シークエル3部作はベン・ソロの物語に 『スカイウォーカーの夜明け』はファンサービス満載な作品
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いまから遡ること42年前、監督ジョージ・ルーカスは、『スター・ウォーズ』を生み出した。砂漠の惑星で暮らす青年ルークは、2体のドロイドに邂逅したことで、物語の歯車を急加速させる。父の旧友だというベン・ケノービに師事し、己に宿るジェダイの資質を見出したのだ。『スター・ウォーズ』は、田舎で暮らす“何者でもなかった青年”が、運命に翻弄されながらも、ジェダイとしての勇敢さを身に着け、成長していく物語だった。
参考:ルークら“レジェンド”たちからレイたちへ 『スター・ウォーズ』42年の歴史捉えた特別映像公開
『新たなる希望』(1977年)『帝国の逆襲』(1980年)『ジェダイの帰還』(1983年)のオリジナル3部作が終了し、長い期間が経過した。そしてルーカスは、映像のデジタル技術向上を契機に、さらなる3部作を始動させる。プリクエルと呼ばれる新3部作は、青年ルークの父親であるアナキン・スカイウォーカーの過去をあぶり出した。そして、この新3部作の主人公であるアナキンもまた、砂漠の惑星で奴隷として暮らす、“何者でもない少年”だったのだ。
『ファントム・メナス』(1999年)『クローンの攻撃』(2002年)『シスの復讐』(2005年)のプリクエル3部作は、ジェダイの黎明期を背景に、アナキンがいかにしてダース・ベイダーになったのかを描き出した。そして、再び長い期間が経過した。もはや『スター・ウォーズ』は全人類が共有する文化遺産となったころ、『スター・ウォーズ』の新たな3部作が始動した。ディズニーがルーカス・フィルムを買収し、永い眠りの中にあった『スター・ウォーズ』シリーズを、たたき起こすというのだ。大きすぎる期待と、少しの不安に、胸が張り裂けそうになった。
結論からいうと、こうして誕生したシークエル3部作は、わたしの予想を良い意味でも悪い意味でも、大きく裏切ってくれた。シークエルの最初の作品となった『フォースの覚醒』(2015年)は、今思えば『新たなる希望』の焼き直しにすぎないだろう。しかし、わたしたちが観たかった『スター・ウォーズ』がそこにはあった。新たな主人公レイを配置し、オリジナル3部作の英雄たちを再集結させ、もう観られないだろうと思われていた、彼らの“その後”を映し出した。最後にはルーク・スカイウォーカーも登場し、物語はピークのまま、次にバトンを渡したのだ。
そして、賛否両論の議論を呼んだ『最後のジェダイ』は、『フォースの覚醒』からのバトンを、まったく違う解釈で受け継いだのだ。『最後のジェダイ』は、ファンが望んだあらゆる可能性を排斥し、一番残酷な物語を用意した。悪役スノークはあっけなく退場し、レイアはフォースの力で宇宙空間を文字通り飛んだ。随処のユーモアもセンスに欠けるばかりでなく、いよいよ本格的な登場を果たしたマスター・ルーク・スカイウォーカーは、ライトセーバーを投げ捨て、隠居している始末だ。
筆者は『最後のジェダイ』否定派であるが、唯一、評価できる部分がある。レイの出自に関してだ。最も謎とされてきたレイの両親は、“何者でもない、ただの飲んだくれ”であると語られるのだ。公開当時、レイの出自に関しては、さまざまな声が上がった。スカイウォーカーの血を継ぐものなのか、あるいは、別の誰かか。しかし、ファンの大概の予想は大きく裏切られ、レイ自身も“何者でもない”と定義された。しかし、この“何者でもない”というバックグラウンドは、ルーカスが創造した『スター・ウォーズ』の原点だったはずだ。そう、かつて青年ルークが、そして彼の父親アナキンもそうだったように、ジェダイになるチャンスは誰にだって、等しく訪れるのだと。どこに生まれようと、どんな家柄だろうと、関係ない。それがわたしたちファンに希望を与えていたのだ。
しかし前述の通り、『最後のジェダイ』には、これまでの『スター・ウォーズ』を真っ向から否定する、反駁的な部分も散見された。「過去を葬れ。必要なら殺してでも」とは、カイロ・レンの言葉だ。確かに、『最後のジェダイ』は、新時代の夜明けを感じさせるものだったが、それを『スター・ウォーズ』と呼べるかは疑問だった。そして、完結編となる『スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け』(2019年)は、『フォースの覚醒』のJ・J・エイブラムスが再登板し、レイの物語を終着に導いた。本作は、『最後のジェダイ』で良くも悪くも葬られた過去を、再び描いたのだ。
前作で退場したスノークに代わり、皇帝パルパティーンが蘇った。オリジナル3部作からは、ランド・カルリジアンが登場し、レジスタンスの最強の助っ人として描かれた。カイロ・レンは、自ら壊したヘルメットを修復し、レイは、スカイウォーカーのライトセーバーを元ある姿に修繕した。そしてルーク・スカイウォーカーは、偉大なジェダイとしての明朗さを取り戻し、前作では出番の少なかったC-3POを、物語のレールに乗せた。J・J・エイブラムスは、過去作に最大の敬意を贈り、ファンに迎合する形で、サーガを完結させた。
確かに、本当に観たかった『スター・ウォーズ』がそこにはあった。しかし、ライアン・ジョンソンが描いた『最後のジェダイ』とは、まったく方向性が異なるものが生まれてしまった。『スカイウォーカーの夜明け』は、『最後のジェダイ』で大きく外れた軌道を、ファンが期待する方向へと修正し、ちょうどよく拵えている。『最後のジェダイ』で提示された新しい命題は切り捨てられ、ファンへのサービスを最優先にしているようだ。確かに、長年のファンとしては、愛すべき旧キャストの登場などで、大いに満足できる一本だった。しかし、シークェル全体を見通すと、物語の一貫性のなさと、製作サイドの失態までもが露呈する結果となった。満足度は確かに高いが、どうも腑に落ちない。それは映画の内容ではなく、製作の裏側に関してなのか。いずれにせよ、J・J・エイブラムスの手によって、サーガはなんとか着地した。
そして何よりも着地したのは、カイロ・レンの熾烈な物語だった。叔父は伝説の戦士、父は反乱軍の英雄、そして母は、レジスタンの将軍、だ。スカイウォーカーの血を継ぐベン・ソロは、極めて重圧な期待を注がれ、ジェダイの訓練に勤しんだ。しかし、家系の呪縛に翻弄されたベンは、祖父アナキン・スカイウォーカーのように、闇に誘惑される。そしてカイロ・レンが生み出された。
彼の過酷な旅路は、『スカイウォーカーの夜明け』で見事に完結する。光の誘惑に葛藤しつつ、闇を貫こうとしたカイロ・レンだが、レイとの出会いと運命によって、カイロ・レンの物語はエモーショナルに完結するのだ。今思えば、オリジナル3部作はルーク、プリクエル3部作はアナキン、そしてシークェル3部作はベン・ソロの物語だった。『スカイウォーカーの夜明け』は、『フォースの覚醒』から続くシークェル3部作の完結ではなく、『新たなる希望』から続く『スター・ウォーズ』シリーズの完結、そしてスカイウォーカー家の幕引きだ。この歴史的な瞬間を、見逃すわけにはいかない。
■Hayato Otsuki
1993年5月生まれ、北海道札幌市出身。ライター、編集者。2016年にライター業をスタートし、現在はコラム、映画評などを様々なメディアに寄稿。作り手のメッセージを俯瞰的に読み取ることで、その作品本来の意図を鋭く分析、解説する。執筆媒体は「THE RIVER」「IGN Japan」「映画board」など。得意分野はアクション、ファンタジー。