井口奈己監督の『左手に気をつけろ』(43分)と『だれかが歌ってる』(30分)がセットで公開される。
左利きを取り締まる“こども警察”が闊歩するパンデミック以後の世界を詩的に周遊する『左手に気をつけろ』も痛快だが、モチーフ、ロケーション、こどもの存在などに共通するものがあるプロトタイプとも言うべき『だれかが歌ってる』についてここでは綴ってみたい。
これは、音楽のデモテープに相当するような作品で、よりアコースティックな、さらさらした味わいに魅力がある。『左手に気をつけろ』にはある社会性や批評性はほとんど感じられず、タイトルがあらわしているように、これは音楽をめぐる物語であり、優れて音楽的な作品だ。
クリスマスを背景に描かれる、だれにも聴こえるわけではない歌の行方。そこに一枚の絵がかかわることで、わたしたち観客は、自身のカルチャーをめぐるあらゆる記憶の細部に出逢いなおすことになる。画面では、ただ電車が通り過ぎ、ただ人が走り、ただ人が歩き、ただ腰をおろしているだけなのに、だれかがそばにいるような、文化芸術の神髄にふれたとき特有の感慨に包まれる。
井口奈己は、わたしたちの体内にある感覚を、映画を通して、するどく、そして、やわらかく撫でる。絵筆で、こころをなぞる。そうされることで、わたしたちの精神は奏ではじめる。ひとつの歌を。