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ニナ・メンケスの世界

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近年、シャンタル・アケルマン、ケリー・ライカートといったインディペンデントの女性映画作家の再発見、再評価の機運が高まっているが、ニナ・メンケスは、明らかに彼女たちの系譜に連なる存在で、アンダーグラウンドな異端児の風合いを持つ映画作家である。 ニナ・メンケスの一貫して抱えているオブセッション、モチーフ、映画作家としての姿勢を知るためには、最新作『ブレインウォッシュ セックス−カメラ−パワー』(2022)がもっともふさわしいかも知れない。この映画はニナ・メンケス自身が語り手して登場し、膨大な映画史上の有名、無名作品の映像フッテージを引用しながら、ハリウッドを中心にいかに映画というものが〈男性のまなざし〉によって支配されてきたのかを暴いたドキュメンタリーである。この〈男性のまなざし〉という概念を最初に提唱した映画理論家ローラ・マルヴィが度々登場し、インタビューに答えている。メンケスは、あたかも映画大学の講義のように、ショット、フレーミング、カメラの動きなど微細なディテールを分析しながら、いかに性差別的な二元論が永続し、なおかつ、われわれがそのイデオロギーの神話作用にいかに深く冒されているのかを語るのだ。 今回の特集で初公開される二本の劇映画は、いわばその実践篇ともいえよう。どちらも主演は監督の実妹ティンカ・メンテスである。 長篇第一作の『マグダレーナ・ヴィラガ』(1986)は、殺人の容疑で捕まった娼婦アイダが刑務所に閉じ込められている、その精神状態を悪夢的というか詩的瞑想のようなタッチでとらえている。明らかに、シャンタル・アケルマンの傑作『ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』(1975)の深い影響下で撮られたもので、あたかも意図せざるその続編のような印象を与える。アイダは果たして殺人を犯したのか。映画は次第にそのドラマ的な結構すら放棄され、息苦しいまでの幽閉状態の視覚化そのものが奇怪な後味を残す。 『クイーン・オブ・ダイヤモンド』(1991)は、ラスベガスで生きる女性ディーラーの淀みきった日常を徹底した長回しと、時折、はっとするようなズーミングを活用しながら描いている。ネオンの荒野のようなラスベガスの喧騒と、末期の老人を介護し、夜はカジノでカードを配る、その坦々とした日々はいかようにも対位法的な効能をもたらさない。白日夢のような結婚式の光景のように、ただ断片としてだけ浮かびあがっては、消えてゆくだけである。これほど通常の劇的なカタルシスからほど遠い、しかし、同時代のアメリカの荒涼たる時代精神の断面をざっくりと提示してみせている映画も稀であろう。