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ストーンズは“ロックの果て”まで来た――東京公演を期に振り返るバンドの功績

音楽

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リアルサウンド

20140226-aoki-thumb.jpg初来日から24年、ローリング・ストーンズの東京ドーム公演。写真:(C)Mikio Ariga

 

 最高! という言葉しかなかった。ローリング・ストーンズの東京ドーム公演。今回、僕は全3夜のうち、初日と最終日の2回を観に行ったのだが、すべてひっくるめて、最高のロックンロール・ショーだった。

 日替わりのセットリスト(とくに、オープニング曲は毎回変更された)、ファンからのリクエスト、「無情の世界」での日本のコーラス隊の参加。さらに、ミック・ジャガーは日本語MCを連発と、サービス満点。披露される曲はもちろんストーンズ・クラシック、いや、ロック・クラシックばかりで、ことに60年代後期の『レット・イット・ブリード』に代表される名アルバムからの曲に宿る魔力というか妖気のようなものには、今回も激しい緊迫感を覚えた。そして、熱狂のロックンロール・ナンバーの数々。こうした世界を今なおストーンズが表現しきるエネルギーをキープしていて、それを生で体感できただけでも、観に行った価値はあった。

 また、最終日のリクエスト曲「リスペクタブル」ではバンド側の声かけで、布袋寅泰が参加。彼がストーンズからの誘いを受けた時の感動を綴ったブログ(参考:THE ROLLING STONESからの招待状)も、思わずジーンとくる内容である。

The Rolling Stones – 14 ON FIRE – First night back at the Tokyo Dome!(東京初日)
The Rolling Stones – 14 ON FIRE – Second show at the Tokyo Dome(東京2日目)

 ただ、わかっていたことではあったが、客席に若いファンの姿は本当に少なかった。そんなのは超々ベテラン・バンドだから当然だし、ゴールデンサークル席(ステージ中央からの花道のそば)の8万円はともかく、ドームのS席が1万8千円という高価格では仕方がないとも思う。すでに報じられているように、会場には日本のミュージシャンたちも多数来ていたようだが、彼らも大人といっていい世代が中心。客層の主流は明らかに40代以上で、若い子といえば、親と一緒に来た小学生や高校生を見かけた程度だった。

 そんな会場を歩いていて思い出したのは、数年前に売っていた「ストーンズバー」というアルコール飲料のことだ。これはサントリーが権利を取得して発売したものだが、記憶に残っているのは商品自体よりもテレビCMである。一昨年の後半に何度もオンエアされたこのCMには、マスター役のCharを筆頭に、仲井戸麗市、JUN SKY WALKER(S)の寺岡呼人、ザ・コレクターズの加藤ひさしと古市コータロー、SCOOBIE DOのオカモト”MOBY”タクヤ、THE BACK HORNの松田晋二、SPECIAL OTHERS、ザ50回転ズ、モーモールルギャバン、在日ファンク、黒猫チェルシー、OKAMOTO’Sなどなど、ストーンズ大好きなミュージシャンたちが大挙出演。ディレクターは箭内道彦氏である。もっとも、この商品は若年層にアピールできなかったことを理由に、程なくして発売が中止になるというオチがついている(参考:サントリー「ストーンズバー」販売終了へ 若者に浸透せず…売り上げ目標半分)。というか、CMの出演者自体、若者率が高くなかったわけだが。

 この2月の最終週には、ストーンズ公演の主催のひとつであるフジテレビが、短時間のスペシャル番組を連日深夜にOA。ここでストーンズの魅力について話したのは、奥田民生×吉井和哉×山崎まさよしThe Birthdayのチバユウスケ×THE BAWDIESのROY、ミッキー・カーチス×ムッシュかまやつ……などの顔ぶれ。やはり圧倒的に大人なのだ。

 今の若い世代に、もはやストーンズはリアルではない。それはそうだろう。だけど、ポップ・ミュージック史上の重要なバンドであることは間違いない。今回はストーンズの歩みを反芻しながら、彼らが、とくにこの日本の音楽をはじめとした分野にどんな影響をもたらしてきたのかを考察してみようと思う。

 まずストーンズの功績の第一は、なんといってもロックンロールをやり続け、それを世界に普及させたことだ。1962年にロンドンで結成された彼らは、当時のイギリスを中心にヒット曲を連発し、やがてアメリカに進出していく。その60年代にはここ日本でも早々と人気を得て、同時代のGS(グループサウンズ)のバンドの多くはストーンズ・ナンバーをカバーしたし、それ以降は村八分、先述の仲井戸が加入した以降のRCサクセション、ストリート・スライダーズなど、幾多のバンドがストーンズの影響下にあるサウンドを展開し、日本のロックを牽引していった。

村八分「ぶっつぶせ!!」

 しかもストーンズは、基本的にはシンプルなバンド・コンボの形態ながら、音と音のスキ間の妙、とくにギターの絡み合いやリズムの先鋭性といった部分でロックンロールの表現を更新していったバンドである。そこにブルース、ソウル、ファンク、ディスコ、サンバ、レゲエ、ヒップホップなど、時代ごとに多様な音を吸収し、そのたびにバンドの表現として血肉化していったことはロック史においても重要な事実だ。

 ただ、こうした音楽性うんぬん以前に当初のストーンズにつきまとっていたのは、実は悪魔的なイメージだった。デビュー時、ビートルズとのライバル関係を強調する戦略目的で強化されたのは、不良としての彼らのイメージだったのだ。ドラッグや酒に溺れ、セックス・アピールも強烈、ステージでもタバコをふかすという、ただならぬバンドのにおい(今回も舞台上でロン・ウッドがタバコの煙をくゆらせながら弾いていた)。そうした破天荒さやバカバカしさは、とくに60年代から70年代にかけて一般に認知されつつあったロック・ミュージックの印象と重ねてとらえられることが多かったし、実際の彼らもそれだけの騒乱の時間を生きてきた。だが1969年、バンドを脱退したばかりのブライアン・ジョーンズが謎の死を遂げてしまう。ストーンズの醸し出すスリルやヤバさは、本人たちの意図を超えた、強烈なイメージになっていった。

 そんな中で日本にとっての大きな出来事は、1973年に予定されていたストーンズの初めての来日公演が中止になったことだ。これは、その数年前に起きたミックのドラッグ問題の前科のため、来日の許可が下りなかったことに起因する。すでに売り出されていた大量のチケットはすべて払い戻しになり、新聞報道もされた。僕は当時のことは知らないが、この中止の件は世間にかなりの……どちらかといえば、ネガティヴなインパクトを残したのではないかと思う。というのは、今回の来日前にも一部で話題になった、西郷輝彦の「ローリング・ストーンズは来なかった」(1973年)と西島三重子の「ローリング・ストーンズは来なかった」(1982年)の2曲を聴いて思ったこと。同じタイトルのこの2つは、実はまったくの別モノ。いずれもこの時の来日公演の中止がテーマのはずなのに、なぜかストーンズにさほど関係のない歌詞だったりする。

 また、1979年の映画『太陽を盗んだ男』(監督・長谷川和彦、出演・沢田研二、菅原文太)は、犯人がストーンズの来日公演を求め、警察を脅迫するというストーリーだ。この時代には五木寛之、村上龍、山川健一とストーンズ好きを公言する作家も多かった。70年代の日本のサブカルチャー界隈で、ストーンズは特別な存在だったのだ。

 こうしたストーンズの歴史において、あらゆる面で転換点になったのは、80年代ではないかと考える。

 まず、1981年のアメリカ・ツアーを収めた映画『レッツ・スペンド・ザ・ナイト・トゥゲザー』では、超満員に埋まったスタジアムのポップなステージセットの中で躍動するバンドの姿が描かれている。当時は、日本でも巨大会場でのコンサートが行われつつあった時期で、この映画を観て「野外の球場ライヴってこんななんだ!」と思った音楽ファンは多かっただろう。

映画『レッツ・スペンド・ザ・ナイト・トゥゲザー』DVD予告映像

 この時期、とくに対外的な面で重要だったのはミック・ジャガーだと思う。運動量の多いスタジアム公演を成功させるため、彼は体力を維持するようジョギングをしているとか、遠くのお客さんも楽しませるために股間に詰め物を入れているという話まで伝わってきた。特筆すべきはこの前者、健康面のことだ。その頃40代を目前に控え、すでに「終わったバンド」とか「オッサンのくせにロックやってる」みたいな言われ方をして、しかも一時期はクスリにまみれていたストーンズが、ライヴのために身体に気をつけているという事実は驚きを持って受け取られたものだ。今やミュージシャンが「ジムで鍛えてる」とか「ジョギングやってます」「ツーリングが趣味です」なんて口にしても意外ではないが、そうした流れは当時のミックの姿勢からの影響が大きいはずである。そう、ロックの退廃的なイメージを広く植え付けたのもストーンズだが、中年になったアーティストが体力を保持する大切さを見せたのもストーンズだったのだ。

 もうひとつ、ミックで注目すべきは、ソロ活動である。キースとの仲違いがしきりにささやかれた80年代半ば、ミックは当時の最先鋭の音楽を取り入れて、ソロ・アルバムを制作。それは確かにストーンズでは実現しえないサウンドだったし、彼が古典的なロックンロール・バンドに飽きていた節もあっただろう。ただ、そのソロ作はストーンズほど歓迎されるような結果には至らず、2枚目のソロ作のあとに行われたミックのコンサート・ツアーのセットリストはなんと3分の2がストーンズ・ナンバーという極端な構成になる。人気ロック・バンドのヴォーカリストのソロ活動はミック以前にもあったが、いかに才能とスター性のあるフロントマンがピンでやっても、そううまくいくものではないことを世界レベルで示した事例としては、この時のミックが一番明確だろう。

ミック・ジャガー「ジャスト・アナザー・ナイト」

 ミックはそのソロでの公演で、1988年に初の来日を果たす。これが布石となり、1990年2月、ついにストーンズの日本公演が実現。ストーンズがお茶の間レベルで知られるようになったのは、この時からと言っていい。当時としては破格の1万円というチケット料金も話題になったし、森高千里の「臭いものにはフタをしろ!!」(1990年)はこの時の東京ドームでの計10回公演がひとつのきっかけに生まれた曲だ。そう、ストーンズはこんなふうにして歌謡ポップスにも影を落としてきたのである。

森高千里「臭いものにはフタをしろ!!」

 その初来日から24年、結成からは52年。今回のドームを観て、ストーンズは歳をとってもロックすることの、もう果ての果てまで来ていることを実感した。驚くべきは、彼らは今までに一度も解散したことがないという事実である。間には解散寸前の時期もあったが、その危機をくぐり抜け、メンバーが70代を迎えるところまで来たのだ。

 この事実はとてつもなく大きい。たとえば日本のバンドでもエレファントカシマシや怒髪天が結成30周年を超えているし、仲井戸や遠藤賢司のように還暦を超えてもギターを鳴らし、叫んでいる人もいる。長らく続いているバンドの先にはローリング・ストーンズがいて、歳をとってもロックし続ける者の前にはミックやキースがいるのだ。

 ……と、これだけ書いても、全然まだ書き足りない。「あのこと書いてないぞ」「このネタはどうした」という声も聞こえてきそうだけど、そういうツッコミ合いまで含めてストーンズだと、今回とても痛感している。ほんとにデカいバンドだ。今は久々にロック喫茶にでも行って、ガヤガヤとストーンズ談義でもしたい気分だ。できればそこに若い音楽ファンの子もいてくれたら、超うれしいんだけど。

■青木優(あおきゆう)
1966年、島根県生まれ。1994年、持ち込みをきっかけに音楽ライター業を開始。現在「テレビブロス」「音楽と人」「WHAT’s IN?」「MARQUEE」「オリジナル・コンフィデンス」「ナタリー」などで執筆。
ブログ:子育てロック