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意外な形で結論づけられる“自由”を巡る問い 『ロニートとエスティ』が描く、個としての女性の人生

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 愛する者と触れ合うとき、服を脱ぐよりも先にかつらを脱ぐ女の姿が官能的なのは、服を脱ぐよりもかつらを脱ぐ所作の方がよっぽど官能的に見えるからだ。超正統派ユダヤの女性は、外ではかつらをつけなくてはいけない。そんな教えに従いながらロンドンのユダヤ・コミュニティに生きる「敬虔な信者風」のエスティ(レイチェル・マクアダムス)と、彼女の対極にいるような「ニューヨーク風」のロニート(レイチェル・ワイズ)の再会から、この慈愛に満ちた物語は始まる。

参考:レイチェル・ワイズ×レイチェル・マクアダムスのラブシーン 『ロニートとエスティ』新スチール

 本作『ロニートとエスティ 彼女たちの選択』を監督したセバスティアン・レリオは、『グロリアの青春』(2013年)、『ナチュラルウーマン』(2017年)、『Gloria Bell(原題)』(2018年)と、第4作以降すべての作品で女性の自立の物語を描いてきた。劇中、伯父の家で開かれた食事会の場面で、エスティは「女は夫の名字を名乗り過去が消える」と話し、「いや過去は消えないだろう」と答える男に、「消える」のだと反論する。あるいは「子供を産む気はない」と話すロニートを、他の女が「結婚こそが正しい道」と教え諭す。姓や出産、結婚の問題はこの映画のコミュニティにおける限定的な問題ではなく、世界に遍在する女性の問題であることは言を俟たない。食卓で起きたこの論争は、女性が生きることがすなわち闘いであることをもっとも顕現させている。本作は信仰のもとで葛藤する2人の女性の愛が描かれるが、むしろ主眼とされているのは、同性同士の恋愛よりも個としての女性の人生の方なのではないかと思われる。

 フォトグラファーのロニートがファインダーを覗いて始まると、映画はそのまま彼女の一人称によって進められるが、彼女を写すカメラは唐突に彼女の身体から離れ、第三者的視点を垣間見せもする。世界に対するロニートの強いまなざしのなかに、ふと彼女が内包する孤独や諦観が見え隠れするような印象を観る者に与えるのは、規律の厳しいユダヤ・コミュニティからニューヨークへ自由を求めて抜け出した代わりに、大きな代償を払ったからにほかならない。実際、ラビの娘であるロニートはコミュニティにおいていなかったことにされ、ユダヤ教の書物にも女性の同性愛へは言及されず、彼女自身、そしてまた彼女のセクシュアリティもそこでは不可視化される。

 『グロリアの青春』の女と男は出逢ってすぐに恋に落ちるが、男は忽然と彼女の前から何度も姿を消し、最後には決別することになる。『ナチュラルウーマン』の女の恋人である男は早々に突然死を迎えるが、その後彼女の前に亡霊となって現れる。一方、『ロニートとエスティ』では、エスティが一瞬姿を消す。エスティを透明のシャワーカーテンの向こうに映すショットや、焦点をずらしぼけさせたショットが、彼女の捉えどころのなさを表す。レリオの映画にあって、決して愛した相手は自分のもとには留まり続けはしない。それは物語上の設定ではなく、思想と言うべきなのかもしれない。愛する相手とどう共にいるかではなく、愛する相手がいる/いた人生をどう生きていくかに対する問いが色濃くある。『グロリアの青春』で男の失踪後に浜辺で寝ていた女が目を覚ます描写があったように、エスティの一時の行方不明と同時に、ロニートは空港でまどろみから目覚める。「消失」と「目覚め」が同時に語られるのは、まさに誰かがいなくなることによって、彼女たちは目覚めなければいけなく、歩き出さなければいけなく、人生を生きはじめなければいけないからである。

 そう思えば、ロニートがエスティをカメラで撮る行為もとりわけ特別な意味を帯びてくる。エスティの実体が消えたとしても、フィルムに焼き付いた彼女の像は残る。そしてその光景をみれば、そこにトッド・ヘインズの『キャロル』(2015年)におけるキャロル(ケイト・ブランシェット)とテレーズ(ルーニー・マーラ)の姿を想起せずにはいられない。『キャロル』が舞台とした50年代のニューヨークには、そもそもロニートが追い求めていった「自由」はなかったかもしれない。ラビの後継者でありエスティの夫であるドヴィッド(アレッサンドロ・ニヴォラ)は、「人は自由だ」と叫ぶが、「自由」を誰に赦されるのか、「自由」は誰から与えられるのか、そもそも「自由」とはーー? 投げ出された「自由」を巡る問いに、本作は意外とも言える形で結論づける。ロニート、エスティ、そしてドヴィッド。この3人で構成された関係性はそのまま世界の縮図のようでもあり、3人が和解し得るとすれば、それは世界の融和として捉えられる。共に在ろうとしなくても、対岸にいる「彼ら」が救いでもあるようにと祈られた結末が気高く待ち受ける。ただ愛すること、愛する者がいた人生を歩むこと、それが原題でもある“Disobedience”(不服従)への“証明”なのであって、そこに愛する者の実体がともなうか否かはさしたる問題ではない。(児玉美月)