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小川紗良の『風の谷のナウシカ』評:すべての悲しみに、きっといい風が吹くように

リアルサウンド

20/7/19(日) 10:00

 翼の生えた青い少女が、暗闇の中を飛んでいる。風に乗って向かう先には、何かに怯える人々がいて、彼女に救いを求めている。神話の一場面のようなその青々とした絵は、DVDの初回特典ソフトケースに描かれていて、幼い私はその空飛ぶ少女に見惚れた。強そうで、優しそうな、少年のようで、少女のような、自由なようで、不自由そうな、まばゆいのに、どこか寂しげな……鳥のような人。彼女の名は、風の谷のナウシカ。幼い私にまだその映画は恐ろしすぎてまともに観ることはできなかったが、それでもそこに描かれた絵は美しく、宝物のようだった。私はよくそれを手にとって、まじまじと眺めてはそっとしまった。

参考:『もののけ姫』を映画館で“再体験”する醍醐味 スクリーンでこそ気付く静かなシーンの魅力

●ナウシカの悲しみとそれ故の優しさ
 それがどういうわけか、2020年の映画館にナウシカが舞い戻ってきたという。幼い頃に想い焦がれた絵の中の少女と、やっと、スクリーンで出会えるのだ。彼女はどんな姿で飛び、どんな声で笑うだろうか。新型コロナウイルス以上に、ネットや政治や人間関係のウイルスが蔓延する世の中で、彼女の姿はどんなふうに映るだろう。不安と期待を胸に、私は映画館の暗闇へと沈んでいった。しばらくして、風の音が響き出した。

 初めてスクリーンでナウシカを目の当たりにして、その母性や正義感に圧倒されつつも、最も強く印象づいたのは彼女の纏う悲しみであった。彼女は弱い人にも、強い人にも、虫にも、動物にも、植物にも、全てに愛を持って関わり癒すが、当の本人はずっとどこか寂しげなのである。まるでこの世の全ての悲しみを、たったひとりで背負っているかのように。

 思えば、あれほど母性的な描写(ふくよかな胸、小さき者への優しさ、両手を広げて立ち向かう姿など)で溢れていながら、ナウシカ自身には母親の影がほとんどない。父ジルや師匠ユパを敬い慕う様子は多く描かれているのに、映画でナウシカの母親が登場するのはたったのワンシーンだ。それも遠い記憶の中の、決して視線の交わらない冷たい横顔のみ。記憶の中の母について、ナウシカは語ることも思い返すこともしない。唯一の断片的な母の記憶が、なぜああも遠く冷ややかなのか。多くは語られないが、私はナウシカの纏う悲しみの根底にあの母の姿があるような気がして、原作にヒントを求めた。するとそこには、「母は決して癒されない悲しみがあることを教えてくれましたが わたしを愛さなかった」というナウシカの証言があった。あれほど人を愛し愛されるナウシカに、たったひとりそれの叶わぬ人がいたのだ。ナウシカの悲しみとそれ故の優しさは、すべてそこから始まっているような気がした。

 それはペジテの人質となったナウシカが、ペジテの王妃と少女に救出されるシーンからも見受けられる。ペジテの王妃は自分の娘(ラステル)を看取ってくれたナウシカに対して、「ラステルの母です」と告げる。その瞬間ナウシカの表情は歪み、瞳を潤ませ、「母さま」と言って王妃の胸に飛び込む。それは単にラステルの死を悼むだけでなく、「母さま」という彼女にとって悲しみを象徴する大きな概念に、力一杯抱きついているようでもあった。ナウシカはたったひとつの抱きつく胸を持たないからこそ、広大な自然に向かって愛を注いでいるのかもしれない。

●ラステルとクシャナの悲しみが向かった先
 この映画ではもうふたつ、悲しみに暮れた女の姿がある。ひとつはペジテの王女ラステル、そしてもうひとつはトルメキアの皇女クシャナだ。鎖を繋がれて死にゆくラステルと、鎧を身につけ銃を撃ち鳴らすクシャナ、ふたりは対照的なようで根本にある悲しみは似ているように思う。どちらも腐海の拡大と醜い戦争の最中で悲しみに暮れた者たちで、その悲しみの向かった先が死か武力かというだけだ。

 ラステルは王女でありながら鎖で自由を奪われ、船の墜落で逃げることもできずに死んでいく。死際に彼女の胸元を見たナウシカは思わず顔をしかめ、手を震わせながらそっとボタンを留める。ナウシカがそこに何を見たのかは描かれない。墜落による救いようもない傷跡なのか、腐海の毒に侵された病か、はたまた彼女が日常的に受けてきた支配の痕跡か。いずれにせよ、ラステルが悲しみの果てに死んでいったことに変わりはない。一方クシャナは、強い命令口調で軍を束ね気高くたくましいが、度々弱さが垣間見える。例えばナウシカに「あなたは何を怯えているの? まるで迷子のキツネリスのように」と問われると、図星のように眉を震わせる。目の前に巨大な王蟲が現れれば、目を固く瞑り小さく縮こまる。蟲の犠牲となった自分の腕を見せつけ、「我が夫となるものはさらにおぞましきものを見るだろう」と風の谷の者たちを脅す。クシャナは蟲を恐れ、蟲を恨み、その悲しみの末で誰よりも重い鎧を被って、弱い自分を守っているのかもしれない。ラステルを死に至らしめたのも、クシャナを武装させたのも、自然破壊と戦争が生んだ悲しみだ。そんな彼女たちの姿を見つめるナウシカの眼差しもまた、途方もなく悲しい。

 『風の谷のナウシカ』は、自然に対する人間の愚かさの映画だと思っていた。あるいは、自然と人間との豊かな共生を祈る映画だと思っていた。はたまた、あのパッケージに描かれた美しい少女が人々を救う映画だと思っていた。そのどれもが間違ってはいないが、完全な答えでもないのだと思う。しかし、2020年の東京に生きる私にとってみれば、これは紛れもなく女たちの悲しみの映画であった。スクリーンで観るとよくわかるが、この映画には若い男がほとんどいない。真っ先に腐海や戦争の犠牲となったのだろうか、めぼしい人物といえばペジテのアスベルくらいだ。風の谷ですら青年の姿は見当たらず、残されたのは子どもと年寄りばかりだ。その中で人柱となり崇められるナウシカやラステルやクシャナのような女たちの、叫びのような映画であった。スクリーンいっぱいに両手を広げ、真正面からこちらに向かってくるナウシカの悲痛な表情が、胸に焼き付いて離れない。

●ナウシカは、本当に救世主なのだろうか
 ナウシカは、本当に救世主なのだろうか。言い伝えの通り、彼女は青く染まった服を纏い金色の野に降り立ったが、あの姿は果たして希望だろうか。原作に、「青き人は救ってはくれないのだよ ただ道を指し示すだけさ」という言葉がある。その言葉の通り、ナウシカは人々の心を照らしたが、実際には今まで通りの風が谷に戻っただけである。腐海の広がりも、人間の愚かさも、なにひとつ解決したわけではない。それはこの映画を観た私たちの現実世界にも同じことである。どれだけナウシカの姿に心打たれても、映画館を出れば変わらぬ都会の風が侘しく吹いている。私の生きるこの世界で、待てども待てどもナウシカは来ない。なぜなら、ナウシカは私の中にいるからだ。この胸に焼き付いたナウシカの姿を希望にするか絶望にするかは、私自身に委ねられている。

 風の谷では新たな命が生まれると、「いつもいい風がその子に吹きますように」と祈る。「いい子に」や「丈夫に」といったその子自身を縛る祈りではなく、周りに吹く風に対して祈りを捧げる、とても優しい風習だと思う。『風の谷のナウシカ』がスクリーンに灯る2020年の混沌に、そしてこの映画で祀られたすべての悲しみに、きっといい風が吹くように。優しい祈りを捧げながら、今日も私の中で青い少女が飛んでいる。(小川紗良)

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