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渡辺えりと小日向文世が輝きを与える 『私の恋人』で示した“何者にでもなれる”のんの現在と未来

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 渡辺えり、小日向文世、のんの3人が、じつに三十もの役を演じるという、パワフルかつ愉快なアイデアとともに社会風刺的な主題を浮かび上がらせたオフィス3◯◯による舞台『私の恋人』。本作は、2015年に上田岳弘が発表した同名小説を原作に、渡辺が脚色を施し、演出を担当し、9月8日に演劇の聖地である下北沢・本多劇場で幕を閉じた。

【写真】舞台に立つのん

 本作で描かれたのは、一人の男(=私)の流転する生だ。「私」は、前世から恋い焦がれている存在(=恋人)があるのだが、それが未だ見ぬ「私の恋人」なのである。「私」は「私の恋人」に対して10万年も前から恋い焦がれ、クロマニョン人、第二次世界大戦中のユダヤ人、そして令和の時代を生きる青年と、生まれ変わり続けている。この「私」を俳優3人が演じ、それらの生にあわせて場面は目まぐるしく変化し、彼らもまた、各々のキャラクターを適宜転換させていく。ピアニストの生演奏、アンサンブルキャストによる舞やコーラスが、この壮大な「人生」を華やかに彩った。

■非現実的な物を空間に立ち上げる、演劇の魅力

 開演時間になると、紳士服に身を包んだ渡辺と小日向が客席から登場。どうやら彼らは、これから始まる音楽劇で“歌うのか、歌わないのか”という議論を交わしているらしい。渡辺は「歌いたい」と主張し、小日向は「歌いたくない」と主張している。

 ここで小日向が、印象的な発言をする。それは「“熱演”というのは恥ずかしい」というもの。彼は歌の絶叫によって役の心情を吐露することは、“熱演”に陥りかねないというのだ。

 世間一般的に“熱演”とは、ポジティブなものとして捉えられていることがほとんどだろう。しかしこれはやっかいなもので、読んで字の如く、“演じることに熱くなる”というものだ。俳優たちが“演じること”そのものに熱くなってしまえば、物語世界からキャラクターがはみ出てしまう恐れがある。そうなれば私たちは、彼らから真実味や切実さを見出すことが難しくなるだろう。かといって、俳優が等身大で物語世界におさまるのでは、ナマモノである演劇の価値を損なってしまうようにも思える。

 言ってしまえば本作は、ある種の難解な作品かもしれない。時間・空間が自在に転換していく作劇からは、戦争や災害といった、過去から現在、そして未来にいたるまで私たちが背負ってきた/背負っていかなければならない負の遺産の存在が読み取れる。

 しかしこれらのことが、俳優たちの軽快な身のこなしや、伸びやかな歌声によってポップに表現されているのだ。これを純粋なストレートプレイで、深刻な事態をそのままシリアスに表現したのでは、それこそ“難解な作品”の印象で終わってしまうかもしれない。だがいよいよ物語が駆動すると、彼らはときに大声を出し、所狭しと駆け回り、さらには飛んだり跳ねたりといった私生活では見せることのない感情表現を実践する。こうした誇張した表現を舞台上に乗せることで、私たちの視覚に、聴覚に、そして身体に、メッセージを訴えかけているように思えるのだ。

 やはり、演劇と映像の違う価値は、虚構世界を描きながらも、観客の目の前にホンモノの声と身体とがあるということだろう。ステージでは、歌や踊りだけでなく、瞬時の場面転換にともなった早替えや見立てが繰り広げられる。本作には先に触れた誇張表現のほか、非現実的なものを真実味をもって空間に立ち上げるための演劇の魅力と醍醐味が数多く詰まっていたのだ。それはたとえば、固めるように並べられた4つのイスに俳優が座ることで、そこに“車”が出現することであり、誰かが「カンガルーがいる!」と声を上げれば、そこには観客の目には見えないカンガルーが姿を現すことである。

 演劇だからこそ実現可能な手法がこれだけ盛り込まれているとあっては、そもそも“演じることに熱くなる”のは難しいはずだ。やはり俯瞰的な視点を持って、彼らは舞台に立っているのだろう。そうして、抽象的な世界を立ち上げることーーつまり観客のイマジネーションにこそ多くが委ねられており、各々が得る解釈もまた、自由なのだ。物語世界を立ち上げる彼らと、観客である私たち一人ひとりがともに、それぞれの『私の恋人』をつくっていく面白さがあるのである。

■のんの現在/未来を想像させる「何者なのか」

 さて、こんな難しい役どころに挑んだ一人が、今は俳優だけでなくミュージシャンなどとしてもマルチに活躍しているのんである。彼女が演じるのもまた、演劇界の匠である渡辺、小日向の二人と同じく、自身の年齢とも国籍とも違う役の数々。井上ユウスケ(「私」の一人)という物語の核になる存在から、ネアンデルタール人、老神父、ネコ、セーラー服の少女、歌姫まで、人種、性差をも超えて、それらは多岐にわたる。一人の俳優がいくつもの役を演じるーーこれもまた、演劇の醍醐味だ。

 映像でも、一人の俳優が複数の役を演じることはある。しかし演劇では、観客が体感する時間の中で、彼らはキャラクターを転換していかなければならない。のんは快活な青年として笑顔を弾けさせたかと思えば、腰が90度に曲がった老父に扮し、かと思えば、ギターを抱えた歌姫として身体を揺らし、可憐な歌声で私たちを魅了した。

 物語の冒頭で渡辺に「何者よあんたは」と問われたのんは、「何者なのか? まだ何も……」と答えている。数々の衣装とともに華麗なキャラクターの転換を見せた彼女自身、俳優であり、ミュージシャンであり、文章も書くことができるマルチな才能の持ち主だということは、広く知られているだろう。先の渡辺のセリフに対するのんの返答は、“まだ何者でもない”という意味として捉えることができるが、同時に、“何者にでもなれる”という彼女の現在/未来を思わせるものでもある。

 演者と観客の時間と空間の共有、飛躍、そして交歓するこのステージは、いまののんにとって、もっとも輝くことのできる表現の場だと感じられた。いち俳優としてだけでなく、表現者としての可能性を、彼女自身その心と身体とで感じることができたのではないだろうか。

■演劇界の大きな希望、渡辺えりと小日向文世

 上田による原作は、非常に観念的かつ難解なものであった。しかし渡辺の脚色によって、“家族”という、言わば普遍的な最小単位の共同体が登場することで、それは社会の縮図をも意味し、「私」という存在はより際立つこととなった。主人公の「私」とともに、未だ見ぬ「恋人」を探すという途方もない旅の途上、私たちは“彼ら”の記憶へとアクセスし、そして観客各人の記憶ともコネクト、やがて混線する。他者の体験と自身の体験とが交錯してしまう様は、舞台上で繰り広げられていた“壮大な「人生」”とも重なる。『私の恋人』は、演劇の醍醐味をもってして、そう示したのだ。

 のんのポテンシャルが花開いていくさまに歓喜し、それに水を与え、輝きを与える太陽ともなったのは、やはり大先輩である渡辺、小日向の存在なのだろう。私たちが憧れ、その背を見つめてきた彼らとともに、俳優として生まれ落ちた瞬間から見守ってきた次世代を担う存在が並走していることは、たいへん頼もしく、また演劇界の大きな希望ともなるはずである。

 オフィス3◯◯の次回公演は、「女々しき力」と題された、女性の劇作家、演出家が集い、新旧の「女性」の生き方を表現した作品を連続上演するものの中で、2017年に上演された『鯨よ!私の手に乗れ』を再演する予定なのだという。老年となり、介護施設に入所している老人たちが、若い頃に上演できなかった舞台を上演するというストーリーだ。初演時のチラシとポスターは、のんが絵を描いている。劇中の大きな鍵になる絵だ。この再演では、まだ誰が共演・競演するのかは不明だが、今回ののんのように、次世代を担う存在が大いなる可能性を見出だせる場になるであろうことも、楽しみの一つである。

(折田侑駿)