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文学、ジャズ…知的映画セレクション
高崎 俊夫
フリー編集者、映画評論家
生誕120年 映画監督 中川信夫
25/5/13(火)~25/7/6(日)
国立映画アーカイブ
おそらくこれまでで最大規模の中川信夫特集である。中川信夫は、生涯に100本近い劇映画を撮ったが、今回、その厖大なフィルモグラフィのうち、マキノ映画で助監督を務めた現存する唯一の作品『懷古二十五年 草に祈る』(1930年、三上良二監督)から、遺作『怪異談 生きてゐる小平次』(82年)まで、テレビ作品を含めて59本が上映される。これはまさに画期的なイベントといってよいだろう。 中川信夫といえば、すぐさま日本の怪奇映画史上に燦然と輝く金字塔『東海道四谷怪談』(59)に代表される怪談映画の巨匠というイメージが思い浮かぶ。しかし、それはかつて1960年代に草月ホールで『東海道四谷怪談』が上映され、佐藤重臣や種村季弘が異端の美学として絶賛、称揚した結果、定着した評価にほかならない。だが、中川信夫は、本来、あらゆるジャンルを無手勝流に踏破し、娯楽映画の骨法を全身で体得した、多面的な貌を持つプログラム・ピクチュアの職人監督ではないかと思われる。 たとえば、戦前の『エノケンの頑張り戦術』(39年)は、エノケンの体技、抜群の運動神経を活かしたスラップスティック喜劇の傑作だった。 かと思えば、『虞美人草』(41年)は夏目漱石の原作をベースに、白熱したディスカッションドラマに転換させ、五人の高等遊民の間で生じる微妙な不協和音を見事に抽出している。とりわけ氷のように冷たい霧立のぼるの怜悧な美貌には圧倒される。 戦後も『草を刈る娘』(53年)、『石中先生行状記 青春無銭旅行』(54年)では、石坂洋次郎の原作の発散する、初々しくもおおらかで猥雑なユーモアがあざやかにとらえられていた。 いっぽうで、のちに『東海道四谷怪談』のお岩に扮する若杉嘉津子が主演した『毒婦高橋お伝』(58年)は、巷間、ゆきわたったセンセーショナルな稀代の悪女像とはかけ離れた、実在の高橋お伝の複雑な内面に迫る。若杉嘉津子は、時おり、ぞっとするほど美しい表情をみせるが、その数奇な運命に殉じていく哀切きわまりないヒロインは忘れがたい印象を残す。彼女の文字通り代表作であろう。『虞美人草』でもそうだったが、中川信夫の映画では、たびたび、劇中、人力車が登場し、その疾走する車輪の〈円環〉のイメージが繰り返し現れ、脳裏にこびりついてしまう。高橋お伝が乗った人力車も、避けがたい悲劇へと向かってゆく独特の無常観を表出させてやまないのである。 今回の特集は、怪奇映画の巨匠という既存のイメージを塗り替え、中川信夫というあまりに多彩な才能をもった映画監督の魅力を再発見する絶好の機会である。
25/4/30(水)