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中森明菜はなぜ「かけがえのない存在」であり続けるのか 小倉ヲージ氏の証言とともにライブ映像を振り返る

リアルサウンド

20/6/11(木) 12:00

 歌姫・中森明菜がワーナー在籍時におこなったライブのフル映像が無料配信され、話題を集めている。ワーナーミュージック・ジャパンのYouTubeチャンネルで公開されているのが、『Live in ’87 – A HUNDRED days』、『~夢~’91 AKINA NAKAMORI Special Live』、『中森明菜イースト・ライヴ インデックス23』、『ビター&スウィート(1985サマー・ツアー)』の計4本だ。

 これらの映像を観てふと思ったことがある。それは、中森をよく知らない若い世代にライブ映像を鑑賞してもらい、「彼女はアイドルなんだよ」と言ったら何人がそれを信じるか、ということだ。『ビター&スウィート(1985サマー・ツアー)』のとき、中森はまだ二十歳。しかしその振る舞いはすでに貫禄十分。そして何より、圧倒的なその歌声。この映像を今観ると、おおよそのアイドル像とはかけ離れているように感じる。

 中森明菜はなぜ40年近くにわたって人々を魅力し続けているのか。中森明菜を知らない世代は、彼女のどんなところを見れば良いか。さまざまな資料や証言も交えて考察していく。

(関連:楽曲に漂う影は中森明菜自身か?

アイドルでありながら〈私は泣いたことがない〉と歌う

 はじめに、中森のプロフィールを振り返ろう。1965年生まれの彼女は、オーディション番組『スター誕生!』(日本テレビ系)の本選に3度挑戦したのち、デビューの切符をつかむ(ちなみに本選最高の392点を叩き出す)。1982年、シングル『スローモーション』でデビューし、以降は「少女A」「セカンド・ラブ」「DESIRE -情熱-」などヒット曲を連発。一方、1989年には恋人・近藤真彦が住むマンションで自殺未遂。日本中に衝撃が走った。日本の歌謡界屈指の歌姫でありながら、どこか危うさがあり、波乱万丈な面もあった。そのほか女優としても活躍し、映画『愛・旅立ち』(1985年)、ドラマ『素顔のままで』(1992年/フジテレビ系)などに出演している。

 近年は、アルバムリリースなどはあるもののメディア出演は控えていることから、生きる伝説化しつつある。「名前は聞いたことがあるけど、歌っているところは知らない」という10代、20代は多いはず。

 まず「中森明菜はアイドルだった」という驚きについて語ってみたい。書籍『中森明菜 心の履歴書ーー不器用だから、いつもひとりぼっち』(1994年)では、中森は「かわいいだけのアイドルたちと違い、悲しい目を持ったこの少女は、異色で、他者とは圧倒的に違う存在感を放っていた」と評されている。

 同期のアイドルには小泉今日子、石川秀美、早見優、堀ちえみらスターが揃っており、「花の82年組」と呼ばれた。しかし、「大人びた雰囲気でスローな曲をうたう明菜はすでに異彩を放っていた。まわりのペースに浮き足だたず、最初から独自の路線をしっかり歩き出したことは、その後の大ヒットを見れば結果的に正解だったと言える」(『中森明菜 心の履歴書ーー不器用だから、いつもひとりぼっち』)と明らかに一線を画していたという。

 現在のアイドルに置き換えて考えてみたい。たとえば「涙」をテーマにした曲を今のアイドルが歌うなら、曲内容は「流した涙の分だけ強くなる」みたいなものが大半だ。松浦亜弥のヒット曲「LOVE涙色」(2001年)であれば、〈泣いても泣いても止まらない〉と泣きじゃくっている。でも、そのか弱さがいかにもアイドルっぽい。アイドルは涙を流してナンボ。その涙がメッセージ性を帯びて、ファンもグッとくる。

 ところが中森明菜は、1984年にリリースした「飾りじゃないのよ涙は」(井上陽水作詞作曲)で、いきなり〈私は泣いたことがない〉と歌い出すのだ。「人生何周目ですか?」と尋ねたくなるような強烈な一節。さらに同曲は〈私泣いたりするのは違うと感じてた〉と重ねていく。アイドルソングとして聴くとかなり面食らう。

 もちろん、ライブや言動を見ると中森がとても感情豊かな人であることは分かる。時にはステージでも感極まって涙も浮かべる。それでも、彼女は若くして妙な落ち着きを漂わせていた。いろんな物事を悟っているかのような、深い落ち着きだ。それが「大人びた雰囲気」につながっているのだろう。

ほかのアイドルが持ち合わせない唯一無二性

 書籍『中森明菜 歌謡曲の終幕』(1996年)で著者の平岡正明は、中森について「中森明菜ほどリアリストの少女歌手なんて見たこともきいたこともない」「夢がない。甘えがない。神秘がない。メルヘンがない。テーマがない。この年齢の少女によく見られる砂糖菓子のようなミスティフィケーションがこれっぽっちもなくて、この娘は夜は屑鉄のように眠って夢も見ないのではないかと思うほどだ」と持ち味を並び立てている。

 中森自身、常に現実を噛み締めながら活動していた。デビュー間もない時期に出版した自著『本気だよ 菜の詩・17歳』(1983年)で、自分が人々の記憶から忘れ去られることをいつも考えていることを明かしている。

「もし人気がまったくなくなっちゃったときに、まだ未練たっぷりでいたらショックでしょう。だからもう明日にでもダメになるんじゃないかナ、っていつも考えるようにしてるんです。そうすれば、人気が落ちたんだっていう事実を冷静に受けとめられると思うんですね」(『本気だよ 菜の詩・17歳』)

 一方で「自分をけなしていないと怖くてしかたがないんですよ。あとで落とし穴が待っているような気がしてね」(『本気だよ 菜の詩・17歳』)と、冷静さのなかに弱さと不安もひそんでいた。

 アイドル特有のキラキラした無邪気さは確かに薄いかもしれない。でもその分、ほかのアイドルが持ち合わせていない現実的なまなざし、そこから生まれる唯一無二性がほとばしっていた。

中森明菜は音楽の人

 中森の魅力を挙げる上で欠かせないのが、その歌声だ。「ふつうの女が酒とタバコと男の苦労をつんだあと十年ほどして身につけるほどの、肉の重さを感じさせる瞬間がある」(『中森明菜 歌謡曲の終幕』)と言われているが、やわらかめなハスキーボイス、伸びの良い低音、とても繊細な高音、そして何より大人の歌手にしか醸し出せないはずの味わいがある。どんな心情の曲であっても、その声で歌うと説得力が出る。

 1989年のライブ『中森明菜イースト・ライヴ インデックス23』の「難破船」を観ると、ボソボソっと静かに歌っているように思えるのに、はっきりと歌詞が聴きとれて、芯の太さがある。今も昔も見たことがないような不思議な歌唱法と歌声だ。

 「中森明菜さんの歌い方は誰も真似ができない」と話すのは、アイドルグループ・代代代のプロデューサーで、1980年代アイドルのカバーコンピ『Electro Eats Idol-80’s Cover-』では「DESIRE -情熱-」の編曲も担当した音楽家・小倉ヲージ氏だ。

 小倉氏は、中森の歌声について「ウィスパーボイスでもないし、お腹から声が出ているようにも、出ていないようにも見える。しかし音源やライブでははっきりと歌が聴き取れる。あんな歌唱法は見たことがないです」と驚く。

 さらに小倉氏は、1980年代のアイドル曲全般に当てはまる特徴が、その歌声をより際立たせていると指摘する。現在に比べると、当時は楽器類、サウンドの多彩さは乏しかった。音の数や情報量も、もちろん今よりも少ない。でも、だからこそ彼女の歌声はより映えた。

「曲を聴いていて感じたのが、明菜さんの声が最高の楽器になっているということ。近年にリリースされたアルバム曲を聴いても、やはり音数が少ない。もはや明菜さんが狙ってそのように作っている気がします。音楽を作っている人間は音数を減らしていく習性がどこかにある。明菜さん自身、行き着いた音楽性がそこにあるのではないでしょうか。そういう意味では、明菜さんはまさに音楽の人。曲をいっぱい作って音楽の人になった方はたくさんいますが、明菜さんのように声で音楽の人になれた方はなかなかいません」と小倉氏は歌声を絶賛する。

 また小倉氏は、中森が持つ音楽的な資質について「たとえば『少女A』は、びっくりするくらい不穏な流れがずっと続く。普通はアイドルの曲でこれは作れない。となると作曲者たちは、明菜さんが歌うことをはっきり意識して作っていることが分かります。そしてそれらの曲は、明菜さんが歌ってちゃんと完成するようになっている。どんなサウンドプロデューサーと仕事をしても、明菜さんはその歌声で曲をモノにできる。曲づくりとして当たり前のことのように聞こえますが、実はこれがすごく難しいんです。そういった点でも明菜さんは音楽の人」と解説してくれた。

 そして最後に小倉氏は、「明菜さんの歌声をずっと聴いていると抜け出せなくなって、やばいやばいって感じでイヤホンを外しちゃうんです。僕は逆にずっと曲を聴いていられない。引きずられてしまう。良すぎて怖いんです」と中森の楽曲は“沼”であると語った。

楽曲に漂う影は中森明菜自身か?

 中森ほど自分のパーソナリティ、オリジナリティを音楽に表出させたアイドルはいないのではないか。中森の楽曲はどれも決して明るくはない。先ほどの小倉氏も「普通はデビュー曲で明るいものを出して、3枚目くらいでようやく一度落としたりするものだけど、明菜さんは最初から落としていて、以降もアゲる曲を出すわけでもなかった。『少女A』は当時からしたらハイテンポかもしれないけど、でもやっぱりどこか影がある。歌は人の歴史が乗るもの。それが積み重なって声になる。楽曲に漂う影や哀愁は、いずれも明菜さん自身なのではないでしょうか」と話す。

 小沼純一は著書『発端は、中森明菜ーーひとつを選びつづける生き方』(2008年)で、「中森明菜は、女性の自立、突っぱる女性というテーマと重なり合ったり、微妙にかすったり、あるいは時代の、ほんのわずかの先だったり、というところを歌っていました。だから共感を得ることができた。そうしたことをうざったいと感じたり、関係ないと思ったりした人、自らの状況を『歌』に投影できない人は、ただ通り過ぎる、ちょっと重い居心地の悪い歌、だったのかもしれません」と書いている。

 だからだろうか。中森の楽曲はどれを聴いても痛くて温かいし、画面で観ていてもどこか生々しい手触りがある。ライブ『~夢~’91 AKINA NAKAMORI Special Live』で最後に演奏された曲「忘れて…」は特にその面があらわれており、彼女の痛切さに鳥肌が立つ。

 自殺未遂があり、1年の休養を経て復帰した中森。このコンサートで歌われた「忘れて…」はもともと、大切だった人とのかつての思い出を「忘れたい」と歌う曲だ。しかしコンサートでは、最後の歌詞部分が〈いろんなこと 心配かけて 心から許してほしい〉とアレンジされている。そして〈忘れたくて〉という本来の歌詞は、〈忘れないで〉に替わっている。

 前述した1983年の自著で「人々から忘れられたときショックを受けないように、明日にでもダメになると考える」と言っていた中森が、観客に「忘れないで」と切に願う姿。これが中森の実像を物語っているように感じる。

 中森明菜はいつの時代も色褪せない。そして、誰も忘れない。日本の音楽シーンにおいて間違いなく「かけがえのない存在」である。(田辺ユウキ)

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