Download on the App Store ANDROID APP ON Google Play
Download on the App Store ANDROID APP ON Google Play

福満しげゆきが新たなファンを獲得し続ける理由 妻の描き方に見る、大きな愛情

リアルサウンド

20/6/27(土) 12:00

 1997年のデビュー以来、『モーニング』(講談社)や『漫画アクション』(双葉社)などで作品を連載、『漫画アクション』で掲載していた『うちの妻ってどうでしょう?』で、第14回文化庁メディア芸術祭マンガ部門奨励賞を受賞するなど、20年以上に渡り活躍し続ける福満しげゆき。今年に入り、新たに多くのファンを獲得することになった。

関連:『映像研』のルーツ? 細野不二彦の80年代映研漫画『あどりぶシネ倶楽部』が伝える普遍的な想い

■福満のエッセイ漫画を際立たせる「道玄坂」

 きっかけは妻が運営する福満しげゆきのTwitterである。今年2月に始めたばかりのアカウントはフォロワー11万人を越え、著作の増刷も決まった。子供のいじめ対策に関するツイートなどは14万いいねを越えており、その人気の高さが伺える。そのように広く受け入れられる福満作品の魅力はどこにあるのか、また、福満しげゆきを語る上で欠かせない彼の妻はどのような存在なのか、本稿で取り上げてみたい。

 もう何年も前の話だが、友人宅に集まって新年会をしていたときのことだ。わたしは向かいに座った新婚の友人に、「結婚生活はどんな感じですか」と質問してみたことがある。そのとき彼女は、「自分たちにとってしかおもしろくないコントを延々やってる感じ」と話してくれた。その回答が印象的で、数年経ってもいまだ記憶に留まっている。

 自分たち二人にしかわからない楽しさ、おかしみ、不思議な親密さ。そういうリアリティを他の人に共有するのはなかなか難しいかもしれないが、もしそれができたら、きっと素敵なことに違いない。わたしにとって福満しげゆきのエッセイ漫画は、そのようなリアリティに触れられる作品である。

 少し離れたところから話を始めるが、穂村弘の短歌論『短歌の友人』において、リアリティと字余りの関係に触れた箇所がある。5・7・5・7・7という短歌の形式において、たとえば5文字の箇所に「神楽坂(かぐらざか)」が入っている場合、違和感やひっかかりはない。だが、そこに入ってる地名が6文字の「道玄坂(どうげんざか)」であった場合、話が違ってくる。つまり、「わざわざ字余りにしてまで道玄坂と書くのだから、この歌はほんとうに起きたことなのだろう」と読者に思わせる効果がある。そして穂村は、短歌のおもしろさを決定づける基準のひとつに、このような「ほんとうに起きたことなのだろう」と思わせる手触り、リアリティがあるとする。

 この見方は短歌に限ったものではなく、そのようにリアルな印象を与えることが作品の魅力に繋がること間違いない。

 福満しげゆきのエッセイ作品は、いうなれば「道玄坂」に溢れている。

 普通は日記にも書かれないような小さな事柄を見出すセンスが素晴らしく、ほんとうに何気ない瞬間の描写で心を動かされることが多い。

 また、こう描けば美談になったのに、こう描けば自分の格好悪いところを隠せただろうに、という安全なほうへ流れることなく、たとえ失敗しても、不格好でも、助け合い、互いを気にかける夫婦の姿が描かれる。

 夫婦間には、他人に言っても決してわかってもらえない話がつきものだろう。近すぎるがゆえに直面する互いの欠点や異常さを日常のこととして受け流しながら、それでもなお付き合い続けていく部分も多い。福満作品はその点を覆い隠して通りのいい物語に矯正してしまうことなく、どこかで心に引っかかりのある作品に仕上がっている。

 リアリティに加えて、傑出した魅力がもう一つある。それは作品のヒロインである妻との関係だ。

 ここでケイト・ザンブレノの著作『ヒロインズ』を参考にしたい。『ヒロインズ』は、これまで文学に登場したミューズ、ヒロイン像の歴史的な検討を行う評論・エッセイである。ごく簡単に要約してみよう。

 これまで女性たちは長い間ずっと「描かれる側」であって、作家志望でも、才能があっても、なかなか「描く側」として活躍することが難しかった。男性作家の残した作品に比べ、女性の残すことができた作品がどれだけ少ないかは、歴史的にみて一目瞭然である。加えて、男たちの作品のため、ヒロインの虚像に利用するため、女性たちは創造性を掠めとられてきた。典型的な例として挙げられるのは、妻や恋人を作品に変えたフィッツジェラルドやブルトンであると、著者のザンブレノは指摘する。

 さて、この視点から見たとき、福満しげゆきの作品で描かれる妻はどのように捉えられるだろうか。妻をヒロインとして、妻の些細な行動まで見繕い、一部描かれたくないであろうことまで作品としているのは福満しげゆきも同様である。しかし、作中の妻は「これは描かないで」「もっといいところも描いて」「なんでこんなこと描いたの」と作品に対して物申す存在であり、ある種のメタ・パラフィクション性がある。だからこそ、作品が権威として独立することなく、読者は話半分で読むことになる。「こう書かれてはいるが、妻には妻の言い分があるのだろう」と心のどこかで感じながら次の頁へと向かうのだ。また、一躍有名になったTwitterの運営も妻が行っている点も健全かつ興味深い。どの漫画を載せるか、どの漫画に「夫は大袈裟に書いてます」と補足するかは妻が選んでいるのだ。

 ひとつことわっておきたいことがある。『ヒロインズ』はフェミニズムの文脈で書かれた作品だが、私は、福満作品がそれに沿ったフェミニズム的なものであると言いたいわけではない。むしろ福満氏の女性観や貞操観念はかなり保守的で、ジェンダーロールに忠実な男性像が見え隠れする。しかしそれとは別のところで妻への大きな愛情があり、彼女にずっと心を砕いてきたのである。私はそちらに目を向けるほうがよほど興味深いはずだと考える。

 最後に、『ヒロインズ』に登場するメッセージを紹介して〆としたい。ここで取り上げるのは、アメリカの作家、ジューナ・バーンズに周囲から寄せられた対照的なアドバイスである。バーンズは、ある女性について作中でどのように描写するか迷っていた。まず示されるのは、ノーベル文学賞作家であり、二十世紀アメリカ文学界の巨人、T.S.エリオットのアドバイスである。「史実の正確さなんかについてためらうのはやめにして、彼女を利用したまえ」と彼は言う。もう一人の助言者は、神経を病んで精神病棟で過ごし、その経験を元にを描いた女性作家、エミリー・コールマンである。彼女の発言は素晴らしく印象的で胸を打つ。

「その人のことを、できる限り自分から切り離して考えなさい。聖者でも狂女でもなく、才能あるひとりの女性として。この世界にたったひとり、必死に生きている人として」

 私が福満作品を通して感じるのはこの発言である。少なくとも福満しげゆきは、妻を作品を際立たせるための道具立てとして利用してはいない。むしろ、妻をどう描くかが作品そのもの、ひょっとすると人生そのものになっているのだ。まさしく妻はこのように描かれている。

「聖者でも狂女でもなく、才能あるひとりの女性として。この世界にたったひとり、必死に生きている人として」

■野村玲央
1993年生。ライター。人文学やポップ音楽に関心があります。仕事の依頼等こちらからお願いします。→nmrreo@gmail.com

新着エッセイ

新着クリエイター人生

水先案内

アプリで読む