現代日本映画の愛好家であれば一度は夢想したかもしれない顔合わせが呆気ないほど鮮やかに実現してしまった歓びを私たちはいま静かに噛み締めている。
黒沢清と菅田将暉。
両者が組めば必ずや途轍も無い現象が起きるに違いないと彼らのフィルモグラフィをリアルタイムで体験してきた者であれば妄想を逞しくしていたはずだがそのイメージがひょいと何の躊躇もなしに塗り替えられる映画史の更新を前にして一体どんな言葉を口にすればいいのだ。
菅田将暉に転売屋の主人公を演じさせ彼を恨む人々に包囲され禍々しくも抜き差しならない絶対絶命の窮地に陥る様を軽やかな歪みと共に活写していく黒沢清の筆致は近作全てが新展開の傑作という絶好調ぶりを裏切らないどころか益々やりたい放題の野放図な貪欲ぶりを見せつけて圧巻である。
菅田将暉という逸材を得てある意味一度は撮りたかったに違いない映画原初の形を実現させている黒沢清の幸福を目の当たりにするだけでも充足してしまうがそれでは観客として余りに怠惰だと言わぬばなるまい。
ここで刮目すべきなのは黒沢清と菅田将暉が邂逅したことによってこの俳優の本質がこれまでの彼の出演作とはまた異なる有り様で顕在化している事実に他ならない。
ぶっきらぼうで仏頂面で不機嫌で無表情な相貌に映る男の奥底で人知れず蠢いている正体不明の活力を菅田将暉は文字通りノーガードな構えで体現してみせる。卑劣で無感動で人間味に乏しく愛想の欠片もないような人間がたまらなく愛おしく思える瞬間を彼は一切の根拠が介在しない無垢な領域から伸ばした手で掴みほらねと差し出だして笑う。いや現実には笑顔などなかったはずなのに菅田将暉の演技そのものが微笑んでいたように錯覚させるのだ。
彼の芝居はいつだってこちらに媚びることがなく靡く様子も見せないのに幻惑的で誘惑的でおいでおいでをしている。私たちは躊躇う暇すら与えられず夢の中で足を踏み外すくらいの簡潔さで奈落の底に落下する。そこが何処なのかは映画を観てのお楽しみである。
最後の場面。
あまりにも黒沢清らしいそのラストカットが菅田将暉という俳優の本質を見事に詳らかにしてふたりの出逢いが私たちの多幸感を約束する。