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歴史の醜い真実を描くサスペンス 『赤い闇 スターリンの冷たい大地で』に詰まった“信念”を読み解く

リアルサウンド

20/8/7(金) 12:00

 全体主義がもたらす恐怖社会を風刺的に描いた小説『1984』(1949年発表)は、世界中の強権的な政治体制や、現代の日本の状況にも通じるところが多いと、あらためて見直されている作品だ。その作者のもう一つの代表作といえば、腐敗政治によって弱い者たちが犠牲になる社会を投影し、イギリスで長編アニメ化もされた『動物農場』(1945年)が挙げられる。そのモデルとなったのが、当時のソビエト連邦の政治体制だった。

 映画『赤い闇 スターリンの冷たい大地で』は、実在のジャーナリストが暴いたソ連の暗部を振り返り、いまふたたび、歴史的事実にスポットライトを当てていく作品だ。その真相には、『動物農場』で描かれた以上の悪夢的な悲劇が存在していた。そして、この事件こそが『動物農場』執筆の契機になったということが、劇中でも示される。

 ここでは、そんな歴史の醜い真実を描こうとする強い信念が詰まった本作の内容を、じっくりと紐解いていきたい。

 本作の舞台は、1933年のソ連。物語は、イギリス首相の元外交顧問だったという華麗な経歴を持つ若きジャーナリスト、ガレス・ジョーンズが、取材のためソ連に入国することで動き出す。彼は、ソ連に対してある疑問を持っていた。それは世界恐慌の波が押し寄せ、多くの国が不景気にあえでいるときに、なぜソ連は安定した経済を誇っているのかということだ。この事実は共産主義の成功を示しているのか? それとも、何か別の理由があるのか……。

 各国の記者たちが滞在するモスクワに到着したジョーンズは、自分が外国人記者として警戒され、常に監視の目があることに気づき始める。そして政府が、あくまで国家の良い面しか見せず、指導者スターリンの政治体制を宣伝することしか興味がないことにも。その雰囲気は、いまの北朝鮮の政治体制を取材しに首都ピョンヤンを訪れた人々が証言するような状態に近いように感じられる。

 ジョーンズがモスクワでまず出会うのは、イギリス出身でピューリッツァー賞を獲得している、ニューヨーク・タイムズの大物記者、ウォルター・デュランティである。彼はジョーンズの想像していたイメージとは異なり、現地で酒池肉林のパーティーを開き、羽目を外している、意外なほど享楽的な人物だった。

 次に出会うのは、同じくニューヨーク・タイムズに所属する、モスクワ支局の女性記者エイダ・ブルックス。彼女は、ナチス政権が台頭するドイツから脱出し、ソ連の政治体制に一定の期待を寄せていた。

 主人公を含めた、この3人のジャーナリストが、本作では最も重要な登場人物となる。ガレスを演じるのは、最近では『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』にも出演していた、ジェームズ・ノートン。ここではまだ年若いエリートとして、愚直な真面目さを演技で表現している。彼の純粋さや世慣れなさというのは、疑惑を追う上でむしろプラスに作用する部分がある。「君は面白くないな」と言われてしまうこともあるが、こういう人物が活躍するというのが、本作の特徴でもあり、リアリティでもあるのだ。

 その真面目さと好対照を見せるのが、ウォルター・デュランティ役のピーター・サースガードの妖しい演技だ。地位のある存在でありながら乱れたパーティーを、ほぼ全裸で楽しんでいる姿は、かなり衝撃的。じつはソ連政府の片棒を担ぎ、記者として大事なものを手放したことを暗示する振る舞いが印象に残る。

 そして、『ミッション:インポッシブル/フォールアウト』において、ミステリアスな演技が印象的だったヴァネッサ・カービーは、政府の引き締めが強い過酷な環境のなかで、この両者の価値観の間で心揺れる存在を熱演する。この、どっちにも転がり得る中間的な立場は、本作を観ている観客の大部分を占めるだろう、「自分ならどうするか」という心情に最も寄り添った存在なのではないだろうか。

 さて、ソ連がひた隠しにしていた、好景気の秘密とは、いったい何だったのだろうか。ジョーンズはその謎を解こうと、手がかりを集めていく。そしてその過程で、自分よりも前にこの疑惑に迫ろうとしていた記者が謎の死を遂げていることを知ることになるのだ。それは、ソ連当局による口封じだったのか……。

 身の危険を感じるなか、それでも真相を求め、ソ連が実質的に支配するウクライナ・ソビエト社会主義共和国(現ウクライナ)に潜入しようとするジョーンズ。厳重な監視のなか、彼はどうやってそこへたどり着くのだろうか。盗聴を回避するための筆談や、書類の書き換え、監視の目をかいくぐる作戦など、まさにスパイ映画のような緊張感あるサスペンスが、端正な映像と重厚な演出によって盛り上げられていて、本作の見どころになっている。

 ウクライナは、「ヨーロッパの穀倉」とも呼ばれてきた、歴史的に肥沃な土地である。この国にたどり着いたジョーンズは、深刻な飢餓が人々を襲っていたことを知る。その原因となっていたのは、“ホロドモール”と呼ばれることになる、人工的大飢饉だ。

 かつて、ソ連で多くの優れた作品を監督してきたセルゲイ・エイゼンシュテインは、映画『全線』(1929年)で、ソ連が推し進める集団農場の素晴らしさを描いた。富を全ての人民が共有するという理念を持った共産主義を下敷きにした、この農業のシステムは、当初は実際に農民たちに利益があったのかもしれない。しかしその後、とくにソ連の傀儡となっていたウクライナの地においては、そのシステムがソ連政府の利益にのみ貢献するようなものに変貌していた。収穫された穀物は、そのほとんどが徴収され、人々は正気を失ったり、人肉食までもが発生する状況となっていたのだ。

 それは、日本の江戸時代などにおける農民への苛烈な搾取によって生み出された飢餓や、かつてアメリカの綿花畑などでの奴隷労働の仕組みが、倫理を逸脱することで国の経済的発展を支えてきたことに酷似する、時代錯誤的な施策である。このホロドモールについては長年の間議論がなされてきたが、現在ではナチスドイツがユダヤ人を虐殺したホロコーストにも並ぶような歴史的犯罪であるという評価に固まってきている。

 そんなおそろしい光景を目の当たりにしたジョーンズが、この事態を告発しようとすると、ソ連政府はモスクワに滞在していた何の罪もないイギリス人たちを不当に逮捕し、飢餓の事実を公表すれば人質の命はないと脅し始める。激しい葛藤にさいなまれたジョーンズは、この後『動物農場』を書くことになるジョージ・オーウェルと出会い、背中を押されながら、ついに事実を暴露する会見を開くことになる。

 そこで動き出すのは、すでにソ連政府と蜜月状態になっていたデュランティ記者である。彼はニューヨーク・タイムズに、この発表がデマであるとする反論記事を掲載する。そして、魔の手はエイダにも迫る。ジョーンズは、この窮地をどう戦うのか。そして、本作はいったいどんな結末を迎えるのか。その答えは、劇場で確認してほしい。

 政府に近づき過ぎることで、記者としての本分を忘れ、政権の意向に従ってしまうという構図は、現在でもあらゆる場所で度々指摘されている問題である。しかし不都合な事実は、いつかは白日のもとにさらされるものだ。デュランティ記者の反論や、彼が飢餓を知り得る立場にあったにもかかわらず黙認したことは、のちの時代、彼のピューリッツァー賞剥奪を求める運動へと繋がっていく。現在までにその目的は達成されていないが、ホロドモールに間接的に協力したという評価は、彼の名誉を失墜させるのに十分なものであるだろう。

 本作の脚本と製作を担当したアンドレア・チャルーパは、自らの祖父が、ホロドモールを生き残った生存者だったのだという。彼は亡くなる前に、自分が体験した事実を書き残していた。チャルーパが本作を手掛けたのは、この紛れもない歴史的事実を、できるだけ多くの人々に知ってもらいたいという想いからだろう。

 そして、ナチスドイツの支配への蜂起や、ポーランドの政治問題を描いてきたアンジェイ・ワイダ監督の弟子であり、自らもホロコーストを題材にした『ソハの地下水道』(2011年)などの映画を撮ってきたアグニェシュカ・ホランド監督が、その意志を受け、かたちにしているのだ。だからこそ本作からは、この悲劇を表現しなければならない、伝えなければならないという切迫した気持ちが強く感じられる。

 それは正義感というよりも、やむにやまれない義務感や重圧といった方が、より正しいのかもしれない。自分が無念を伝えなければ、死んだ人々の苦しみを誰が代弁するのか。その気持ちが、ウクライナの子どもたちの歌の幻聴に、帰国してからも苦しめられる劇中のジョーンズの姿として表現されている。

 現在も様々な社会問題が横たわる社会のなかで、われわれはどう生きるべきなのか。本作に登場した3人の記者の姿は、それを考えるための目印となるかもしれない。そして何を選び取るにせよ、目の前で起こっている事実について、われわれは目や耳を塞がず、自覚的でなければならないのではないだろうか。本作は、そのことをうったえかける映画でもあるように思える。

■小野寺系(k.onodera)
映画評論家。映画仙人を目指し、作品に合わせ様々な角度から深く映画を語る。やくざ映画上映館にひとり置き去りにされた幼少時代を持つ。Twitter映画批評サイト

■公開情報
『赤い闇 スターリンの冷たい大地で』
8月14日(金)新宿武蔵野館、YEBISU GARDEN CINEMA ほか全国公開
監督:アグニェシュカ・ホランド
脚本:アンドレア・チャルーパ
出演:ジェームズ・ノートン、ヴァネッサ・カービー、ピーター・サースガード
配給:ハピネット
配給協力:ギグリーボックス
(c)FILM PRODUKCJA – PARKHURST – KINOROB – JONES BOY FILM – KRAKOW FESTIVAL OFFICE – STUDIO PRODUKCYJNE ORKA – KINO SWIAT – SILESIA FILM INSTITUTE IN KATOWICE

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