私」という存在をどのように位置づけることができるだろう。国際ピアノコンクールを舞台に、世界を目指す4人の若きピアニストたちの姿を描いた映画『蜜蜂と遠雷』。本作は彼ら一人ひとりの栄光と挫折、才能と苦悩、そして葛藤が映し出されている作品ではあるが、ピアニストとしてはもとより、音楽の世界における各人の、「世界」と「私」の関係性についての認識の物語となっている。

 最愛の母の死をきっかけに、表舞台から姿を消してしまった“元・天才少女”(松岡茉優)。正統な音楽人生を送ってきた“エリート”(森崎ウィン)、妻子持ちで才能にも年齢にも限界を感じている“生活者”(松坂桃李)。そして、自宅にピアノすらない環境に身を置きながらも、著名なピアニストにその才能を見出された“天才”(鈴鹿央士)。彼ら4人は世界での活躍を目指し、国際ピアノコンクールの舞台で競い合う。しかし、本作で描かれているのは闘いではない。

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 恩田陸による同名小説を映画化した本作のメガホンを取ったのは、2017年に『愚行録』で長編映画デビューを果たした石川慶。前作に引き続き、今作も撮影はピオトル・ニエミイスキが務め、人物たちの心情の噴出を硬質なタッチで捉えている。はじける水の中を一頭の黒馬が駆けるイメージ映像に、壮麗なピアノ曲が重なる幕開けから受け取ることができるのは、夢を追いかける者たちの陽気で前向きな印象などではなく、どこか冷たく孤独なものだ。同じように、ピアノの前に座する彼らはたったひとりきりであり、周囲に観客やオーケストラ、見守る者がいようとも、つねに孤独なようである。“おたまじゃくし”を読むことができず、鍵盤の“ドレミ”の位置もよく分からない筆者にとって、彼らの抱えているものの強大さは想像もつかない。ただ、黒馬が画面いっぱいにもがく姿は、彼らの姿と重なり、それは孤独というよりも孤高という方が正しいように思える。

 そんなピアニストを演じる俳優たちは、もちろん完全に演奏をしているわけではない。実際に演奏しているのは、ホンモノの一流ピアニストたちであり、俳優たちはその楽曲に、まるで舞うようにして身体をシンクロさせている。音楽的素養の乏しい筆者にとって、奏でられるそれらは、どれをとっても素晴らしいものだとしか言いようがない。コンクールとあれば奏者には順位がつけられることになるわけであるが、正直、聴いているだけでは優劣の判断もおぼつかないのだ。ここで奏者を演じる俳優たちに課せられているのは、“元・天才少女”、“エリート”、“生活者”、そして“天才”というそれぞれの置かれた状況下での心の機微を、音楽にあわせて挙動で示すということである。彼らの前にある「ピアノ」、ひいては「音楽」というものは、彼らにとって「世界」そのものだ。つまり三者三様の振る舞いは、それぞれの「世界」との対峙の仕方というものにそのまま繋がっているのである。

 会話劇となるシーンももちろんあるが、やはり見どころとなるのは彼らが鍵盤をはじく姿。だが音を発しているのは彼らではないのだから、俳優たちの表現は音楽ではなく、身体にこそあるのだ。この点を踏まえた上で作品を振り返ると、先に述べたように、彼らの身体の動きは音楽にあわせた“舞い”と呼ぶにふさわしい。音色に対しては「力強い」「美しい」といったチープな感想しか出てこないのだが、身体に対しては思わず感応してしまう。クラシック音楽に敷居の高さを感じる方も、おそらく同様だろう。

 さて、本作は、母の死によって「私」を喪失してしまった少女が、「世界」に対して「私」という存在を再度見出していく物語だということができる。まだ幼かった少女にとって大切な人を失うというのは、あまりに大きな耐え難い経験なのだろう。大切な母との間に介在していたのはピアノであって、その母の死によって彼女は、これまでと同じようにはピアノに向き合うことができなくなった。母親の存在は彼女にとっての拠り所であり、この母がピアノを介して、“世界には音楽が溢れていること”を幼き少女に教えてくれた存在なのである。

 ピアノに向き合うことができなくなるということは、逆説的に、母という拠り所の完全な喪失を意味している。つまり、「世界」から「私」を失ってしまうということに繋がっているのだ。それは、ピアニストである彼女にとって、「私=自信」の喪失とも言える。そしてこれは彼女だけでなく、才能にも年齢にも限界を感じている男が、“生活者だからこそ出せる音”を志し、家庭というものを拠り所としていることや、決して恵まれた環境ではないのに“天才”として見出された少年が、“ピアノそのもの”を拠り所としているのとも同じである。

 拠り所というものは、誰にだってあるだろう。彼らにとってのそれは、「ピアノ」そして「音楽」とかなり近しい場所に位置づけられているのだ。音楽に向き合うことが全てであるの彼らにとって「ピアノ」とは、「世界」と繋がる手段なのである。

 私たちは自らの生活において、「世界」というものをどのように規定し、そのなかにある「私」という存在をどのように認識することができるだろう。『蜜蜂と遠雷』は音楽の世界を通して、ふと、そんなことを考えさせてくれる。この作品もまた、観る誰かにとっての拠り所となり、「世界」に繋がるためのものとなるかもしれない。

(折田侑駿)