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【ネタバレあり】『スター・ウォーズ』続3部作とは何だったのか 小野寺系が“失敗の理由”を解説

リアルサウンド

19/12/27(金) 8:00

 2015年から、スピンオフを間にはさみながら、2年ごとのペースで製作・公開されてきた、『スター・ウォーズ』エピソード7、8、9。すなわち「続三部作(シークエル・トリロジー)」は、この度公開された9作目『スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け』で完結を迎えた。同時にそれは、シリーズの創造者ジョージ・ルーカスが構想していた、9本で構成される壮大なサーガ……宇宙のはるか彼方の銀河で起こる戦いの歴史と、スカイウォーカー一族の運命を描いた神話のような伝説を記す“カノン(正典)”といえる物語が、これで完成したということになる。

参考:J・J・エイブラムスの哀しき独り相撲 『スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け』への同情

 とはいえ、1~6までのシリーズの中心的存在だったルーカスは、自身が保有していた作品の権利を製作会社ごとディズニーに譲り、新しい構想を提案するもディズニー側に却下されているので、この「続3部作」は、ほぼルーカスの手から離れたシリーズだということを留意する必要がある。

 この買収劇によって、“続3部作”は、ウォルト・ディズニー・カンパニー会長ロバート・アイガーCEO、ウォルト・ディズニー・スタジオのアラン・ホルン会長ら、ディズニー上層部に委ねられることになった。そして、その下にルーカスフィルム代表キャスリーン・ケネディ、さらにJ・J・エイブラムス監督、ライアン・ジョンソン監督にくわえ、ローレンス・カスダン、マイケル・アーント、クリス・テリオなどの脚本家たちが力を出し合って、その骨格が作られている。

 公開に合わせて、「エピソード7」、「エピソード8」と評論してきた私自身も、この「続3部作」とは数年間の付き合いとなった。本トリロジーが完結するまでは、「続3部作」それぞれのエピソードの最終的な結論を出すのは保留していたところがあった。だが、いまや全貌がついに明らかになったことで、その評価をためらわずに表明できる。ここでは、今回の『スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け』への評価はもちろん、スピンオフを除く『スター・ウォーズ』シリーズ全てを俯瞰しながら、「続3部作」は何だったのかを率直に語っていきたい。

■「続3部作」は失敗だった

 結論から先に言ってしまうと、残念ながら今回の続3部作という試み、それぞれが『スター・ウォーズ』のシリーズとして、「失敗」と判断するほかない、散々な出来としかいえないものになったと感じている。ちなみに、もともと『スター・ウォーズ』のファンである私は、エピソード1~6全てを高く評価し、どの作品も折を見て繰り返し鑑賞している。

 もともと、ディズニーによるルーカスフィルム買収と、『スター・ウォーズ』シリーズの続編製作決定の報を聞いたときから、“いやな予感”がしていた。2019年に新たにオープンした、シリーズを題材としたディズニーの新たなテーマワールド「スター・ウォーズ:ギャラクシーズ・エッジ」建設との連動をあわせて考えると、結局のところ娯楽施設やグッズによる莫大な収益こそが目当てで、映画はビジネスを盛り上げる起爆剤としての役割を果たすための“コンテンツ”のひとつに成り下がるのではないか、そしてディズニー・リゾートのアトラクション「スター・ツアーズ」のような内容の作品を劇場でかける気なのではないかという不安があったのだ。

 果たして、この懸念は的中も的中、“大的中”していた。『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』(エピソード7)は、まさに「スター・ツアーズ」を彷彿とさせる、旧3部作を追体験するような郷愁漂う映画になっていたのだ。この作品で唯一、新しかったのは、主人公が女性となるなど、キャストに多様性をとり入れたことくらいであろう。

 事態を複雑にしたのは、一部のファンが、この内容を支持してしまったことだった。これらファンたちは、ルーカスが監督した新3部作の内容に不満を持っていて、作品のテイストを旧3部作のようなものに戻してほしいと願っていたのだ。

■創造性に欠けた「エピソード7」

 エピソード7の企画が発表された後、“4 Rules to Make Star Wars Great Again(『スター・ウォーズ』を再び偉大にする4つのルール)”という、ドナルド・トランプ掲げる選挙のコピーのような題名のファン動画がネット上で拡散され、これからエピソード7を監督するエイブラムス監督に説教じみたメッセージを送るという事柄が起きた。

 その内容は、タイトル同様、非常に保守的なもので、“そもそも『スター・ウォーズ』(SW)とは、「舞台は未開の地」でなければならず、「デザインは古びている」ことが必要で、「“フォース”はミステリアス」なものとして描くべきで、「かわいいキャラクターなどいらない」のだ“と、エイブラムスに呼びかけている。それはルーカスの新3部作へのあてつけともいえる内容にもなっている。信じがたいことに、これらのファンの意見に対して、エイブラムス監督は好意的なメッセージを発し、ファンの想いは届いているということを強調した。そして完成したエピソード7は、最後のルールを除き、それらを達成するものとなってたのだ。そうなったのには、エイブラムス自体が「旧3部作」のファンボーイであったことも大きく関係しているだろう。

 だが、これらのルールが、本当に“SWの最も大事な部分”だったのだろうか。少なくとも私には、このような要素はあくまで枝葉末節な考えでしかないように思える。

 SWのディティールは、たしかに大きな魅力だが、その舞台やデザインは、「何を描くか」、「何を伝えたいか」に応じて設定されるべきものだ。ルーカスが新3部作でプロダクト・デザイナーのダグ・チャンに伝えたのは、銀河が殺伐とした戦争へと傾いていく以前の“優美さ”であった。物語を進めるなかで次第に旧3部作の無骨なデザインに近づかせることで、時代の変遷を表現していたのだ。一部のファンは、殺伐とした世界観こそが『スター・ウォーズ』だと言うが、銀河の歴史には平和で豊かな時代もあり、それが壊されていくという、現実の戦争のはじまりを表現した「新3部作」には、デザインを含めて深い意義が存在する。

 ファンの多くは、もうすでに出来上がっているものに対して、好きか嫌いかを表明することで、製作者に想いをぶつける。そこには、本来製作者が作り出すべき、全く新しい創造的要素が含まれていることは稀である。プロの作り手はファンの意見そのものには耳を貸さず、想いだけを受け取って、新たな創造に取りかかることが必要だ。そうでなければ、続編映画はただのファンムービーに駄してしまう。そして残念ながら、それこそがエイブラムス監督の手がけたSWであった。

 ジョージ・ルーカスは、エピソード7を鑑賞して驚愕していたという。かつてのエピソード4をそのままトレースしたような作品だったからだ。そして、往年のファンへの“目配せ”のオンパレード。これが、現代の映画か? 自分のアイディアを蹴ってまで作りたかった映画がこれか?……という思いに、ルーカスはとらわれたに違いない。

 エピソード7が、4を受け継ぐ作品だとして納得しようとしても、私がここに強烈な違和感を覚えるのは、このようなトレースが、あまりに表面的なものに過ぎないと思えるからである。

 例えば、エピソード1を思い出してもらいたい。最大の見せ場「ポッドレース」は、エピソード4のクライマックスである、デススター上での戦闘を彷彿とさせ、両者に存在する興奮の種類が近しいものであるように感じさせるところがある。その理由は、ルーカスが高校時代にカーレースに熱中していたと聞けば氷解するだろう。エピソード1を観ることで、エピソード4の本質的な面白さが、レースに起因していたことが理解できるのである。

 その意味においては、見た目は異なるものの、むしろエピソード4の魂を受け継いでいるのは、エピソード1の方なのではないのかと思える。エピソード4における、Xウイングやタイファイター、デススターがスクリーンで輝いていたのは、カーレースに熱中した時代のアツい想いが乗っているからなのだ。似ているメカを出せば、同じ興奮が訪れるということではない。

■“反逆”することしかできなかった「エピソード8」

 「新3部作」に対しては、人によってまちまちな意見を持っているだろう。だが、確実に言えることは、「旧」も「新」も、時代の最先端をいき、映画の表現を変革したということだ。とくに「新」は、いまでは多くの超大作映画がとり入れている、“グリーンバック”を全面的に利用した、3DCGアニメーションと実写を本格的にミックスした映画製作の先駆的存在になった。ルーカスは「旧」から「新」までに、16年間ファンを待たせ続けた。それは、表現したい内容にCG技術が追いついてきたという部分が大きい。

 対して、エイブラムス監督によるエピソード7は、最新どころか、オールドファンのために、あえて古くさいデザインを積極的に採用し、フィルム撮影を重視するなど、往年の郷愁漂うテイストに満ちた作品となっている。このような内容で、新しいファンが多く生まれるだろうか。これでは、いままでSWに触れたことのない観客は、自分とは関係ない文化だと感じるのではないのか。このような基本線をなぞった「続3部作」は、はっきりと前線から下がったことを感じさせるシリーズになってしまった印象がある。

 続く、ライアン・ジョンソン監督・脚本による『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』(エピソード8)は、そんな保守的なエピソード7への反動を強く感じる作品となった。いままでのシリーズの、あえて逆をいくような展開を連続させ、観客のド肝を抜こうとする。ルーカスがこの作品を観て賞賛したのは、“新しいものを作ろう”という気概にあふれていたからだろう。

 ただし、この作品にも致命的な考え違いがあるように思う。エピソード8は、意外な展開を作りすぎたために余分な描写が多く、SW史上最も長い上映時間にも関わらず、ほとんど中身がなかった。そんななかで示すことができたのは、「過去にとらわれないこと」、「フォースはみんなのもの」というテーマくらいであろう。

 なぜ、そうなったのだろうか。結局、エイブラムスもジョンソンも、“SWらしさ”に「従う」、「反逆する」という違いはあれど、どちらも“SWらしさ”にこだわっているという点では共通している。これは、「続3部作」の重要キャラクター、カイロ・レンがダース・ベイダーに似せて作ったヘルメットを被ったり、壊したり、また修復したりという描写にも表れている。「続3部作」で描かれ続けたのは、結局のところ「“SWらしさ”とは何か」というテーマであり、それにまつわるものを描くことに終始しているのである。

 そんな話はSWファンの間でそれぞれに議論すればいいだけのことだ。しかし、彼らが手がけたのは、SWの本編なのである。サーガ自体がサーガらしさについて語り出す……そんな本末転倒な話はない。このような小さなスケールでSWをとらえていた時点で、ふたりの監督たちは、そもそもSWのシリーズを撮る資格はなかった。そして、そうなった原因には、“SWらしさ”を求めたディズニー上層部やプロデューサーたちの意向もあったのだろう。それは、いままで降板させられた監督たちが何人もいるという事実を見ても分かる。辞めさせられた監督に問題があるのでなく、表面的な“SWらしさ”にこだわる、狭いヴィジョンしか持っていない製作陣に問題の根がある。

 メタフィジックな視点でSW現象をとらえ、そこに自分なりの理解や解釈をくわえていくというアプローチ……。このような手法は、続編やリブート作が続く現在のハリウッド映画では、むしろスタンダードになってきているのかもしれない。しかし「続3部作」は、ふたつのトリロジーと並ぶ存在である。せせこましい自意識を捨て、もっと腰のすわった強靭な物語とテーマが必要になるはずなのだ。

 「続3部作」が、ルーカスを締め出した時点で必要だったのは、映画の脚本執筆に長けたローレンス・カスダンの能力とはまた異なる、新たなファンタジーを創造することのできる存在だったはずだ。新たな物語を紡ぎ、意味のある重厚なテーマを描き出す“作家”の才能を持った、例えば『ゲーム・オブ・スローンズ』の原作者ジョージ・R・R・マーティンくらいの力を持った人材が加わらなければ、これまでの作品と肩を並べることはできなかったのではないか。それほど、ジョージ・ルーカスは非凡な能力を持った映像作家なのだ。SWは、西部劇のような冒険娯楽作品でもあるが、ファンタジーであり戦記ものでもある。そして、ギリシャ悲劇のような面をも見せる。その奥行きを軽視した製作陣は、あまりに浅はかだ。

■リスペクトすら失った「エピソード9」の惨状

 さて、本作『スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け』(エピソード9)がどうだったのかというと、やはりエピソード7同様、既視感ばかりを覚える描写のオンパレードである。ミレニアム・ファルコンに乗るランド・カルリジアン、銀河皇帝とふたりのジェダイの戦い……。これらはエピソード6そのままの要素だ。

 しかし、さすがに製作陣も、「全く同じじゃないか」と言われないよう、エピソード6よりもスケールアップさせたセットを用意したり、エピソード3を彷彿とさせるセイバーアクションを描くなど、苦労があちこちで垣間見える。“「同じだ」と言われないような範囲で、同じものを作る”。この、冗談みたいな矛盾した要素を、一作で実現させるのは困難なことであっただろう。だが結果としては、やはり「同じじゃないか」と言いたくなるような内容になってしまっている。

 問題は、製作陣が“パワーアップ”だと思っている箇所にこそある。銀河皇帝の玉座や、空を埋め尽くす艦隊は、あまりにも抽象的なイメージでしかなく、誰もが想像する“悪の軍”そのものの姿だ。いままでルーカスが表現していたような、具体的にそこでキャラクターたちが生きることができるようなイメージが、ここでは全く喚起されてこない。つまり用意されているのは、ただの舞台の“書き割り”でしかないのだ。

 エピソード4が公開されたことで、当時の日本でも、コアなファンたちは、本気になってデススターのサイズについて白熱した議論を交わすなど、フィクションの世界にのめり込んだ。なぜなら設定の面白さ、奥深さが、他のSF作品を大きく凌駕していたからである。豊かな創造力と、異常ともいえるこだわりによって観客を魅了してきたのが、SWシリーズである。その奥行きを、「続3部作」にはあまり感じることができないのだ。これは、監督の設定に対する興味の有無はもちろん、製作の準備期間の少なさも関係しているのだろう。

 エピソード9がさらにひどいと感じるのは、戦いの結末部分だ。レイが皇帝のパワーに耐えきれず倒れ、最大のピンチに陥ったとき、助けようとするのは歴代のジェダイたちの声だった。そう、エピソード4で、死んだはずのオビ=ワン・ケノービの声が、ルークに助言を与え勇気づけたようにである。そして、みんなのパワーで悪のパワーに打ち勝つのだ。だが、そこまでやってしまうと、日本の少年マンガやアニメ作品の一部によくある、工夫のない大味な展開そのものに見えてしまう。死を乗り越えて復活してしまった皇帝を打ち倒すとしたら、それはジェダイたちの霊が集結するしかない、そう考えたのだろう。しかし、まさかSWサーガの決着が、そんな風についてしまうとは……。

 そもそもエピソード6で、シスの力を打ち倒すことができたのは、歴代のジェダイの力などではなかった。ルークが家族の情によってダース・ベイダーの心を変えたためである。「新3部作」では、悪の心につけこまれないために、ジェダイ評議会は、親や恋人への情や執着を捨て去ることを、アナキン・スカイウォーカーに命じていた。アナキンはそれに反発することで、ダークサイドへと接近していくことになるのだ。しかしアナキンはエピソード6において、自分をダークサイドに導いたはずの情によって、ふたたび正義の側へと帰ってくる。人間の感情を持ちながら正しいことをなすという新しい価値観。この“宗教改革”ともいえるめざめこそが、シスを乗り越え、ジェダイすらも乗り越え、ライトサイドとダークサイドに分かれていた“フォース”にバランスをもたらすことになったのだ。

 だが、本作でシスにトドメをさすのは、その多くがライトサイドにあったジェダイたちの力である。これは、どういうことなのか? そもそも、エピソード9では、銀河皇帝の復活がまず示される。ジェダイすらも乗り越えたアナキンは、結局シスを滅ぼすことができなかったということだ。そしてクライマックスでは、ジェダイの力を合わせたものがシスを滅ぼしてしまう。そこにアナキンの力も加わっているのは確かだが、最終的にジェダイの力の一部としてしか扱われないのでは、「新3部作」で醸成された、深みのあるロジックが台無しになっているように感じてしまう。おまけに、霊体になれる方法を知っているのは、ごく一部のジェダイだという設定も破壊された。

 アナキンは銀河を救う救世主ではなかったのか? 「フォースのバランス」という概念はまやかしだったのか? エイブラムス監督は、「新3部作」を軽視するあまり、いままでの物語が表現する思想を無視してしまったのではないのか。そんな作品に、過去へのリスペクトや、“SWらしさ”があるというのか。

 そしてエピローグでは、過去のライトセーバーを、エピソード4の出発点に埋める様子が描かれる。掘り起こした「旧3部作」の伝説を、また埋め直すという、「続3部作」自体を象徴する場面だ。そして、これから新しいSWが始まっていくことを暗示するように、新しいライトセーバーが登場する。

 そこで考えさせられるのは、結局“「続3部作」とは何だったのか……”ということだ。いままで6作をかけて描かれた、帝国の勃興と反乱軍の戦い。その一部を、またファンのためにやり直してみせただけではないのか。しかも、ルーカスよりも拙く、さらにその思想を無視して、新たな創造をほとんど行わないというかたちで。おまけに、エピソード6で大団円を迎えたはずのキャラクターを何人も死なせてしまってまでである。「旧3部作」の後味を変化させられた往年のファンたちは怒らないのだろうか。

■それでも“新たなる希望”はある

 ジョージ・ルーカスは、ディズニーに却下された、幻となった「続3部作」の構想を語っている。その内容は、「新3部作」で登場し、「フォースの神秘性が損なわれた」とファンに批判された、万物に流れるという、フォースの源たる“ミディ=クロリアン”という物質がふたたび取り沙汰され、ミクロの世界と宇宙を支配するフォースの法則を描いていくといったものだったらしい。それは、これまで以上にフォースの謎の根源へと迫る画期的なシリーズになったはずである。これこそ“創造性”、これこそが“ヴィジョン”である。

 もちろん、このような内容では、「旧3部作」の熱烈なファンは嫌うだろうし、「新3部作」のファンですら、そっぽを向くかもしれない。だが、いつでも新しいものに挑戦し、道を切り拓いていくことこそが真の“SWらしさ”だったはずではないだろうか。SW第1作であるエピソード4は、誰にも期待されず、いちから生み出されたものだったのだから。

 幸運なことに、世の中にはSWシリーズ以外の映画作品が絶えず作られ続けている。SWを生み出したルーカスや若いスタッフらと同じく、クリエイターたちが、“新しい作品”を作るために情熱を傾けている。

 「シリーズを壊した」と、多くのSWファンから怨嗟の声を浴び続けているライアン・ジョンソン監督は、新作『ナイブズ・アウト/名探偵と刃の館の秘密』が高い評価を受けているし、本当の意味でSWの思想を傷つけてしまったJ・J・エイブラムス監督も、SW以外の作品で、優れた才能を発揮してきた監督である。彼らにとっての真のSWは、「SWサーガ」ではない。

 そして映画だけにとどまらず、SWのようなクリエイティブな魂を持った、文学、舞台、音楽、ファッション、漫画などが、世界にはたくさん散らばっているはずなのだ。そういう作品を見つけ出すことができれば、それが本当の意味での新しいSWといえるのではないだろうか。

 そう、“フォース”のように、SWは至るところに遍在する。われわれ一人ひとりのなかにも、そのかけらは存在し、未来へと受け継がれていくはずなのだ。……そう考えるしかない。(小野寺系)

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