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It’s Not Me イッツ・ノット・ミー

映画

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『ポンヌフの恋人』で彼にインタビューした際、最も印象的だったのは、こんな一言だった。 「僕らがホームレスの人から目をそらそうとするのはなぜかわかるかい? それが未来の自分の姿かもしれないからだよ」 問いかけというよりは、詩的な自問自答として言葉を発したレオス・カラックスは、確かその時、日本で購入したという学生服に身をつつんでいた。 浮浪の恋人たちを、極度のロマンティシズムで描いた『ポンヌフの恋人』の監督は、自作に冷や水をかけるように、作品の深層を爪弾いた。 ひとつの決定事項のように物語られる批評的視座。これが作品の内部にも外部にも一貫していて、独自の美的センスとハレーションを起こすのではなく、共に歩み進もうとする当たり前のポジティヴィティがカラックスという伝説を成立させている。 自分がどのように見られるか。その戦略性に、美も批評も内包されている点は、ゴダールの振る舞いとも一致している。映画史の“恐るべき子供”として登場、『ゴダールのリア王』にも被写体として招かれるなど、特権的なポジションでキャリアをゆっくり更新してきたこの映画作家は、自作『ホーリー・モーターズ』でも画面にその身体を晒している。 あたかも、ドニ・ラヴァンが三部作で演じたアレックス(カラックスの本名)がそうしていたようにパントマイム(この様式は最新長編『アネット』にも精神的支柱として埋め込まれている)を思わせる運動で銀幕を活気づかせ、観客を映画に誘導した。 パリのポンピドゥセンターからの展覧会の依頼が頓挫・発展するかたちで生まれたこの42分の映画は、彼にとってはゴダールの『JLG/自画像』に相当するのかもしれない。“それは僕じゃない”ーー逆説で初めて正直になれる、あまりに文学的なカラックス。 引用の織物としての自画像の背景では、後期ゴダールがそうしていたようにカラックス自身の声が映画的に響く。喪われた人や失った人への想いが映像にも表出するが、決して露悪にならないのは、美と批評の並走感覚が今もなおみずみずしく躍動しているからだろう。 もちろんラヴァンが体現したアレックスはカラックスの分身と言えるだろうし、ゴダールを真に追悼できるのは自分だという自負はあるだろうが、そうした表面的なことよりも“己から決して目をそらさない”という深層の態度こそがレオス・カラックスのアイデンティティなのだと痛感する。 「僕らがホームレスの人から目をそらそうとするのはなぜかわかるかい? それが未来の自分の姿かもしれないからだよ」 『ポンヌフの恋人』にはジュリエット・ビノシュがルーヴル美術館に忍び込み、レンブラントの自画像を深夜ひとりで鑑賞する場面があった。 自画像を思わせる作品は古今東西、たくさん存在する。『IT'S NOT ME イッツ・ノット・ミー』もまたそうだろう。だが、カラックスは自画像というものに深く永く向き合ってきた末に、彼だけの自画像を創り上げた。 どのように見られるかを強く意識しながらも、自画像を“最初に見ている”のは作家自身なのだという真実を知覚させるサウンドとイメージのタペストリー。つまり、晒すのではなく、目をそらさない。どこまでも主体的。 ゴダールなら、決定的な文言を呟きながら、画を歌舞いて見せるだろう。なぜなら観客がそれを期待していることを知っているからだ。カラックスは、脆く淡いうつろいの中で、誰よりも速く“自分を見る”ことに到達する。 だから、わたしたちは、カラックスを追いかける。