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松岡正剛が語る、日本文化に必要な心意気と長い文章の強み 「過激な表現があってこそ、中道も見えてくる」

リアルサウンド

20/9/26(土) 10:00

 編集工学研究所所長/イシス編集学校校長として、編集技術のあらゆる可能性を追求してきた松岡正剛が、自身のライフワークでもある書評サイト「松岡正剛の千夜千冊」にて、書評を通じてコロナ禍に対する考えを述べている。2020年3月18日には『日本文化の核心 「ジャパン・スタイル」を読み解く』(講談社現代新書)を、6月12日には『千夜千冊エディション 宇宙と素粒子』(角川ソフィア文庫)を上梓するなど、著述家としてもますます精力的に活動する松岡正剛に、今の日本文化に必要な心意気、「松岡正剛の千夜千冊」が常に重厚な読み物となっている理由、同サイトでも言及したコロナ禍についての意見、そしてこれからの編集者の心構えについてまで、たっぷりと話を訊いた。(編集部)

トゥーマッチな表現を追求する力がなくなってきている

――『日本文化の核心』では、例えば第11講「かぶいて候」で「いまの日本社会にはバサラ(中世の派手な格好をした武士たち)の心意気が足りない」と提言するなど、日本文化を今後、どのように発展させていくべきかのヒントが散りばめられています。改めて本書を著した理由を教えてください。

松岡:もともと僕は『日本流 なぜカナリヤは歌を忘れたか』(2000年/朝日新聞社)や『日本という方法 おもかげ・うつろいの文化』(2006年/NHKブックス)、あるいは『日本数寄』(2007年/ちくま学芸文庫)などの本で、日本について色々と書いてきたのですが、日本の神話、天皇制、大日本帝国や満州事変など、様々な歴史を含めて日本文化を語る際の語り口があまり確立されていないと感じてきました。2000年代に入ると「クールジャパン」なんて言い方も出てきたけれど、なぜ天皇と将軍が並存していたのか、なぜ戦時の日本は満州を欲しがったのか、そのような歴史的な背景が抜け落ちた状況での和風ブームは、軽薄に思えるところがあった。

 一方、マサチューセッツ工科大学の文化人類学者イアン・コンドリーなどは、最初に日本語のラップが出てきたときは「最悪だ」と言っていたのが、だんだんと「結構おもしろいね」なんて言い始めて、外から見た日本文化の印象が変わりつつあるのも感じていました。それ以前から、日本が海外のポップミュージックを翻訳する際には独自の工夫がなされていて、例えば桑田佳祐が「海岸」を「かいぎゃん」と発音したりとか、日本語を英語のように歌うことで洋楽と融和させようとしてきました。なぜこのような工夫がされたのかというと、日本がもともと無文字社会だったことが関係していると思います。つまり、縄文・弥生時代には文字がなかったのが、中国から漢字が入ってきた際に、もともとの日本語の発音と融合させて日本語読みにしていった万葉仮名の発想に近い。そういうルーツが今なお生きているんですね。

ーー現在の日本のポップミュージックを、歴史的な背景と接続して考えることもできるわけですね。

松岡:「シャ乱Q」なんて、カタカナの「シャ」と漢字の「乱」とアルファベットの「Q」を一緒にしていて、まさに万葉仮名のような言葉の使い方です。紀貫之の『土佐日記』などは、それまで貴族は漢字を使う習わしだったのが、あえて女性のふりをして仮名で書かれています。僕らが若い頃は、イギー・ポップなんかが上半身裸でメイクをしてパフォーマンスをしていたけれど、そういう文脈とは別に、日本には独自の“ジャパンフィルター”というべき文化の解釈の仕方が、歴史的に見てもあるのではないか。今回の『日本文化の核心』では、日本の歴史や宗教観に触れながらも、例として椎名林檎など現代のポップアーティストの名前を挙げて、そのことをわかりやすく解説しようと試みています。

――本書を読んで、日本は海外の文化をそのまま取り入れるのではなく、“ジャパンフィルター”を通すことによって独自性を獲得しているのだと感じました。一方で、日本で連綿と続いてきた「バサラ」や「かぶき者」のような過激な表現は昨今、コンプライアンスを重視するあまりに生まれにくくなっていると指摘しています。

松岡:差別用語を使わない、人を叱らない、自制/自粛をしようといった風潮が高まり、過剰さが避けられるにつれて、表現が抑圧されている部分はあると思います。歌舞伎も枯山水も茶の湯も、もともとは非常に過激なことをしてきました。能や茶の湯や枯山水などは引き算が過激で、舞台の上にほとんど何もないような表現を追求していますし、逆に歌舞伎では派手な格好で大立ち回りをしたりする。和事と荒事、あるいは和魂と荒魂といった観念は日本文化にとって大事な要素ですが、昨今はあらゆるものが抑えられて、トゥーマッチな表現を追求する力がなくなってきている。悪党やかぶき者、あるいは風流(ふりゅう)と呼ばれた美意識は本来、どのようなものだったのか。それを改めて捉え直すことが、日本文化を発展させるために必要だと思います。

――僧の一休宗純が、破天荒な振る舞いの中に禅の心を覗かせようとしたことを引きながら、表現には極端さがなければ中道も見えなくなると説いているのが興味深かったです。

松岡:一休禅師は格別にユニークです。男色も女色もするし、人の奥さんと不倫はするし。だけど大徳寺の管長として君臨もするし、文化人のマネージメントもする。茶の村田珠光、能の金春禅竹、花の池坊専好などは、独特の“一休文化圏”の中で活躍しました。彼の生き方や思想は仏教にもとづいたパンクであり、詩集『狂雲集』などは現代であればラップで表現されてもいいくらい過激なものです。そういう表現があってこそ、中道も見えてくる。そのような日本文化の本質は、ポップカルチャーに携わる人々にもぜひ知ってほしいです。

――しかし、コロナ禍以降、過剰な表現への抑圧はさらに強くなっているようにも感じます。松岡さんはどう思いますか。

松岡:僕もそう思います。コロナ禍で新自由主義やグローバル資本主義の行き詰まりが、いよいよ浮き彫りになった。政権の不甲斐なさといった問題のしわ寄せが、若い人たち一人ひとりにいっている。でも、若い人たちの多くは、その中で何を振りほどいていくべきかが見えていないようにも感じます。現在の息苦しさの要因は、コロナ以前からずっとあったもので、例えば昨今の日韓関係も米軍基地の問題も、日本が歩んできた歴史の結果です。その中で我々の文化がどのように発展してきたのか、一度立ち止まってじっくりと掘り下げてみることが大切だと思います。歌舞伎や俗曲も時代ごとにいろいろな規制をかけられながらも、新しい表現を生み出してきました。息苦しさを感じるのは、逆に次の表現へと向かうチャンスでもあります。

簡単に読み流せないような重厚な読み物を

――古今東西のあらゆる本について、長文の書評を掲載するサイト「松岡正剛の千夜千冊」は、インターネットが一般的に普及し始めた2000年にスタートしています。ときに時事ネタやご自身のエピソードを交えながら、あらゆるテーマを掘り下げるスタイルは、書評のあり方として新鮮であるとともに、その質や量も多くの読書家に衝撃を与えたと思います。このサイトを始めたきっかけは?

松岡:僕は当時、ニフティサーブからの依頼で、金子郁容、いとうせいこう、安田雪らとともにネットミーティングをしていたんだけれど、WEBサイトの表情やプロトコル、あるいはリプレゼンテーション力は、ほかのメディアに比べてイマイチだと感じていたんです。そこで、自分なりにその可能性を模索しようと、インターネットの片隅で二つのことを始めました。一つはイシス編集学校ーーインタースコアのISとインタラクティブシステムのISで、ISIS(イシス)と名付けましたーーで、編集術を学ぶためのインターネット上の学校です。

 そしてもう一つが「千夜千冊」。インターネットの登場で情報がどんどん増えていくと、いずれは現在のSNSのように人々が細切れの情報を消費するようになっていき、体系的な「知」が失われていくのではないかという懸念から、むしろ簡単に読み流せないような重厚な読み物を毎晩のように書き続けてみようと始めました。取り上げるのは一人の作家につき一冊だけという縛りで、近松門左衛門、ダンテ、カフカ、ガルシア=マルケス、町田康、大槻ケンヂなど、時代やジャンルを横断して次々と書いていったのですが、やってみたらものすごく大変な仕事で、自分でも「しまった!」と思いました(笑)。でも、300夜を超えたあたりから、最初は数百人だった読者が数千人、数万人、数十万人と増えていって、手応えを感じるようになりました。999夜にホメーロスの『オデュッセイア―』、1000夜目に良寛の『良寛全集』を書き終えた後のタイミングで胃がんに罹ってしまったため、手術を受けたのですが、退院して再開したら今度は止められなくなってしまって(笑)。今やライフワークとして続いている感じです。

――昨今では、SNSでの短い文章が拡散されてしまうことから生じる弊害について語られることも多く、いわゆるスロージャーナリズムなどにも注目が集まっていますが、その意味でも「千夜千冊」は先見性のあるサイトだったと思います。

松岡:まあ、僕の場合は結果的にそうなった感じですが、もう少し長文を掲載するWEBメディアが増えていくといいなとは思います。インターネットは常に接続されているものなので、発信を継続していくことに意味があり、そこがパッケージされた本とは異なる部分なのですが、だからといってあまりに短い文章にすると弊害もおこる。本当は短くした方が僕も楽なんだけれど、最近、また長くなってきていて、これはもう病気みたいなものだよね(笑)。もちろん、長ければいいというものでもないのだけれど、例えばゲーテの『若きウェルテルの悩み』は中学生時代に読んだとか、あるいは20歳のときに先輩に勧められてカフカを読んだとか、読書体験はその時代の記憶とともにあるので、その感情を一緒に書くとなんだかんだで長くなる。

――「千夜千冊」を執筆する上で、気をつけていることはありますか?

松岡:いわゆる批評はしないようにしています。本を読んでいて文句が言いたくなることももちろんありますが、ケチをつけたらキリがないので、むしろその本の中で書ききれていないことを補充するようなイメージで書いています。だから、後から著者に「自分が何を書きたかったのか、『千夜千冊』を読んでよくわかりました」と言われることも多い。隈研吾の『負ける建築』について書いたときもそうでした。イメージとしては、人の歌をカバーして歌うような感じ。美空ひばりや松任谷由実、あるいは米津玄師のように歌うことはできないけれど、松岡流に歌うことはできるわけで、僕はそういうことをやっているつもりです。もし僕が批評家になってズバッと切ったとしたら、恐れられるほど厳しいと思います(笑)。

――たしかに、松岡さんに批評されるのは怖いですね(笑)。「千夜千冊」は、2006年に全8冊の大型本『松岡正剛 千夜千冊』(求龍堂)として出版されましたが、現在は角川ソフィア文庫から「千夜千冊エディション」シリーズとして、テーマごとに再編集して出版されています。今年6月に出版された『宇宙と素粒子』は、ガリレオ・ガリレイの『星界の報告』から佐藤文隆の『量子力学のイデオロギー』まで紹介していて、一冊を通して壮大な宇宙の物語として読めるのが面白かったです。

松岡:そう、改めて編み直すと大きな物語になるのが、このシリーズの特徴です。ガリレオ・ガリレイから始まって、アルバート・アインシュタインやスティーヴン・ホーキングへと進み、最後は量子力学の謎にまで話が及ぶ。でも、テーマを絞って一冊の本にまとめようとすると、「千夜千冊」の連載で書いたことだけでは足りなくて、追記しなければいけない部分がたくさんあります。WEBの連載と一冊の本では、やはり役割が違うんです。『宇宙と素粒子』の前は、『大アジア』とか『心とトラウマ』といったフィルターで編み直したのですが、やり始めるとどのテーマも面白くて、もっとやりたくなってしまうんですよね。下手をすると、このシリーズも40~50冊くらいになってしまうかもしれない(笑)。

――「千夜千冊エディション」シリーズは、ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』やジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』など、ビッグヒストリーものに通じる読後感もあります。

松岡:そうかもしれませんね。もっと昔の本でいうと、ハーバート・ジョージ・ウエルズの『世界文化小史』とか、ジャンバッティスタ・ヴィーコの『新しい学』などには大きな影響を受けました。いわゆる百科事典を作るのではなくて、大きな歴史の流れをエディットする。本はもともとベーシックヒストリーを作り直す可能性を持っていて、本棚の並びの組み合わせでハラリ的な、あるいはダイアモンド的な歴史を紡ぐこともできる。例えば夏目漱石の『こころ』を、幸田露伴や樋口一葉、カフカと並べることで見えてくる史観もあるでしょう。そういう視点は常に意識しています。

自分が傷つくことも覚悟した方が良い

――最近の「千夜千冊」だと、カール・ジンマーの『ウイルス・プラネット』西山賢一の『免疫ネットワークの時代』の回で、コロナ禍の社会に対する考えも記しています。

松岡:今回、僕が思ったのは、新型コロナウイルス騒動で急にパンデミックとかロックダウンといった言葉が出てきて、自粛しよう、テレワークをしようとなっていったのは仕方がないことだけれど、人々の接触を抑えたら社会がどうなっていくのかという構想も何もないまま物事が進んだから、社会が混乱しているということです。でも、以前から手紙や電話やFAXはあったわけで、テレワークのような働き方はやろうと思えばできたわけです。だから、働き方を変革するのにまず必要だったのは、テレプレゼンスを考え直すことだったはずなのですが、変革していこうとする側は単に「テレワークを推奨しましょう」というだけで、演出もプランも独特のプロトコルも何もない。例えばオフィスで、他の人に来た封筒を勝手に開けたりしないけれど、FAXの方は部下が上司に届けるときに書いてあることを見ることもできるでしょう。そういうことをもう一度考え直すチャンスなのに、何も提案されていないと感じていました。

 もうひとつは「感染」とは何かということですね。感染というのは呪いのようなところがあって、かつてのシャーマニズムとかアニミズムが持った影響力も感染と呼ばれています。例えば、トランプ大統領が誰かの悪口を言ったら、その内容は人々に感染していくものだし、SNSでの悪口が人を死に追いやることもある。その感染にはポジティブな力もあって、本当は良し悪しの両面があるのだけれど、社会にはそういうことを考える間もなくなっている印象を受けています。

ーー松岡さん自身は、あまり過剰に自粛すべきではないと考えていますか。

松岡:僕自身はコロナ禍になってからも、休まずに毎日仕事場に来ていました。自粛をしないと人に迷惑をかけるという考え方も理解できるけれど、こういう時は何かを大きく失うものであって、ある程度は自分が傷つくことも覚悟した方がいい。ぐさっと突き刺さる棘を、あえて残すような。リアリティも何もなく、考えなしに「自粛すべき」では、さらに大きなものを失うでしょう。これから先、もっと世の中はダメになっていくと思います。

組み合わせてアソシエーションさせることが編集の目的

――改めて、松岡さんが考える書籍の価値を教えてください。

松岡:本にはタイトルがあり、表紙があり、著者があり、版元があり、目次があり、最低でも100ページ、長いと300から500ページの長丁場のコンテンツです。この単位が重要だと思います。音楽や映画よりずっと長い場合が多い。その中に起承転結や5W1Hや文法、プロトコルがあって、街を歩いている風景も、廃墟も、エロスですら著者によって一冊の本になりうる。つまり、我々は日々の生活の中で、無意識的に未完の図書館を歩き、様々な影響を受けているわけです。そういうところも含めて、本には魅力があると思います。

――読む本の選び方に、松岡さんならではのコツはありますか?

松岡:例えば、サイエンスの分野ならまずは3冊、古典のもの、最新のもの、そして自分のフェティシズムに合うものを選ぶといいと思います。アリストテレスやエピクロスなど古代の哲学者の思想について書かれたもの、ヒッグス粒子やダークマターなど最近の研究について書かれたもの、真ん中に鉱物とか昆虫とか自分が好きなものについて書かれたものを置く。テクノロジーの分野なら、なぜ歯車やレンズや半導体が必要となったのかなど、技術の歴史のスタートについて書かれたものと、最新の認知科学と認知技術について書かれたもの、そして自分の好きな時計とかメガネとかについて書かれたものを置く。自分が関わりたいジャンルについては、3冊くらいの本は常に読んでいますね。

――最後に、これからの編集者の役割はどうなるか、松岡さんの考えを教えてください。

松岡:編集者は、文明、文化、哲学、技術、芸術など、あらゆるものをエディティングできる立場にある職業だと思います。WEBであれ紙媒体であれ、何かを組み合わせてアソシエーション(連想)させることが編集の目的で、その量と質を最大化していくことが、これからはより求められるのではないでしょうか。そのためにも、新聞も雑誌もリトルマガジンもWEBも、記事を短くわかりやすくするということを一度、やめてみてもいいんじゃないかな(笑)。読者に「何が書いてあるのか、さっぱりわからなかった」と思われるような記事があってもいい。むしろ、そういう記事があることで、読者の記憶に「あの記事は何だったのだろう?」と残ることもある。もちろん、全部が長くて難解な記事では誰も読んでくれないかもしれないけれど、そういう記事を勇気をもってやるのも編集者の仕事だと思います。

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