アーティストの音楽履歴書 第15回 益子寺かおり(ベッド・イン)のルーツをたどる
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アーティストの音楽遍歴を紐解くことで、音楽を探求することの面白さや、アーティストの新たな魅力を浮き彫りにするこの企画。今回は“地下セクシーアイドルユニット”ベッド・インのおみ足担当、益子寺かおりにこれまでの音楽との関わりを語ってもらった。なお同じくベッド・インから、中尊寺まいのインタビューも近日中に掲載するのでお楽しみに。
Shakatakで踊った幼少期、憧れは母親と「アイドル伝説えり子」
私が生まれたのは1985年で、バブル時代の始まりと言われた時期だったんです。父も母もちょうど甘い蜜を吸っていた世代で、当時はそれなりにブイブイ言わせていたようで(笑)。それこそ休みの日には、母にガルウィングドアのスポーツカーに乗せられて、ユーミン(松任谷由実)さんの曲を聴きながら逗子マリーナの海に向かったり……わたせせいぞうさんの世界みたいなキラキラした情景が、子供の頃の記憶に残っています。そんな母の姿を見て、幼いながらにどこか憧れのようなものがありました。
早熟だったのか、家ではShakatakの「Night Birds」を聴きながら、ランバダのごとくクネクネ踊る遊びもしていて。あんなトレンディでアーバンな曲が幼少期のオコチャマに刺さるなんて、ったく「マセガキ」よね……(笑)。一方で昔から自転車に乗れないくらい運動音痴で、もうこの頃から「自分は周りの子と同じことができないダメな子だ」って自覚があって(笑)。スポーツのフィールドで戦うことは早々にあきらめ、お家で絵を描いたり、何時間も集中して1000ピースのパズルを黙々と完成させたり、テレビやマンガに夢中な“もやしっ子”でした。特に「アイドル伝説えり子」(※1989~90年放送のテレビアニメ)がDAISUKI!で。アイドルたちの人生を描いたアニメで、田村英里子さんとタイアップした作品なんですけど、当時えり子になりきって主題歌を歌ってる映像が実家に残ってました! もしかしたら、えりりんに憧れたことが、歌に興味を持つきっかけだったかもしれないです!
幼稚園児の頃はウォークマンを聴きながら眠るのがお気に入りで、クラシックのテープをよく親から借りてました。その中でも「ツィゴイネルワイゼン」とか「熊蜂の飛行」みたいな、暗くて激情的な曲ばっかり好きで、それを聴くと安眠していたそうです(笑)。クラシック以外だと両親が好きなPeter, Paul and Maryもよく聴いてたんですけど、明るくてポップな「Puff」とかより、暗くて切ない「500Miles」とか「Gone the Rainbow」のほうがスキスキスーだったみたい。それを母から聞いて、なーるほどTHEワールド! のちのちアングラ系の音楽やメタルにズッポシ夢中になったのも、この時期聴いていた音楽の影響が大きいんでしょうね。
大チン事勃発!ピアノ発表会でエクスタシーを知る
母はザ・ハマっ子で、ジャズがものすごい好きでして。それで「ジャズピアノを娘に弾いてもらいたい」という願望があったみたいで、3歳頃にピアノを習い始めたんです。中学3年生くらいまで続けていたんですけど、決まったルールに従った練習が本当に苦手で、指番号通りに弾くのとか「イーッ!」ってなるぐらいできなくて。楽譜を読むのも苦手だったので、代わりに先生が弾いてくれたものを耳コピして弾いて、ゲームみたいなものに転換して乗り切っていました。そうそう! そういえば、ピアノの先生が超バブリーな方だったんですよ! もう今の自分の生き写しみたいな見た目で、常に肩パットスーツにボディコン着てて、髪型もワンレンでグラマラス……先生ったら、私がピアノを演奏してるときに、横で聴いててパッションがあふれ出すと、突如立ち上がって、高らかに歌い出すんですよ……!(笑) 逆につまんない演奏すると、ウトウト寝ちゃうっていう。もしかすると母よりも、ピアノの先生から受けた影響のほうが大きいかもしれない……!
唯一発表会だけは、自分が弾きたい曲を弾けたので好きでしたね。小学生の頃、DAISUKI!なベートーベンの「月光・第1楽章」を自ら志願して弾きまして。これまた絶望的に暗い曲だけど、第3楽章とかプログレッシブメタルみたいで超カッコイイの……! で、この曲を発表会で演奏したとき、スポットライトを浴びた瞬間……やまだかつてないエクスタシーを感じてしまったんですよ! ゾーンに入って、完全にイッちゃったんです(笑)。「なんて気持ちいいの……神になった心地だ!」と弾き切って、恍惚としたままドヤ顔でステージを降りたら、先生が「素晴らしい演奏だったわ! でもなんで同じところ何回も繰り返したの!?」って。まさかの無意識のうちにエンドレスで弾くというチン事を起こしてて、ぶっとびいー!(笑) 今でもたまに、ドヤ顔でMCをミスって、後で指摘されるまで気付かないことがあるんですが、全然変わってないな……。
ピアノを始めてからは、テレビで流れている歌謡曲や大好きなユーミンさんの曲も耳コピして、弾き語りして遊ぶようにもなりました。誰に披露するわけでもなく、1人で何時間も。マイペースに自己の快楽を追求するのが好きな性分だったので、ズッポシ自分の世界に入れる“ス―パーひとりっ子タイム”がお気に入りだったんです。そんな私の姿を見て、ある日母親が「ユーミンさんは曲も歌詞も全部自分で作ってるんだよ。そういう人、目指したら?」と話してくれたことがあって。そこからシンガーソングライターという存在を知って、淡い夢を抱くようになったんです。当時家の隣がレンタルビデオ屋さんだったこともあり、母がよくCDをレンタルをしてくれて、アン・ルイスさん、大黒摩季さん、山口百恵さん、中森明菜さん、槇原敬之さん、CHAGE and ASKAさん、My Little Loverも好きでよく弾き語りしてましたね。
悲劇の始まり、小学校での音痴コンプレックス事件
そんな夢をぶち壊されたのが小学生高学年。通っていた学校に合唱団みたいなものがあって、そこは校内で歌がうまい人たちが集まっていたんです。私も入団テストを受けたんですけど落ちてしまって。それ自体はあんまり気にしていなかったんですけど、先生に「歌っているときの表情が暗かった」と落選理由を言われて、カチンときて。そこで「音楽なんて人それぞれ、表現の仕方は自由だろ! 暗く歌おうが明るく歌おうが、歌いたいように歌えばいいじゃんか!」という“なめ猫”精神が芽生えまして。それと同時に「自分は音痴なのかもしれない」と思い込んでしまい、人前で歌えなくなり、合唱してても「自分だけ音程が違うんじゃないか?」と怖くなるという重度の音痴コンプレックスに陥ってしまったんです。今思えば「固定観念なんてクソくらえ!」ってことを早めに気付かせてくれたきっかけでもあるので、結果オーライですけど(笑)。
でも、こんなことで好きなことをあきらめるのは悔しかったので、毎晩お風呂でDAISUKI!なアン・ルイスさんや、中島みゆきさんなどの歌を熱唱しては「うらみ・ます」ばりの情念を込めながら練習する日々でした(笑)。中島みゆきさんを知ったキッカケはドラマ「家なき子」。ドラマ「コーチ」では玉置浩二さんに恋して、そこから安全地帯を知って聴くようになったり、この頃の情報源はほとんどテレビでしたね……あ! 小学校6年生の頃に電気グルーヴが好きになり「ライブに行ってみたい!」と親に熱弁したら反対され、大喧嘩して泣いた記憶もあります(笑)。
ベッド・インの前身? ポポリポ星人襲来
その後小学校を卒業してからは、さらに己の道を突き通す子に育っていくんです。ZUTTO女子校だったので、異性の目を気にせず、すくすく自分のGスポットを開拓できる環境でした。当時は篠原ともえさんが好きだったこともあって、クラス唯一の“シノラー”であり、原宿文化の1つ“いちごちゃん”を体現していました。自分で作った全身いちご柄のお洋服で学校に通い、前髪をギザギザにしたり(笑)。そこでついに、世の中への反逆をおっ始めるんです……子供の頃から違和感に思っていた「自分の意思ではなく、周りに流される風潮」や「こうしなきゃいけないという固定観念」への反骨精神が渦巻いていて。爆発しそうな気持ちを、何かしら表現として伝えたいけれども、当時はバンドもやってなかったので、手段がわからなかった。そこで「ポポリポ星人」という血迷った前衛ユニットを始めるんですけど……パフォーマンス内容が、だいぶプッツンで! 自分で作った奇抜な洋服を着て、鼻で美しくリコーダーを奏でるという……私以外にもう1人“愛方”がいて、彼女が主旋律を吹き、私が美しくハモるというシュールさ……(笑)。謎すぎてセキメーン! でも主張をただ言葉にしただけじゃつまらないし、説教じみてしまい誰も聞いてくれない。だから笑いに昇華して表現しようという考えはこの頃からあって。ユーモアでもって反骨精神を啓蒙しようという点においては、自分にとって、ベッド・インの前身のような存在にあたるかもしれないです(笑)。
中2になると、オタクの道にのめり込みました。実はバンドを始めるまでは、絵を描くことが生き甲斐!と思うくらい好きで。幼稚園から中3くらいまでは、家に帰ったら真っ先に落書き帳でイラストやマンガを描くことを365日ルーティンのように続けていたんです。これも誰にも見せずに、1人でシコシコと。それが中2になった頃、同じ趣味のオタク仲間と出会って「誰かと好きなものを共有する」といううれしさを知って爆発しちゃって! もう、授業中も家に帰ってもマンガばかり描いては、馬渡松子さん、TWO-MIX、小坂由美子さん、清水咲斗子さんの曲など、オケカラでアニソンを熱唱する日々。そうなると今度は洋服に気が回らなくなって、気付いたら全身真っ黒な服しか着なくなっちゃって。「あんた最近服装ヤバいよ!」と友人に指摘され、「イカン! このままでは、破滅に向かって……††」と思い、危機感を感じて足を洗ったんです。そのくらい、昔から「好きなモノはコリだ!」ってなると、周りが見えなくなるほどZOKKON命で、服装にまで表れちゃうほど夢中になる性格でしたね。
おじさまに調教されてばかりの中学生時代!?
中学生の頃には特にヴィジュアル系とメタルにハマりました。当時PENICILLINさんのファンだったんですけど、んもう、歌詞がすっごいスケべで……! 最初はそれがキッカケで好きになったんです(笑)。小中高12年間女子校育ちという性を抑圧されていた環境も相まって、DOKI DOKIしながら「この比喩表現どういう意味なんだろう……?」と妄想を膨らませては図書館の広辞苑で調べる日々でした(笑)。広辞苑、だいたいエッチな単語は網羅してますからね! そこで「私ったら今、イケナイコトをしている……」っていう、誰にも知られない秘密を楽しむ背徳感のような快感を覚え、親に隠れて深夜ラジオも聴いたり……下ネタはこのとき学びましたね(笑)。PENICILLINさんは、楽曲も凝りに凝ってらして、特にキメやリフ、展開が素晴らしくて! 「ここのブレイクが気持ちいい!」と思っては、何度もそこを“リフレ淫”して聴いたり、ライブに通うにつれメンバーの関係性を知り、“バンド”という存在って素敵だなと思うようになりました。Marilyn Mansonを好きになったのもこの頃だったかな。「汚いものは美しい」という世界観に感銘を受け、物事は1つの見方ではなく、いろんな見方ができ、その人次第でそれが1つの美学になるんだと気付き、次第にアングラな世界に心地よさを感じるようになっていきました。
同時期には近所のメタル好きな知り合いのおじさんが「これを聴いたほうがいい」と“俺ベスト”的なカセットセープを貸してくれて、その中にランディ・ローズが参加していた時期のオジー・オズボーンの曲が入ってまして。ランディのギターソロを聴いた瞬間、鳥肌が勃って、月に吠えるの巻! エレキギターの音ってなんて官能的で美しいんだと、うっとり。そこから今も放送しているtvkの「伊藤政則のROCK CITY」を観始めて、セーソク先生にPanteraや、Dream Theater、Anthrax、Slayerなど、いろんなメタルバンドの存在をハウトゥしてもらって……振り返ると、おじさまたちに調教されてばかりの中学生でしたネ(笑)。
一方で思春期真っ盛りなこの頃は、今では信じられないくらい心が弱くて、見た目のコンプレックスもあったし、家庭問題も抱えていたりで、消えてしまいたい……とまで思っていました。そんな鬱屈した気持ちを発散させてくれたのがメタルやハードコアの音楽。わがままも弱音も吐けない性格だったので、攻撃的な音や叫びが、自分の怒りや負の感情を代弁してくれてる感じがして、かなり救われましたね。この頃から、放課後に1人でdiskunionに通ってはディグるようになり、自分のGスポットに当たる音をひたすら探って、プログレやグラインドコアとかまで聴くようになりました。次第に「バンド、やってみたいかも」と思うようになったものの、まだ音痴コンプレックスも引きずっていたから、代わりにエレキギターを始めて。最初はS.O.D.(Stormtroopers Of Death)の「March of the S.O.D」とかを弾いて練習してましたね。それが中学校3年生くらい。それ以来、ギターは10年くらいやってたんですけど、ギターソロが苦手で結局“ともだちんこ”になれずじまいでした……トホホ(笑)。
デス声なら音痴も関係ないのでは……?
高校では軽音楽部に入ったんですけど、寄せ集め的に組んだバンドだったから、メンバーごとにヤりたい曲もバラバラだし、最初はいわゆる女子校にありがちな“なんとなく可愛いイキフン”のフワっとしたバンドになっちゃって。そんな自分を変えてくれたのが、交流があった近所の男子校の軽音楽部の人たちでした。合同でライブをやったときに、彼らは自分たちの好きなことを誇りを持って全力でヤッていて、モッシュして、ダイブして、男を謳歌してる様がたまらなくカッコよくて、処女的衝撃(ヴァージンショック)!を受けたんです。圧倒的な熱量と意識の差も感じて、うらやましかった。当初自分のバンドは全然相手にされなかったことが悔しくて「この人たちに認められるようになりたい」と思ったし、ナオンというレッテルを外して、同じ土俵で戦いたいと思うようになりました。
そこで自分も好きな曲をやってみようと、高2になって女子3人でTHE MAD CAPSULE MARKETSやYELLOW MACHINEGUNのコピーバンドを始めるんです。組んだバンドの名前が「ドリームデストロイヤー」(笑)。まだ怖かったけど、人前で歌いたいって気持ちは残ってたので「デス声なら音痴も関係ないのでは……?」ってひらめいて、やってみたら全然ダイジョーブイだったんですね! 特に女の子ってデス声を出すほうが勇気がいると思うけど、自分にとってはメロディを歌うことよりも断然ハードルが低かった。何より好きな曲をバンドで演奏できることや、誰かと一緒に1つのものを作り上げる達成感をわかち合えることがうれしくて、ギターボーカルに転身して以降は、朝から晩まで、ごはんを食べることも忘れて練習に没頭しました。女の子のデス声が珍しかったこともあって、このバンドを始めてからは一気に男子校の人たちが認めてくれるようになり、少しずつステージに立つ自信もついてきました。ほかにも、マイナーリーグ、BRAHMAN、THE BACK HORN、cocobat、GARLICBOYS、Hi-STANDARD、System Of A Down、The Offspring、Pantera、Hatebreedのコピーもしましたね。メロディのある曲も歌うようになって、音痴コンプレックスも徐々に解消されていったんですが、高3年になると受験でバンドメンバーはみんなドライな感じで辞めていき、結果ドリームはデストロイされてしまいましたとさ(笑)。
学校には同じ音楽の趣味の子もいなかったし、あまり居場所もなかったので、話が合う男子校の子たちとの関係がうれしくて、しょっちゅう一緒に遊んでました。オススメの音楽を教えてもらったり、負けじと自分も知識も増やすべく、行きつけのレンタルショップのお得デーを見つけては、まとめてレンタルをして“お気に入りMD”を作ってました。THEE MICHELLE GUN ELEPHANTやBLANKEY JET CITYを聴くようになったのも、中森明菜さんや山口百恵さん、浅川マキさんをはじめ、昭和歌謡をオケカラで練習するようになったのもこの時期でした。なかでもアン・ルイスさんのたくましい声に憧れて、太い声が出るように水面下でシコシコ特訓もしてましたね。
プログレロック×歌謡曲の折半、「妖精達」結成
大学ではデス声に頼らずに、女性ボーカルの曲も歌えるようになりたい!と決意して。それで入学式の日に、軽音サークル勧誘の名簿に同じタイミングで名前を書いていたのが、妖精達のベーシスト、バンデラス・ハセガワだったんです。その名簿に“好きなバンド”を書く欄があって、ハセガワが書いてたのが「X JAPAN」! 「ヤダ! 超信頼できる……!」と思って、すぐに熱いモーションをぶっかけました。ハセガワとは学部も一緒で音楽の趣味も合ったからすぐに仲良くなって、一緒にメンバーを探して妖精達を結成しました。一方で聴く音楽はさらにGスポットを開拓していき、エレクトロニカや実験音楽、民族音楽、ノイズとかにハマって。BOREDOMS、ROVO、山本精一さんのソロ活動、渋さ知らズオーケストラ、Mum(※uはアキュート付き)、Warp RecordsのBattles、エイフェックス・ツイン、Clarkとかをよく聴いてました。ニューウェイブも聴くようになって、邦楽だとSOFT BALLETやバブル時代にしか活動していなかったGRASS VALLEYが特に好きになりました。周りから「青田典子さんに似てる」とよく言ってもらうようになったのをキッカケに、C.C.ガールズさんやバブル時代に興味を持ち始めたのもこの辺だったと思います。バイトをしながら、フェスやライブに行き、徐々に昭和歌謡のレコードも集めるようになりました。
オリジナル曲を作り始めたのは大学2年生くらい。妖精達はメンバー全員、音楽の趣味も普段の嗜好もまったく違ったこともあり、当時はまだ、ちぐはぐなバンドでした。私は憧れの中森明菜さんの「TATTOO」みたいなドレッシーな衣装でキメたかったんですけど、ほかのメンバーからTシャツとGパン以外は着たくないと断固拒否され……(笑)。結果、私だけドレス姿。MCも当時から私は今と変わらないイキフンでしゃべっていたこともあり、SF(少し不思議)なバンドに……でも全員、男勝りなくらい各楽器に対しての愛が強く、バリバリの職人気質ぞろいだったので、音の化学反応がガチッとハマった瞬間が最高に気持ちよくて! おのおのの持ち味や魅力をうまく織り交ぜたオリジナル曲が作れないかと試行錯誤しました。全員ベクトルが違うからこそ、融合させたら“誰かっぽい”という括りにはまらない、素敵なサムシングを追求できるんじゃないかと思ったんです。
そこで行き着いたのがもともと好きだった、昭和香る情念系の歌謡のメロディと変拍子のプログレッシブロックを掛け合わせたスタイルで。変拍子についてはTool、Opeth、Meshuggah、kamomekamomeなど、この頃特にプログレ要素の強いバンドが好きで聴いていたので、その影響かもしれません。今のこの音楽性やコンセプトを確立させたのは、10年前くらいですかね。しばらく活動休止を経たタイミングで「ヤれるところまでヤってみようぜ」と帯をキュッと締め直し、妖精達の“第2章”を本格始動させたんです。場末感のあるドレスに身を包み、官能的な世界観でもって「どんなきれい事ばかり言っていても、どうせ頭の中はセックスのことだらけなんでしょう……?」と性と欲望の解放、世の中へのU.N.S(恨み・妬み・嫉み)を撒き散らす、大人のナオンバンドへと変化してイキました。曲は私が中心に考え、メンバーに相談しつつ作ってるんですが「この人たちなら、どんな変拍子や難解な展開でもイケるであろう!」という信頼とリスペクトのもと、いつも無茶ぶりしてます(笑)。結成して15年経っても全然飽きないし、家族みたいな存在ですね。結婚してママになったメンバーも増えてきたので「老後まで続ける」を目標にマイぺースに活動してます!(笑)
そうそう、妖精達が活動を再開する直前、2008年に初めてプロレスをおナマで姦戦したんですけど、「こんなに体を張った、やまだかつてないエンタテインメントがあるんだ!」とクリビツテンギョーしまして。妖精達のライブで必ず花道入場、場外乱闘をするようになったのは完全にプロレスの影響です。ベッド・インも含め、今でもステージに立つときのマイクパフォーマンスや所作は、プロレスから学んでいる部分が多いですね。特に新日本プロレスの飯塚高史選手には当時感銘を受けました。飯塚選手はとにかくミステリアスで、ヒール(悪役)としての貫き方が素晴らしい選手で。おギグ中のパフォーマンスに迷いがなくなったのは、確実に飯塚選手のおかげです! ただ行き過ぎてしまって、ギタリストの暗黒王アラキにプロレス技をかけるのがライブの定番になってしまって(笑)。ここでも好きが爆発してしまう性格が顕著に出ましたね。
“愛方”ちゃんまいとの運命の出会い
ちゃんまいちゃん(中尊寺まい)と初めて会ったのは2010年頃だったかな。立川BABELで私が妖精達、彼女がかたすかしってバンドで競演したんです。ちゃんまいちゃんは当時から重厚で凶暴なギターを弾いてて、同世代であんなに曝け出したスタイルの女性ギタリストって珍しかったから「ゴイスーな子がいるな!」と衝撃を受けましたよ。今と違って、MCも演奏も終始とがったイキフンだったので、最初話しかけるのに少し勇気がいる感じで。でも終演後のアゲウチで怖い子じゃないってわかって(笑)、すぐに打ち解けて、「バブル顔って言われない?」「私あだ名“愛人”なんだけど!」「ねえ、女子校出身じゃない?」「え! わかる? やっぱり一緒ー!」ってバーカウンターで爆笑しながら話したこと、よく覚えてます。そこから頻繁に飲みに行くようになって、ボディコンを着てオケカラでジュリ扇を振る“バブルごっこ”をやっているうちに、ベッド・インを結成することになったんです。
池袋の音処 手刀で開催された、ちゃんまいちゃんが所属していたバンド、例のKのカノウ(Vo)さんの性誕イベントが初おギグでしたね。そのときは一夜限りのコピーバンドとしてヤッたんですけど、バブル文化への愛とリスペクトの気持ちも込めて「ちゃんとしないといけない」というプレッシャーもありました。それに当時の音処 手刀界隈の人たちは昭和やバブル文化の知識も豊富だったから、ちょっとでも違う部分があると失礼に当たるなと思って、君は1000%の気合いで挑んだのを覚えています。コピバンにしてはかなり熱の入った練習をして、特にライブ中の煽り方やパフォーマンスは浜田麻里さんやSHOW-YAさんのライブ映像を何度も観て研究しましたね。いろいろハウトゥしてくださったり、鍛えてくれた手刀界隈の皆さんには本当に感謝してます!
その日のおギグが予想以上に盛り上がったのと、楽しかったことが相まって、本格始動のキッカケとなった憧れのC.C.ガールズさんをイメージした写真集の自主制作につながっていきました。もともと私は学生時代からライブやイベントのフライヤーをデザインしたり、グッズや制作物を作るのが好きだったこともあって、「せっかくだから写真集、実際に作ってみようよ! 自分たちで作れると思う」と、具体的な話を持ちかけたのを覚えています。印刷会社を調べて、ロケ地や構成を考え、バンド仲間たちと夜な夜な楽しく作って。私もちゃんまいちゃんも、お互い手をヌけないタイプなことも相まって、「ここはこうしよう」「衣装はこっちのほうが当時っぽいよね」とか、阿吽の呼吸で進められたのがすごくABCDE気持ちでね……今でもそれは変わらないですが、まさかベッド・インとしてここまで長く活動するとは、当時は想像できなかったなー!
ウチらにしかできない“ネオバブル”
バブル時代の作品は、音楽もロンモチでスキスキスーですが、私にとってのルーツは当時のアートワークやマンガがより色濃い気がします。マンガで言うと、原作も主題歌もDAISUKI!な北条司先生の「シティーハンター」、上條淳士先生の「TO-Y」、澤井健先生の「イオナ」、椎名高志先生の「GS美神 極楽大作戦!!」などなど、ガラスの十代の頃からGスポットに刺さる作品が多くて……! 作品に登場するセクシーで強くてカッコいい、人に媚びないタカビーなお姉様キャラたちに憧れてましたネ。一方で学生時代から美術館に行くことも好きだったので、永井博さん、篠山紀信さん、山口はるみさんをはじめ、いろんなアーティストの作品集や写真集、広告集を集めていたことも、当時の文化との出会いのキッカケでした。昔から古本屋で写真集や美術書を漁ったり、レコードを集めることも趣味で、特にバブル時代のアートワーク特有の絶妙な色遣いやフォントとか、たまらなく愛してるんです……!「無駄の美」を地でいってる大胆さや、ビビッドでハッキリした色遣い。お金が潤沢な分、遊び心やユーモアで攻めまくったデザ淫が多くてタマランチ会長……! アートワークを眺めているだけでも、こんなにパワーをもらえて元気びんびん物語になれる時代、やまだかつてないですよ!
音楽活動って、楽曲やライブだけじゃなく、衣装やCDジャケット、ビジュアルワーク、グッズ、文章、SNSさえも表現の1つとして、そのアーティストを表す顔になるじゃないですか。私はそのすべてが同じくらい愛しく思えるし、だからこそ全部に対して徹底的にこだわって考えています。それもあって、ベッド・インは絶対にセルフプロデュースを譲らないし、守り続けてるんです。ロンモチで私たちの意向を汲み取って、形にして下さる素晴らしいデザイナーの皆様のおマンパワーもお借りして成り勃ってますが、ナニよりもまず自分たち自身が「バブル時代のオイニーを感じられつつ、リスペクトが込められた表現方法になっているかどうか」という嗅覚を常に大事MANにしています。これは結成当初からZUTTO変わらないですね。当時の文化を愛しているからこそ、文字フォントのデザイン1つにおいても、こだわらずにはいられないんです。
私はそういう細かい部分から大きな企みまで含めて、総合的なエンタテインメントを作り上げることが、たまらなく好き……! だからこそ、こうしてベッド・インで“大人の文化祭”をヤレて、それを生業にできていることは、本当に夢がMORI MORIでマンモスうれPことなんです! そしてナニより、それを心待ちにして楽しんでくれる性徒諸クン(ベッド・インのファンの呼称)たちがいる。だからこそ、まだまだ日本武道館や紅白歌合戦の夢も本気であきらめてないわ……! 脳内ではたくさんのジュリ扇が舞う、巨大なバブル空間を作るビジョンがあります。
3月4日には新しいミニアルバム「ROCK」が発射オーライしますし、まだまだいろんな可能性があると、今もWAKU WAKUしてるんです! バブル時代の魅力的な部分と、現在(いま)を融合して、ウチらにしかできない“ネオバブル”をとことん追求し、いかに面白いことをできるかが勝負……! これからも愛方や仲間たち、性徒諸クンたちと一緒に、まだ見ぬ景色と桃源郷(ユートピア)を目指してイクわよ……!
益子寺かおり(ますこでらかおり)
バブル文化をリスペクトして活動中の“地下セクシーアイドルユニット”ベッド・インのボーカル、おみ足担当。2012年にセルフプロデュースで活動を開始し、2013年6月には初の作品となるグラビア写真集「Bed In」、2014年3月に8cm短冊シングルCD「ワケあり DANCE たてついて / POISON~プワゾン~」を自主制作で発売。2020年3月には新作ミニアルバム「ROCK」のリリース、そして全国12カ所のツアー「THIS IS “ROCK”」を控えている。現在CAMPFIREでは5月3日に行われるツアー「THIS IS “ROCK”」 東京・TSUTAYA O-EAST公演のおギグDVDを作るための“マル金パパ”も募集している。ベッド・インと並行して“歌謡ロックバンド”妖精達のボーカリストとしても活動中。結成15周年を迎えた2019年12月にはミニアルバム「KINGDOM OF WOMAN」を配信リリースした。
取材・文 / 高橋拓也