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『ボーダー 二つの世界』と『ジョーカー』の共通項とは アウトサイダーを描く作品が映し出す現実

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リアルサウンド

 暴動が起きようとしている。トッド・フィリップスの『ジョーカー』はそんな現代の空気をふんだんに吸収した映画であり、ベネチア国際映画祭の金獅子賞を受賞するなど高い評価を得たのも、逆に現実で暴力を助長するのではないかと懸念されるのも、同作が現代社会の歪みを生々しく映し出していることの証明だろう。ほかにもイ・チャンドンの『バーニング 劇場版』やジョーダン・ピールの『アス』など、ますます拡大する経済格差を背景とし、その下層で生きる人間たちの怒りが閾値に達しようとしている様を描く映画作品が同時多発的に発生している。

参考:ほか場面写真はこちらから

 こうした作品群と緩やかにシンクロしつつ、さらに経済格差の問題に限らないこの社会のアウトサイダーの境遇を見つめる映画がアリ・アッバシによる『ボーダー 二つの世界』である。原作は「スウェーデンのスティーヴン・キング」とも称され、『ぼくのエリ 200歳の少女』の原作者として知られるヨン・アイヴィデ・リンドクヴィストであり、本作においては共同脚本も務めている。社会の周縁に生きる人びとを題材にすることが少なくないリンドクヴィストだが、そうした意味において、『ボーダー』は『ぼくのエリ』に引き続いての代表作となることだろう。

 主人公は生まれつきの醜い(と一般的にされる)容貌を持ち、そのことで悩んで生きてきたティーナ。彼女はなぜか「人間を嗅ぎわける」能力を持っており、それを生かして税関で職員を務めている。たとえば児童ポルノを持ちこもうとした男の罪悪感や羞恥心を嗅ぎ取り、その犯罪行為を突きとめることができるのである。あるときいつものように嗅覚を発揮して怪しい男ヴォーレを税関で止めるが、とくに違法なものは出てこない。それでも不思議なものを感じ取るティーナ。やがてヴォーレと交流することになり、やがて自身の出生の秘密を知ることになる……。

 その出生の秘密が何なのかは物語の核心部分であるから触れられないが、そこから映画が一気にダーク・ファンタジー的な様相を帯びてくることは書いておこう。セックス・シーンも含め、想像をはるかに超える奇妙な展開が用意されている。だが、『ぼくのエリ』がそうであったようにファンタジー要素を持ちながらも、リアリティを失っていない。

 それは主人公ティーナの存在の切実さが請け負うところが大きい。彼女は生まれつきの容貌にコンプレックスを持っており、自分が他の人間とは違うことを普段から噛みしめている。同居人のローランドはひも状態でティーナの家に転がり込み、ろくな仕事もしていない。彼らの関係に愛情はなく、ティーナは利用されていることをじゅうぶん理解しているが、孤独に耐えきれずにローランドの横暴を許しているような状態だ。

 彼女は本心から自分の居場所を見つけられないでいる……いわばアイデンティティを見失った存在なのだ。ティーナが森のなかで動物たちと交流するシーンが何度か挿しこまれるが、それは彼女が人間社会で疎外感を抱いていることと関係しているだろう。そんな彼女は、ヴォーレと出会うことで変わっていく。ティーナと似た容貌のヴォーレははじめて親近感を抱ける相手であり、彼女はそのことで自らのアイデンティティを発見していくことになるのだ。その象徴とも言えるのが、ティーナとヴォーレが森のなかを全裸で走るシーンだ。その瑞々しい解放感は、自身のアイデンティティを発見し、また選択した喜びが表現されているように見える。

 容貌のせいで疎外感を感じ差別を受けるというのは、人種問題と関係しているだろう。また、本作はある部分で『ぼくのエリ』を思わせるクィア的な要素を含んでもいる。ふたりはあらゆる側面においてマイノリティであり、そのアウトサイダー性は様々なところに及んでいるのである。ティーナはそこまで生活に困窮しているようには見えないが、いっぽうのヴォーレは一箇所に安住しておらず、かなり不安定な生活を強いられているようだ。これは現在のヨーロッパにおける移民のメタファーにも思えるし、貧困問題にも肉薄しているだろう。人種問題、ジェンダー、格差、移民、貧困……この映画が「現実社会」にリーチする要素は非常に多い。そして、先述した森を走るシーンは絶対的なアウトサイダーであるふたりの存在を、社会から隔絶された場所(森=自然)でささやかに祝福するようだ。

 けれども映画は、そう簡単に気持ち良い決着を見せることはない。先述したように児童ポルノのモチーフが本作には入っているが、中盤から本格的にそれがプロットに入ってくることになる。これは、たとえばスティーグ・ラーソンの<ミレニアム三部作>に代表されるような北欧ノワールと近接するものでもある。ではなぜ、原作にはあまりなかったそのノワールの要素が取り入れられたのだろうと思って見ていると、やがてヴォーレが社会に対してある「復讐」を画策していることがわかってくる。それは何も、暴動をいますぐ起こすことではない。そうではなく、すでに現実の社会にある「歪み」をちょっと刺激するだけでいいというのである。これは人間というものがいかに愚かな存在であるかを突きつけるもので、あまりに重い。

 そして、自らのアイデンティティを選び取ったティーナが「復讐」に参加するのか否か。そこが本作の焦点となる。究極のアウトサイダーであるティーナは、自らを虐げてきたこの社会にどのように抵抗するのか。どちらにしても、本作が観客に考えさせるテーマはこの社会のシリアスな問題そのものであり、だから映画の余韻は苦い。

 『ジョーカー』はむしろある種その「復讐」への欲望を解放する映画にも思える。ホアキン・フェニックス演じるアーサーはあらゆる面でこの世から見捨てられた男で、彼がジョーカーという善悪の境界を見失った「狂人」になってしまうのは彼を救う者やシステムが一切なかったからに他ならない。そして、彼に触発されてしまった「下層」の人間たちが、社会への復讐を果たそうと蜂起するのである。舞台は80年代辺りのゴッサム・シティということになっているが、インターネットという要素はないものの、2010年代の都市のように見えてくる。

 アーサー自身は「政治的な」存在ではないし、もしかすると『ジョーカー』も直接的には「政治的な」映画とは言えないかもしれない。具体的にどうするべきかというプラクティカルなメッセージはなく、いま、この世界で起こっていること、またはその空気を風刺することに留まっている。しかしだからこそ、メタファーこそが現実世界を鋭くえぐることの好例……いや、もっともヘヴィな部類の例だと言える。

 一方、『ボーダー 二つの世界』はもっと曖昧な領域に踏み入ろうとしている。それは、リンドクヴィストがつねに持つアウトサイダーへの慈愛にも似たまなざしによるものではないだろうか……。アウトサイダーたちはいつの時代も生きるのが難しく、しかし、この映画はそうした社会から見棄てられた人びとの実存を諦めることはないのである。

 現在、社会の「下層」ないしはアウトサイダーの怒りや疎外感や苦境をモチーフとした作品群が注目され、多くの支持を得ていることは、それらがわたしたちが生きる世界のリアルを映しているからに他ならない。暴動が起きようとしている……その危機感は、現代を生きるわたしたちの内部で膨れ上がり、限界を迎える寸前である。だからいまわたしたちは、この世界を巣食う不平等を捉えた映画から目を逸らせない。 (文=木津毅)