手塚治虫が1973年から74年にかけて描いた青年マンガが原作。73年は、虫プロが倒産し、「手塚治虫は終わった」と言われていた時期だが、終わってなどいなかった。
世の中全体は、学生運動が収束し、ドルショック、石油ショックで高度経済成長も終わり、文化では前衛、アングラが市民権を得て、それゆえに過激さを失っていく頃だ。
しかし、失うものがなくなった手塚治虫はよりラジカルになり、『ばるぼら』は厭世的で、猟奇的、退廃的、耽美的な作品となった。
映画の時代設定は明確ではない。登場人物がスマホを使っているので、現代のようではあるが、70年代の雰囲気がある。外国人による撮影のせいか、現代の東京ではないような空気感。
二階堂ふみは、いわゆる「体当たり」の演技だが、この捉えどころのない、現実感が希薄なヒロインを見事に具現化。彼女なしでは成立しない映画だ。
稲垣吾郎も、受け身の主人公に、表情を変えないという難しい役作りで挑み、成功している。
制作されたのはコロナ禍前だが、狂騒の60年代が終わった後の空虚さが、コロナ禍のいまと重なる。