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『響け!ユーフォニアム』中川夏紀はなぜ部活を辞めなかったのか? “凡人”の深い悩み

リアルサウンド

21/3/4(木) 9:00

 高校や中学の部活動を引退した後の期間は、何とも言えない奇妙な時間が流れる。練習に行かなくていい解放感と奇妙な喪失感がないまぜになった奇妙な時間。

 部活はしんどい。しんどいが、それをやっていることは学生生活の中で大きな位置を占め、アイデンティティにもなる。「~部所属」というのは学生にとっての肩書だ。部活の引退は肩書を失い、「ただの人」になるということなのだろう。

 武田綾乃の長編小説『響け!ユーフォニアム(以下ユーフォ)』シリーズの最新作、『飛び立つ君の背を見上げる(以下飛び立つ)』は、そんな引退後に「ただの人」になり、自分は何者なのかを見つめなおす物語だ。主人公は、本編の主人公、黄前久美子の1学年上で、副部長を務めた中川夏紀だ。

 本作をシリーズ中の時間軸に当てはめると、久美子の2年時を描いた『波乱の第二楽章』と3年時の『決意の最終楽章』の間に挟まるエピソードとなる。また、スピンオフ集『北宇治高校吹奏楽部のホントの話』に収録された、夏紀たちの学年の卒業式を描いた同名タイトルの短編の前日譚とも言える内容になっている。

波乱の吹奏楽部を象徴する夏紀

 『ユーフォ』シリーズは、怠惰な吹奏楽部が新任顧問により改革され、強豪校へと変化していく過程を描いた作品だ。夏紀はそんな吹奏楽部の変化を象徴するキャラクターと言える。当初、夏紀は部の雰囲気同様にやる気がなく、いつも窓の外を見ていた。そんな彼女がまじめに練習に打ち込むようになり、3年時には副部長となり、部長の優子を支える立場となる。

 夏紀は同学年の主要キャラクターの中でも特異なポジションにいる。吉川優子、傘木希美、鎧塚みぞれは中学時代から吹奏楽部だったが、夏紀だけは高校で初めて吹奏楽に触れた「初心者」だった。やる気のない上に初心者な夏紀はなぜ居続けたのか。なぜやる気を出したのか、そして、同学年が一年時に大量の退部者を出したときにもなぜ一緒になって辞めなかったのか、その理由が本作で明かされる。

 それは、彼女は何となく流される性質で、ただ無関心だっただけだと夏紀は言う。人並みに特別な存在になりたいと願いながら、自分はどこまで行っても凡人であることもわかってしまっている。高校生ながら、妙に達観している彼女は少し大人びて見られる部分があるが、それが後輩からは頼もしく見える時がある。夏紀はそんな周囲の評価と自己認識のギャップを感じている。引退後の奇妙な空白期間に、夏紀の胸に去来するのは「自分は一体なんなのか」という問いだった。

代替品がそこら中にあふれてる

 夏紀は凡人だ。同学年のみぞれのように音楽の才能があるわけではない。希美のように人望があるわけでもない。特別な存在になりたいと願っているけど人一倍の熱意を持っているわけでもない。

 夏紀はギター奏者であることが本作で明かされる。ギターは中学時代から続ける趣味だ。プロになろうとも、なれるとも思っていない。ギターは好き、だけどそれだけ。それはとてもありふれたことだ。彼女は常に特別な才を持った人と自分を比べていた。後輩のコントラバス担当の川島緑輝(さふぁいあ)に、夏紀はゾッとさせられたことがあることが描かれる。コントラバスは吹奏楽の中では珍しい弦楽器だ。緑輝は演奏会でギターを演奏したことがある。コントラバスと同じ弦楽器だからよくやらされるのだと緑輝はこともなげに言うのだが、その腕前は夏紀がゾッとするほど巧かったのだ。自分はギターでも全く特別になれないことを夏紀は痛感しただろう。

 なぜ、音楽をやるのか。才能がある人間なら、その才能を生かすためと答えるだろう。情熱がある人間なら、好きだからと答えるだろう。だが、どちらは中途半端な夏紀のような人間はなんと答えたらいいだろう。

 容易に答えが出せないからこそ、凡人だからこそ、その悩みは深くなる。「自分が凡人だということに、夏紀はうすうす気づいている。天才にもなれず、変人にもなりきれず、特別に憧れを抱きながらも普通の生き方を選んでしまう(p.188)」のだ。

 夏紀には中学時代から好きなバンドがある。そのバンドのデビュー曲の一節「代替品がそこら中にあふれているのに、自分を大事にする意味ってなんだよ(p.148)」は夏紀の悩みを象徴するフレーズだ。

 特別な人が周囲にいるからこそ、夏紀は一層自分を凡人だと思わざるをえなくなる。例えば、鎧塚みぞれのような音楽の才能にあふれたものが同学年にいる。武田綾乃は、夏紀とみぞれを比較してこんな風に描写する

「もしも自分の背中から翼が生えたって、夏紀はきっと空を飛べない。屋上の柵にもたれかかって、脚を伸ばして、それで終わりだ。だが、みぞれは違うのだろう。彼女はためらいなく空へと飛びこむ(p.188)」

 だから、夏紀は「飛び立つ君の背を見上げる」ことしかできない。

ただ1人のための特別な存在になれるなら

 夏紀は、繰り返し「いい人」と周りから評される。「いい人」とこのシリーズで聞くと身構えてしまう。なぜなら、「優しいなんて、他にとりえのない人に対して言うセリフ」という、多くの人の心をえぐるフレーズが登場したこともあるからだ。「いい人」も同じようなものだろう。「いい人」という高評価は夏紀の凡人であることに裏付けになってしまっている。「いい人」なんて代替品がそこら中にあふれている。でも、夏紀はそんなことにいら立つほどに子どもでもなければ、情熱があるわけでもないのだ。

 しかし、ただ1人、夏紀に対して「そもそもアンタ、そこまでいいヤツか?(p.287)」と言い放つキャラクターがいる。吉川優子だ。『飛び立つ』は、夏紀と優子が仲間内の卒業パーティでツインギターでコンビを組むエピソードが中心となっている。優子は夏紀に対してこう言う。

「いくらでも代わりがいるなかで、うちはアンタを選んでこうやって一緒にいるわけ。代わりがいないからじゃなくて、代わりがいくらあってもアンタを選ぶ(p.289)」

 特別な人間になれなかったとしても、だれか1人にとってのかけがえのない存在にはなれる。夏紀はこう言われた時、ようやく肯定できる自分を見つけたのだ。自分は凡人で、飛び立つ特別な人々の背を見上げるしかなくても、だれかにとっての特別でいられるなら、心から笑顔で見送ることができる。表紙の夏紀の笑顔は、そんな晴れやかさに満ちた笑顔だ。

■杉本穂高
神奈川県厚木市のミニシアター「アミューあつぎ映画.comシネマ」の元支配人。ブログ:「Film Goes With Net」書いてます。他ハフィントン・ポストなどでも映画評を執筆中。

■書籍情報
『飛び立つ君の背を見上げる』(響け!ユーフォニアムシリーズ)
著者:武田綾乃
出版社:宝島社
価格:本体1,500円+税

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