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アーティストの音楽履歴書 第12回 奥田民生のルーツをたどる

音楽

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アーティストの音楽遍歴を紐解くことで、音楽を探求することの面白さや、アーティストの新たな魅力を浮き彫りにする本企画。今回はソロ活動25周年を迎えた奥田民生に、幼少期のエピソードを交えてその音楽的なルーツを聞いた。

1人で音楽を聴いている時間が多かった幼少期

ぶっちゃけ言うと、僕、そんなすごい音楽ファンってわけじゃないんですよ。もちろん聴かない人よりは聴いてると思いますが、語れるほどの知識や遍歴はないし。好きなバンドやアーティストはいますけど、あまりマニアックには掘り下げてないっていうか。実は上辺しか聴いてなかったりする(笑)。特に中学に入ってバンドを始めてからはね。音楽を聴くことよりも、自分でやることに夢中で。純粋な好き嫌いだけじゃなく、「これなら俺にもできそうだ」みたいな部分も大きかったので。本当のところ、自分がどんなミュージシャンに影響を受けてきたのかよくわからないんです。

考えてみれば子供の頃からそうだったかもしれない。母親が音楽好きだったので、家にはかなり多方面のレコードがあって。特に意識することもなく雑多な音楽を聴いて育ちました。母はエルヴィス・プレスリーが好きだったんですが、ほかにもニール・セダカみたいな古いポップスもあったし。ムード歌謡の青江三奈さん。演歌もレコードが何枚かあって、あとはニニ・ロッソのイージーリスニング集。なんつーか、脈絡ってものがない(笑)。

育ったのは広島市の東区というところ。新幹線の駅まで車で10分くらいの普通の住宅地でした。小学生までは小児ぜんそくで。どちらかというとインドア派だったんです。そんなに外でバリバリ遊ぶって感じでもなく、体もぽっちゃりしていた。なので、1人で音楽を聴いている時間は多かった気がしますね。

家にはビクターの一体型ステレオがありました。当時流行っていた観音開きの扉付きの家具っぽいやつ。プレーヤーは33回転と45回転だけじゃなく、古いSP盤向けの78回転にも対応していて、低学年の頃はそれで母親のレコードを片っ端から早回しにして遊んだり(笑)。もう少し大きくなると、彼女がたまにレコード屋さんに行くのについて行って。自分の欲しいレコードも買ってもらうようになりました。最初はウルトラマンとか仮面ライダー。あとはテレビで流れていた歌謡曲。西城秀樹さんや沢田研二さんのシングルを買ってもらったのを覚えてます。

ダウン・タウン・ブギウギ・バンドでギターに目覚める

初めてギターに触れたのは10歳くらいかな。親戚が車の修理工場を営んでいて、小さい頃からそこによく預けられていたんです。そこに古いアコースティックギターが転がっていて自然と手に取るようになった。工場に出入りしていた若いアンチャンたちが、弾き方を教えてくれてね。最初に覚えたのは、The Ventures「Pipeline」。有名な「♪テケテケテケテケ」というイントロのやつですね。通して弾けたときはうれしかったな。

で、そうこうしてるうちに、その親戚のおばさんがガットギターを買ってくれまして。初のマイギター。たぶんおばさんはアコギとガットギターの違いを知らなかったんだろうね。弦はスチールじゃなくてナイロン。ネックも太くて押さえるのが大変でしたけど。当時「週刊明星」とか「週刊平凡」に付いていた“歌本”を見てコードを覚えて。フォークのかぐや姫とか、それこそ西城秀樹さんとか。いろんな曲をコピーするようになった。

バンドというものを初めて生で観たのも、ちょうどその時期です。同じ親戚がなぜか、ダウン・タウン・ブギウギ・バンドのコンサートに連れていってくれたんですよ。確か「サクセス」って曲が流行っていた頃で。ギターを買ってもらったのとどっちが先だったかな? 前後関係はちょっと忘れちゃいましたけど、僕にはこれが鮮烈だった。音楽性云々よりも、単純に音がデカいとか。ドラムの震動がずんずん響くとか(笑)。そういう演奏自体の存在感みたいなものが、ガーンときたんでしょうね。それ以降、俄然ギターへの興味が増していった。小学校の高学年かな。忘れられない経験でした。

実際、僕の中でダウン・タウン・ブギウギ・バンドとの出会いはデカかった。原体験って言うんですかね。「なるほど、ロックンロールってこういう音楽のことを言うんだな」と最初に思ったのも、ブギウギ・バンドの「スモーキン・ブギ」でしたし。まあ厳密に言うと、あれはロックンロールではないんですけど。そんな細かい違いは、小学生にはわからない(笑)。映画「トラック野郎」シリーズも好きだったんですが、そこでもブギウギ・バンドが「トラック・ドライヴィング・ブギ」という劇中歌を演奏してました。初期ブギウギ・バンドはそういうシンプルなスリーコードの曲が多くて。音数も少なく「これなら自分にもできるかも」みたいなワクワクもあったんでしょうね。その感じはたぶん、今も変わってないと思います。宇崎竜童さんはそれ以来ずっとファンで。ダウン・タウン・ブギウギ・バンド解散後の作品もずっと聴いています。今でもスマホに入ってますよ。

修理工場のアンちゃんたちに囲まれる環境

話は逸れますが、人生で受けた影響でいうと、その親戚の修理工場はけっこう大きかった気がしますね。さっきも話したように、小さい頃からしょっちゅう預けられていたので。そこに来ているアンチャンたちと話す機会が多かった。今思うとみんな若者だったんだろうけど、自分で働いて車を買ったり遊んだりしてるから、当時の僕にはすごいオトナっぽく見えてね。いろんな音楽も教えてもらったし。趣味でバンドをやってる人から、話を聞かせてもらったり。そんな環境もあって、同年代の友達が知らない音楽を多少先取りして聴いていたかもしれません。

あと、音楽とは関係ないですけど、やっぱり車好きにはなりましたよね。その家ではずっと、自動車メーカーのカタログが絵本代わりでしたから。新車が出ると、子供ながらにまず何馬力あるのかチェックして(笑)。3、4歳の頃は、エンジン音を聴けば大体の車種は当てられました。マジで。例えばトヨタと日産ではエンジンの音が明らかに違うし。あとは排気量とかを考えると、ほぼほぼわかった。まあ当時は、今に比べて車種も少なかったし。僕の地元では外車なんてほとんど走ってなかったので。そんなに難しくもなかったんでしょうね。もちろん今はもう、まったくわからないですけど。

小学校高学年で出会ったThe Beatles

いわゆる洋楽で最初にガツンときたのは、やっぱりThe Beatlesですね。これも前後関係は忘れちゃいましたが、小学校高学年のとき、夏休みのお昼に4人が主人公の連続アニメを再放送してたんです。ジョン、ポール、ジョージ、リンゴが世界中いろんな場所をツアーして、ファンに追いかけ回されるという内容で。ドタバタ劇の間に彼らの楽曲が流れる。確か「アニメ・ザ・ビートルズ」という邦題でした。そこで「Please Please Me」とか「Day Tripper」みたいな初期の曲を好きになって。お小遣いを貯めて「Rock 'n' Roll Music」というアルバムを買ったんですよね。カバー曲も含め、シンプルなロックンロールナンバーを集めた2枚組の編集盤で。僕にとってはそれがThe Beatlesの入り口になった。

その後、ベストアルバムの赤盤、青盤、オリジナルアルバムと聴いていって、The Beatlesのいろんな側面に触れるわけですけど。僕にとって最初のイメージはあくまで「Roll Over Beethoven」みたいなシンプルなロックンロールを演奏してるバンドなんですよね。オリジナルを歌っているチャック・ベリーのことも、ここで初めて知ったんだと思う。ロックンロールの形を作った大元みたいな人ですね。実際にチャック・ベリーのレコードを聴きだすのはもう少しあと、高校に入って以降ですけど。ロックンロールという形式の偉大さ、奥深さを本当に痛感するようになったのは大人になってからかもしれない。それはずっと、今も感じてます。

中学校にヒデキが来た

そうやって、一方ではThe Beatlesとかダウン・タウン・ブギウギ・バンドを聴きながら、世の中で流行っている歌謡曲も大好きでした。なんつったって歌番組世代ですからね。木曜夜は必ず「ザ・ベストテン」。まあ、ほかにやることもないですし(笑)。観ないと翌日、学校で話が通じない。好きだったのはやっぱりジュリー(沢田研二)と、広島出身の西城秀樹さん。あと自分で楽器を始めてからは、普通の歌手よりギターを持って出てくる人がカッコよく見えたところはありましたね。当時はCharさんの「気絶するほど悩ましい」とか「闘牛士」もヒットチャートの上位に入っていたし。布施明さんとか野口五郎さんも、ときどきテレビで弾き語りをしていたので。

「ザ・ベストテン」といえば、僕が通っていた中学に、西城秀樹さんが中継ライブで来たことがありました。もちろん観に行きましたよ。暇ですから(笑)。校庭が黒山の人だかりになって。西城さんが、校長先生が朝礼で登る台に立って「YOUNG MAN(Y.M.C.A.)」を歌った。次の日、学校に行ったら、廊下にチョークでご本人のサインが書いてあったっけ。

The BeatlesとKissをカバーしていた中学時代

中学生になると、同学年で「俺、ギター弾いてるぜ」みたいなやつもポツポツ出てくるじゃないですか。で、お互い何となく知り合いになって。友達に誘われて、初めてバンドというものを組みました。その頃はもう、新しいエレキギターも手に入れてましたね。と言っても、特に人前に出るわけでもなく。学校の近くの公民館を借りて練習したり、たまに安いスタジオで演奏してみたり。まあ、そんな感じですね。

カバーしたのはThe BeatlesとKiss。あと当時、Bostonの「Don't Look Back」が流行ってたので、それもカバーしてました。Kissはルックスがけばけばしいわりにはキャッチーでいい曲が多かったのと、ギターのパートが意外とオーソドックスで。中学生の僕にも「これなら弾けるかな」と思わせてくれた。その頃はとにかく、自分でギターが弾けるかどうかが、聴く音楽の理由になってましたから。リッチー・ブラックモアとか、一応聴いてはいましたけど弾ける気がしないでしょう(笑)。その点、Kissは親しみが持てた。最初に買ったのはオリジナルアルバムじゃなくて、やっぱり「Double Platinum」という2枚組ベスト盤でした。

「自分にできるかどうか」でハマった子供ばんど

高校に入ると、友達と「文化祭に出よう」つって。アーチェリー部で活動しながらバンドのほうももう少し真剣にやるようになりました。僕の高校時代はちょうど、いわゆるジャパニーズメタルのバンドがわーっと出てきた時期だったんですね。LAZYが解散し、高崎晃さんと樋口宗孝さんがLOUDNESSを結成したり。高校を卒業する頃には、EARTHSHAKERとか、44MAGNUMみたいなバンドが次々デビューして。高校時代はKissとかハードロックからの流れもあって、僕はそっち方向をわりと聴いてました。LOUDNESSは、確か警備のバイトでライブにも行ったんだよな。もちろんステージは観られず、背中で大音量の演奏を聴く感じでしたけど。

中でも好きだったのは、うじきつよしさんの子供ばんど。地元大学の学園祭でライブがあって行ったんですけど、ライブを観るとやっぱりすごくて、圧倒されました。演奏はめちゃめちゃハードなんだけど、曲はどこかKissみたいなキャッチーさがあって。芸風的にもヘヴィメタの人みたいに長髪の革ジャン、革パンでカッコつけるんじゃなく、うじきさんがパトランプが付いたメットを被ってステージを走り回ったりして。ポップで親近感を持てた。

やっぱり「自分にできるかどうか」が音楽の判断基準になってたんでしょうね。もし僕がすごいギターテクの持ち主だったら、もっと王道のメタルバンドにハマってたかもしれないけど。早弾きとか全然できないですからね。バンドのあり方という意味でも、子供ばんどには影響を受けたと思います。

高校時代に思い描いたミュージシャンの道

たぶん、その頃ぐらいですかね。漠然とミュージシャンになれればいいなと考えるようになったのは。といっても、具体的なビジョンがあったわけじゃなくて。高校生になるといろんなコンサートやライブハウスに行くようになるじゃないですか。その楽屋口に積まれた機材を見て、ふと「そうか、この人たちは車に楽器を積んで旅してるんだ」と思ったりして。自分もそういう生活ができたらいいなって。まだぼんやり憧れていた程度です。

結局、大学には進みませんでした。大学サークルでバンドをやってる人がたくさんいるのは知ってたんですが、ライブハウスに通ってると、そういう学生バンドがお互い、ノルマっぽい感じでチケットを買い合ったりしてたんですね。それが面倒くさそうでね。でも、とりあえず焦って就職したりせず、バンドを続けてみたいという気持ちもあったので、専門学校に行かせてもらった。それが54歳になっても、まだバンドをやってるなんてね(笑)。その頃は想像もしなかった。

ユニコーン加入時に影響を受けた安全地帯とThe Police

ドラムの川西(幸一)さんに誘われてユニコーンに加入したのは、1986年。21歳のときです。専門学校時代はREADYっていうバンドを組んでたんですけど、そのときも先輩に声をかけられて、僕が一番歳下だった。なんつーか僕の人生、自分では何も決めてない気がしますね(笑)。

READYからユニコーンに移行するこの時期、個人的に影響を受けた気がするのは、安全地帯とThe Policeかな。妙な取り合わせですよね。ほかにもあったんだろうけどパッと浮かばない(笑)。安全地帯は曲を聴いて「へえ、カッコいいコード進行だな」と思った。READYはそれこそEARTHSHAKERっぽいポップめのハードロックがメインだったんですけど、それとはまったく違うメロウな感覚が身体の中に入ってきた。当時、すでにけっこう曲も書いていましたので、ソングライティング的にも影響は大きかったと思います。

The Policeは完全に後追いですね。「Synchronicity」という最後のアルバムが出たのが高校の終わりぐらいで。僕が最初に触れたのはそのライブを収めた「Synchronicity Concert」というビデオ作品でした。それまで聴いてきたハードロックやヘヴィメタルとは真逆の、隙間の多い音楽で。高度なコードを駆使したヒネリのある楽曲を3人という最小人数でやっているのが新鮮だった。アンディ・サマーズのギターがまた独特でね。背伸びしてコピーするのもまた楽しかったです。

加入時から変わってないユニコーンの方向性

ユニコーンで本格的に活動を始めた当初、特にコンセプトみたいなものはありませんでした。まあ事実上、川西さんとテッシー(手島いさむ)が作ったバンドなので。「楽曲はわりとポップに、でも演奏はドカンと派手に」みたいな思いはあったでしょうけど。特に“ナニナニ風”とかはなかった。

誘われて一度は断ったんですよ。でも最終的にやってみようと思ったのは、コンセプトよりやっぱり人ですよね。川西さんは僕らが高校時代から地元で憧れていたバンドのドラマーで、プレイもよく知っていましたし。彼と一緒にやれるならいいんじゃないかなと。バンドのベースにあるのは、どこまでいっても演奏ですからね。どんな奇抜なコンセプトを考えても、演奏に説得力がないと何も始まらない。ユニコーンはまずメンバーの演奏ありき。最初からガチガチに方向性を固めることもなく、わりあい自由な雰囲気で音楽と向き合えた気がします。

井上陽水さんのセンスは絶対誰にも真似できない

ずっとミュージシャンとして生きてきて、たくさん曲も書いてきましたけど、歌詞には常に苦労しますね。メロディはわりあいスラッと浮かぶんだけど、そのグルーヴにぴったりハマる言葉がなかなか見付からなくて。宿題みたいに溜まっていく(笑)。でもまあ、僕は日本語しかしゃべれないし。それで歌うしかないから、こればっかりはどうしようもない。

もちろん、尊敬する日本語の先輩ソングライターはたくさんいますし。いろんな人からいろんなものを受け取っているとは思うんですけど。そこはやっぱり、自分で考えなきゃいけない部分だと思ってやっていたりもするので誰の影響を受けたのか自分ではよくわからないんです。

ただ、言葉の使い方で心からすごいと思ったミュージシャンを1人だけ挙げるとすると、やっぱり井上陽水さん。あのセンスは絶対誰にも真似できないから、影響の受けようもないんですけど(笑)。井上陽水奥田民生のユニットで一緒に2枚アルバムを作らせていただいた経験は、僕にとってはすごく大きかった。楽曲の作り方、特に言葉との向き合い方で思うところが多々ありました。でもまあ、あの境地を自分で目指そうとは思わないですけどね。もうちょっと僕は、普通の人間ですもん(笑)。

好きなギタリストは40代後半くらいの自分

音楽履歴書ということでいろんなバンドやミュージシャンの話をしてきましたけど、「この時期はこの人に影響を受けた」みたいな話ってなかなか難しいですよね(笑)。今だってそうです。毎日音楽をやって、いろんなミュージシャンに会って。その都度影響や刺激を受け、自分も変わっていく。むしろ言葉では説明しにくい、曖昧で漠然とした部分が大きい気がするんですね。

ミュージシャンはみんな“誰か”じゃなくて“自分”のグルーヴを求めているわけで。逆に言うと、その人が求めてるグルーヴの気持ちよさみたいなものは、本人にしか出せない。なので、それが多少なりともうまくいったときの自分が、一番好きなミュージシャンであるはずだと思うんですね。本来であれば。

それでいうと僕は、ちょっと前の自分のギターはわりと好きでしたよ。40代後半くらいかな。ライブやレコーディングを通してあの時期の自分は世に出せているので、それは満足かなと思ったりします。

幼少期からロックンロールに憧れ続けて

今、1枚だけ無人島に持っていくレコードを選ぶとしたら? うーん、何ですかね。The Beatlesの「White Album」みたいにさんざん聴いたアルバムはもういいかな。なので、チャック・ベリーのアンソロジーっぽいCDを持っていきます。同じ曲の別テイクがたくさん収録されているやつ。まだ全部聴けてないので、無人島でも「このテイクは知らなかった」と楽しめる(笑)。

たぶんロックンロールって、シンプルだけに容れ物として大きいんでしょうね。子供の頃に好きだった「スモーキン・ブギ」は、今聴いてもやっぱりいいと思いますし。その後、自分なりに経験も重ねてきて。オリジナルの持つすごみも実感できるようになった。その意味では捉え方が広く、深くなってきた実感があります。

僕自身、小さい頃にロックンロールに惹かれて自分でもそういう曲をたくさん演奏してきました。でも、例えばチャック・ベリーとかThe Rolling Stonesみたいな先人が生み出してきたグルーヴにはいまだに近付けないし、真似すらできてない。どんなにがんばっても、自分の身体にそのノリを入れることはできないと思うんです。でも、それとはまた別に、自分がやりたいロックンロールのグルーヴというのは、今は今でちゃんと最新のバージョンがある。そういう意味でも懐が深い音楽なんですよね。いくら追求しても奥が見えないし、飽きることもない。ロックンロール。つくづく偉大なジャンルだと思います。

奥田民生

1965年広島生まれ。1987年にユニコーンでメジャーデビューする。1994年にシングル「愛のために」でソロ活動を本格的にスタートさせ、「イージュー★ライダー」「さすらい」などヒットを飛ばす。また井上陽水とコラボ作品を発表したり、PUFFYや木村カエラのプロデュースを手がけたりと幅広く活躍。弾き語りスタイルによるライブ「ひとり股旅」や、レコーディングライブ「ひとりカンタビレ」を行うなど活動形態も多岐にわたる。さらに世界的なミュージシャンであるスティーヴ・ジョーダンらが参加するThe Verbs、岸田繁(くるり)と伊藤大地と共に結成したサンフジンズのメンバー、同世代ミュージシャンと結成したカーリングシトーンズの一員としても活躍している。2015年に50歳を迎え、レーベル・ラーメンカレーミュージックレコード(RCMR)を立ち上げた。2017年9月に約4年ぶりとなるオリジナルフルアルバム「サボテンミュージアム」を発表。2019年にソロ活動25周年を迎えた。

取材・文 / 大谷隆之