人は抑圧にどう立ち向かうのか? 『ロニートとエスティ』ラストシーンが象徴する現代的なテーマ
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セバスティアン・レリオの前作『ナチュラルウーマン』では、文字通りの「逆風」に立ち向かう女性が鮮烈に映し出されていたが、本作『ロニートとエスティ 彼女たちの選択』もまた、そうした「逆風」に立ち向かう女性(たち)が中心に据えられている。彼女たちは何に立ち向かっているのか? それは抑圧であり、慣習であり、権威であり、その象徴としての「父」である。
同性愛と宗教の相克は多くの文学や映画が提示してきたものだが、本作はむしろ、宗教に限らない父権なるものとの対峙を見据えているように思える。原作はイギリス人女性作家のナオミ・オルダーマンの自伝的小説であり、彼女がのちに発表した小説『パワー』において、女性が男性を「支配」することになったディストピアを描きつつジェンダーによる支配/被支配の構造を浮かび上がらせていた点とも、通じる主題だと言えるだろう。
舞台となっているのはイギリスの「超正統派」と呼ばれる厳格なユダヤ・コミュニティ。そこで指導者の役割を果たしていたラビ(律法学者)の父親の訃報を聞いたロニート(レイチェル・ワイズ)は、故郷に帰り、そこで幼なじみであるエスティ(レイチェル・マクアダムス)とドヴィッド(アレッサンドロ・ニヴォラ)が結婚していることを知る。厳格なコミュニティから抜け出すために信仰を捨てニューヨークで写真家になったロニートに対し、ドヴィッドは将来を嘱望されるラビとして、エスティはその「よき妻」として、コミュニティの内部に留まっているのだった。しかし、ロニートとエスティは過去を思い出すようにして、お互いを求め合うようになっていく。
「女性の幸せは結婚することだ」とロニートが食事の席でコミュニティの面々から諭されうんざりする場面が象徴的だが、超正統派のユダヤ教のコミュニティでは保守的な価値観が支配的であり、そこでは当然、同性愛は許されない。ユダヤ教の法規を記した「レビ記」には男性の同性愛に対する厳格な戒律が明記されているいっぽう、女性の同性愛に対する記述はとくにないそうだ。しかし、そもそも女性が自由に選択して生きること自体が抑圧されているため、伝統的でない性愛自体がタブーとされる。そうした抑圧を象徴する存在として登場するのが文字通りの「父」であり、この映画は「父」が突然死を迎える場面から始まり、彼は不在にしてなお女性たちを縛りつけるものとして映画の大部分を支配している。ロニートは、一度逃れたはずの抑圧といま一度向き合わねばならない。
もともとロニートはそうした不自由から逃れるために故郷から飛び出したわけだが、いっぽうのエスティは敬虔な信徒であるため、簡単に自由を選択することができない。「過去の女」に激しく惹かれるいっぽうで、信仰に殉じる自分を簡単に捨てられない。カメラは愛し合うふたりを扇情的にではなく官能的に映し出すが、同様に、葛藤するひとりの女性としてのエスティも親密にとらえる。だから映画は、エスティがある「選択」をするまでを丹念に追っていくだろう。
しかしながら、本作において重大な選択を行うのは女性だけではない。ロニートとエスティが愛し合っているのを痛いほどに理解しており、また、ふたりの友人であるドヴィッドの葛藤もまた、この映画の山場となっている。彼は厳格な宗教コミュニティーー父権社会ーーにおける最良の「息子」であり、そこでの慣習という名の掟に従順に生きている。だが、妻と幼なじみが受ける抑圧を目の当たりにし、次第に自分が女性の自由のために何ができるのか考えることになるのである……それは、「父」に逆らうことだと知りながら。つまり本作では、女性が自由を選択するためには、男性も変わらねばならないことがはっきりと示されている。
掟に従わなかった自分を捨てた「父」にロニートが決別を果たすラストシーンには、苦さと清々しさの両方が漂っている。その複雑な感傷は、長く世界を支配してきた男権社会に対する別れに際して去来するものではないか。それは社会の様々な層で顕在化している非常に現代的な命題であり、レリオにとっても重大な主題にちがいない。
三人の決断は様々だ。あくまで父権から逃れる者、そこに留まりながらどうにか自由意思を探ろうとする者、それを内側から変容させようとする者。しかしながら、父権に対して『不服従(disobedience)』(本作の原題)であることこそが三人の共通の想いとなり、そのことで彼女たちは再び心を通わせることになる。その絆を示す抱擁の温かさ、その熱が、スクリーンからじわりと伝わってくるようだ。
(文=木津毅)