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映画のトレンドは90年代へ!? 「80年代ブーム」の背景解説&次のフェーズを大予想

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リアルサウンド

 ドラマ『ストレンジャー・シングス 未知の世界』(2016年~)や、『IT/イット “それ”が見えたら、終わり。』(2017年)の大ヒットが象徴するように、近年、ハリウッドに「80年代ブーム」が吹き荒れている。

参考:

 これらは、『グーニーズ』(1985年)や『E.T.』(1982年)、または『スタンド・バイ・ミー』(1986年)のようなスティーヴン・キング原作映画など、1980年代のノスタルジーな雰囲気を思い起こさせるように、意図的に作られている。

 さらに80年代映画の続編企画も、この頃多いと感じる。『シャイニング』(1980年)や『ブレードランナー』(1982年)、『ゴーストバスターズ』(1984年)、 2020年公開作として『トップガン』(1986年)も控えているし、おまけに『ワンダーウーマン』(2017年)の続編『ワンダーウーマン 1984』は、タイトルに80年代がそのまま登場している新作だ。これらの例を見ていると、まさに一つの大きな流れが存在しているように感じられる。

 しかし、この状況も次のフェーズへと次第に移行しつつあるのではないか。2010年代から2020年代になるいま、映画のトレンドも80年代から90年代へと代わり始めているように感じるのだ。ここでは、その兆候をいち早くキャッチしつつ、この二つの時代の違いについてや、これらブームが栄え、到来する理由も考えていきたい。

 近年の80年代ブームを示す材料は、まだまだある。ニコラス・ウィンディング・レフン監督や、アダム・ウィンガード監督などの気鋭のクリエイターの作品には、エレクトロ・ポップやネオンカラーなど、80年代風の音楽やファッションにあふれているし、また、『ブレックファスト・クラブ』(1985年)や、『フェリスはある朝突然に』(1986年)など、80年代を代表する青春映画が、『テッド2』(2015年)、『スパイダーマン:ホームカミング』(2017年)などで引用されている。

 こんなにも極端に80年代の要素が顔を出すのは、まず第一に作り手側の事情によるところが大きい。80年代カルチャーに最もこだわるのは誰かというと、それは70年代や、80年代初頭に生まれた者たちである。彼らは、多感な時期や物心がついたときに、その年代の文化に触れて、それらが深いところにまで刷り込まれているのである。だから、アイディアや表現の端々に、どうしても痕跡が残ってしまう。そして、そういうクリエイターたちが、いま現在ものづくりの第一線で活躍しているということだ。

 さらに現在との共通点を見出すなら、ロナルド・レーガンとドナルド・トランプに象徴される、アメリカや世界の政治状況における“保守化傾向”である。ハリウッドの大スタジオは、良く言えば“誰もが楽しめる”、悪くいえば“大味”といえる、家族で楽しめるファミリー映画を連発していた。そこには、このような保守化マインドの影響もあったのではないだろうか。だから80年代文化にあっては、大手会社が不特定多数の消費者に向けて規格品を用意し、大衆はコマーシャルを見て売り場に列を作るという、個性や自立心とはかけ離れた構図が非常に成功していたように思う。大量生産・大量消費の規模がピークにまで拡大し、人々はストーリーが加えられた、プラスチックでできたグッズを好んで所有しようとしたりしていた。

 ゆえに、この文化には特有の“ダサさ”が含まれている。いまファッションとしてこの時代を楽しむというのは、かつてアンディ・ウォーホルらの“ポップアート”がそうだったように、あえて表層的な要素を面白がるという行為となる。そこでは、より“ペラい”方が、逆説的に美しいのだ。日本の70、80年代のポップミュージックが、いま“シティ・ポップ”として海外でも親しまれているのは、そのようなキュレーションとしての面白がり方であるのだろう。

 80年代の途中には、次なる“90年代的なるもの”の萌芽が、少しずつ生み出されてもいた。その象徴といえるのが、レオス・カラックス監督のフランス映画『汚れた血』(1986年)のワンシーンだ。ここでは、デヴィッド・ボウイの曲「モダン・ラヴ」とともに、夜の通りを主人公が失踪していく光景が映し出されるが、シーン自体の唐突さと、画面の暗さによって、これが非常に異様な雰囲気を纏ったものとなっている。この記事の文脈で該当シーンをとらえると、これが衝撃的なシーンとして、われわれの目に映る理由は、そこに80年代の表層感と、来るべき“90年代的なるもの”との衝突や混乱があるからなのではないだろうか。そしてそれはデヴィッド・ボウイの曲自体にも存在していたものなのかもしれない。

 そしてノア・バームバック監督による『フランシス・ハ』(2012年)で、このシーンのパロディが話題を呼んだのは、近年では、かなり早めの“90年代的なるもの”の到来を告げる“先触れ”であったようにも感じられる。

 1989年には、この“90年代的なるもの”が純化したかたちで表れてくる。ガス・ヴァン・サント監督の『ドラッグストア・カウボーイ』である。ここにはたしかに、ポップさや共同体からも背を向けて、個人主義や内面の問題を描いていこうという強い意志が感じられる。このあたりから、アメリカではインディーズ映画が成功し始め、大スタジオによる大作にはついぞ見られなかった、作り手の“作家性”がどんどん前に押し出されてきたのである。

 80年代は、少なくとも文化的には、大衆の時代であり、個を無くしていく傾向にあった時代であった。その反動として、90年代を中心に、草の根から次々に個を主張する作家が現れた。クエンティン・タランティーノ、リチャード・リンクレイター、ハル・ハートリー、ハーモニー・コリン、ヴィンセント・ギャロ……。そして、80年代からそのような作品を撮り続けていたジム・ジャームッシュを、そのカテゴリーに入れているファンも多いだろう。

 イギリスでは『トレインスポッティング』(1996年)の衝撃とともにダニー・ボイルが台頭し、ドイツ映画では『ラン・ローラ・ラン』(1998年)がヒット、香港ではウォン・カーウァイ、フランスからはジャン=ピエール・ジュネや、レオス・カラックスから多大な影響を受けているリュック・ベッソンが人気を集めた。そして日本でも……。

 観客のニーズという意味においては、日本ではこれらの映画が“オシャレ”ととらえられたこともあり、比較的低予算作品を上映する小さい映画館に行列ができるという、空前の「ミニシアターブーム」が起こった。

 このような現象が、いまになって、また少しずつ起き始めていると思うのは、現在もまた、主にビジネス的な理由によって、80年代同様に大スタジオによる作品の“大作化”傾向が進んでいるからだ。この背景には中国市場の存在も大きい。爆発的な経済発展と文化流入、人口の多さによって、未曽有の映画館建造ラッシュが起こり、いまでは世界一の映画館数を誇っている中国では、娯楽大作が爆発的ヒットを起こすことが多く、ハリウッドはアメリカで失敗しても中国など世界興行収入で取り返すことができるようになってきている。

 この状況は今後もしばらく続くように思えるが、それだけに、その一方で作家性の強い作品に飢えている観客も少なくないのではと想像する。このようなニーズに恵まれたのが、『A GHOST STORY/ア・ゴースト・ストーリー』(2017年)や『ヘレディタリー/継承』(2018年)の制作会社「A24」や、『ムーンライト』(2016年)や『バイス』(2018年)の制作会社「プランBエンターテインメント」という、比較的小規模の製作スタイルをとる作り手の動きである。これらのラインナップは、作家主義的で意欲的なタイトルが並び、近年のアカデミー賞でも続々と賞を獲得し、台風の目となっている。

 極めつけはNetflixの出現だ。インターネット配信という新しい形態によって、『ROMA/ローマ』(2018年)や『アイリッシュマン』(2019年)のように、大作規模の作品を、作家主義的な内容で撮れる環境が生まれたのだ。これらスタジオの存在によって、個性の強い映画監督がふたたび息を吹き返しはじめている。

 こういった状況を観客も求めているということを実感したのは、『ジョーカー』(2019年)の大ヒットによってである。時代の異端児であった『ダークナイト』(2008年)が熱狂的ファンを生み出した後、その暗い作風“ダーク路線”を引き継いだことで、下降線をたどっていたDCヒーロー映画だったが、現在の暗い世相に、ダーク路線がついにマッチし、ここにきて最高に暗い作品がふたたび大成功したのである。

 そして『ジョーカー』が、『タクシードライバー』(1976年)など、極めて作家主義的なマーティン・スコセッシ監督の諸作を基に撮られているように、“90年代的なるもの”の源流にあるのは、ジョン・カサヴェテス、もう少しさかのぼるとブライアン・デ・パルマなどのインディーズ出身作家であるだろう。これは、日本で「アメリカン・ニューシネマ」と呼ばれる潮流にも合流しており、このさらに源流にはイタリアのネオレアリスモ後の芸術映画や、フランスのヌーヴェルヴァーグ、シュールレアリスム映画など、映画の起源にまで、飛び石のように遡ることが可能だ。このようなビジネス以外のところから端を発している、一種の“奇妙さ”こそが、とらえにくい“90年代的なるもの”のおぼろげな実体である。

 2020年代は、“80年代的なるもの”のカウンターとして、このように、個人の感性が優先される、お化けのようにつかみづらい、人の心を狂わせる混沌が次々に映画のかたちになって現れるのではないだろうか。そうだとすれば、個人的には歓迎したいところだ。

 日本ではどうかというと、いまその走りは山戸結希監督に代表される哲学的な“難解さ”に収斂されているように感じられる。日本ではもはや文学ですら、表層的な“分かりやすさ”や“楽しさ”ばかりが重要視されるようになっているなか、エンターテインメント業界で評価される、こういった才能は非常に貴重である。その意味では、2020年公開を予定している『シン・エヴァンゲリオン』が控えていることも楽しみのうちである。これもまた、90年代の亡霊のような作品だ。(小野寺系)