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ノスタルジーを提供するだけではない? 『青夏 きみに恋した30日』は心ときめく時間を与えてくれる

リアルサウンド

18/8/21(火) 10:00

 「心臓、セミよりうるさい」。南波あつこによる『青夏 Ao-Natsu』(講談社)6巻で、ヒロインがつぶやく名ゼリフである。この少女マンガを原作とした映画『青夏 きみに恋した30日』を観終え、劇場から35℃を超える渋谷の街に足を踏み出したとき、思わず同じセリフをつぶやきたくなってしまう。冗談ではなく、それほどまでに心ときめく時間を与えてくれる作品なのだ。

【画像】ひと夏に出会う葵わかなと佐野勇斗

 都会に住む16歳のヒロインが、ひと夏の間を祖母の住む田舎で過ごすことになり、そこで恋をする。本作のあらすじを端的に述べれば、それだけである。メガホンを取ったのは、ティーン向けの、いわゆるキラキラ映画と呼ばれる作品たちを、職人的な手腕で次々と手がける古澤健だ。古澤監督といえばここ最近の作品だけでも、27歳のうだつの上がらない青年が薬を飲んで若返り高校生活をやりなおす『ReLIFE リライフ』や、「超・少子化対策基本法」なるものにより16歳になると政府から結婚相手を決められる世界の恋愛を描いた『恋と嘘』、さらには、高校弓道部の男女関係を官能的に綴った『一礼してキス』といった、いわば突拍子もない、ありえない設定だとも思える恋愛模様の数々に、平祐奈や森川葵、池田エライザらヒロインたちを飛び込ませてきた。それに対し、本作でヒロインを務める葵わかなが飛び込むのは川の水くらいのものであり、じつにリアルで、じつに“ありえる”お話なのだ。

 旅先での出会いと、そこからはじまる恋。伊勢志摩のロケーションを舞台とした、風光明媚な大自然の中での地に足の着いた設定と展開に、愉快な音楽、川のせせらぎやセミの鳴き声が彩りを添え、観る者の多くが共感を誘われてしまうことも想像に難くない。彼女たちの年齢から10年以上の時を経た筆者のことでさえ、川の水を求めて友人たちと自転車をこいだ、高校時代の夏休みの中へと連れ立ってくれたのだ。しかし本作は、そんなノスタルジーを提供するだけの作品ではない。

 東京で暮らしている高校1年生の船見理緒(葵わかな)は、弟と2人、母方の祖母の住む上湖村で夏休みを過ごすこととなる。ロマンチストで理想が高く、“運命”というものを信じる彼女は、高1ながら友人たちと合コンなどに身を投じようとも、いまいち馴染めない。本作は、東京(都会)にいる友人たちと離れ、上湖村(田舎)へと向かう電車の中での理緒の浮かない表情を収めたシーンから幕を開けるが、太陽を見上げるヒマワリ畑を抜け、村へと到着するなり彼女は「サイコー」などと声を上げては笑顔を咲かせ、素手でセミを捕まえたりする。都会っ子かと思いきや、田舎での生活に溶け込む素養を彼女は十分に持ち合わせているのだ。与えられた環境での夏を楽しもうという、彼女の性格もうかがえる。ここで彼女は“運命”の相手である、高校3年生の酒屋の跡取り息子・泉吟蔵(佐野勇斗)と出会う。

 理緒は夢見がちではあるが恋愛に奥手というわけではなく、ときめきを感じ、運命を信じたからには積極性をみせ、自分の中に芽生えた想いを素直に口にし、ぐいぐいと行動を起こしていくタイプだ。しかし、とうの吟蔵は、2人の前に立ちはだかる壁を必要以上に意識し、理緒への想いを自覚しながらも、自分を抑圧してしまう。その壁とは、この夏休みの間だけしか一緒にいられないことや、ゆくゆく彼は家業を継がなければならないといった事情などのことである。ようはマジメなのだろう。

 思春期の甘酸っぱさを知る日々を重ねるうちに、8月のカレンダーの日付はバツ印で消えていき、やがて理緒は別れの決断をする。それは彼女が、相手や周囲のことに目を向けられるようになったのだとも受けとれる。つまり、ひと夏を経て、少しだけ成長したのだと。

 ところで、先に記したように、巷ではこの手の映画をキラキラ映画と呼んだりするのだが、筆者は“キラキラ=個人主義”だと捉えている。もちろん政治的な意味ではない。これらの映画に登場する少年少女たちが、あと先のことを考えるよりも、周りが見えなくなるほど何か一つのこと(おもに恋愛)に猛進してしまうことに対してだ。それはときに、あまりの独りよがりな言動や行動によって、周囲の誰かを傷つけてしまうこともあるだろう。だがそれ以上に、ただひたすらに、自身のうちにある想いに素直に行動することこそが、文字どおり“キラキラ”輝きを発していると思うのだ。思いのままに行動していればしているほど、より映画がキラキラするというわけである。だがこれは年齢を重ねるほど、社会からの抑圧などにより難しくなってくるだろう。

 本作でもっともキラキラとした輝きを放つのは、クライマックスである。自分の気持ちを押し込めていた理緒が、脇目も振らず、吟蔵めがけて走っていく一連の場面だ。いまこの瞬間に、いまこの気持ちを伝えるために、彼女は走る。しかしこの走りとは、吟蔵のためのものではなく、理緒自身のためのものではないだろうか。相手の反応や結果より、「自分の想いに素直になる」という個人の欲求が勝っているのだ。ここに、もっとも純度の高いキラキラが溢れている。彼女が青春ならぬ、この“青夏”を謳歌したことはまちがいない。繰り返すが重要なのは結果ではなく、自分がどうしたいかなのだ。

 自分の想いに素直に行動する。それは16歳の女子高生だけの特権だろうか。もちろん恋愛に限った話ではない。いくつであっても、その年齢で経験できる夏は一度きりである。私たちの前にもまた同じように、青い夏の世界が開かれているのではないだろうか。本作はそんなことを、ときめきとともに教えてくれるのである。

(折田侑駿)

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