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深田晃司監督が明かす、『よこがお』製作の裏側 「曖昧な世界をそのまま描くことが大事」

リアルサウンド

20/1/22(水) 17:00

 2019年に公開され、国内外で高く評価された深田晃司監督の日本・フランスの合作映画『よこがお』は、観る人によって大きく印象が変わる作品だ。物語は筒井真理子が演じる市子(リサ)の転落劇なのだが、説明が難しく、観る人によってこれだけ受け止められ方の違う映画も他にないのではないかと思う。

 今回、リアルサウンド映画部では、Blu-ray&DVD化を記念して、深田監督に映画の裏話について伺ったのだが、もしもまだ『よこがお』が未見の方がいたら、まずは前知識なしで作品を観ることをおすすめしたい。そして観終わった後で、このインタビューを読んでいただけると、劇中で気になったことを考える上でのヒントになるのではないかと思う。

●あえて違いを作らなかった時制

――『よこがお』は、前知識がない状態で観るのと、色々知った後で観るのとでは作品の印象が大きく違う作品だと思います。どういう状態で観てほしいという希望はありますか?

深田晃司(以下、深田):いつも迷うのですが、まっさらな状態で観てもらうことを前提としています。最初の15分くらいは混乱していただき、だんだんお客さんが発見していくという感じになるといいなと思って作りました。

――現在と半年前を行き来する話で、美容室の場面から家のパートに切り替わるのですが、正直に告白すると、最初は回想だとわからなかったです。

深田:そこで回想だとわかる方は、よくて10%弱かなぁと思います。

――そうなんですか! 何か大事なものを見逃したかのなと最初、混乱しました。

深田:冒頭から20分ほど経過して、7~8割の人がわかってくるというイメージで作りました。

――「半年前」とテロップを入れる、色味を変えるなど、明確な“変化”を付けるのが一般的な作品には多かったように思います。

深田:撮影監督にはトーンを揃えてほしいと言って、撮り方も変えてません。『淵に立つ』のときは時系列によって微妙に変えてまして。時間がとんだ後は手持ちカメラのシーンを増やすとか、色味をわからない程度にいじったのですが、今回はわからないようにしています。唯一ノイズだけは、現在パートで足しています。

――最初、リサさんだった人が、途中から市子さんになるので、頭がこんがらがって(笑)。でも、その混乱自体がすごく面白かったんですよね。

深田:人によって気づく速度が違うといいなと思って作りました。傾向として、女性の方が気付くのが速いのが面白いですね。大学生の男女2人が観た時の感想を教えてもらったのですが、男性の方は最後の方まで時系列が違うことがわからなくて、最後の場面でやっとわかったと言っていて。女性の方は「何言ってるの? すぐわかったよ。髪型をみればわかるじゃん」と言っていたんです。ああこれが「妻が髪型を変えても夫は気付かない」というアレかと思いました。

――制作には2年程かかってますね。

深田:脚本開発に1年半ぐらいかけました。撮影の直前まで直していました。

――何故、そんなに時間がかかったのでしょうか?

深田:時系列の見せ方ですね。最初は時系列の順番どおりに話が進んでいたんですけど、どうもしっくりこない。入れ子構造はミラン・クンデラの『冗談』という小説にインスパイアされたのですが、今まで時系列をずらした映画に挑戦したことがなかったので、一度挑戦したいと思っていました。

――市子さんたち登場人物の設定はどうでしたか?

深田:関係性はどんどん変わっていきました。親戚の男の子が事件を起こして市子さんが巻き込まれていくという設定は初期段階からありました。当初は基子(市川実日子)は事件を取材に来た新聞記者でだんだん親密になっていくというものだったのですが、週刊誌の記者というのが、あまりリアリティがないなと思って、最終的に市子は訪問看護師で基子は患者の家族になりました。

――家の中で物語が展開するので、そこから逆算して訪問看護師という仕事を思いついたのかと思いました。

深田:筒井さんに出演していただいた『淵に立つ』に、娘を介護するという印象的なシーンがありまして、その影響で訪問看護師という職業になったのだと思います。企画・原案のプロデューサーの方の実体験も盛り込まれていて、詳しい話を聞けたことも大きいですね。あとは設定を活かして、今度は基子のような女の子が側にいるとすればどういう状況なのだろう? と、連想ゲームのように逆算して決まっていきました。

――基子はニートという設定ですが、劇中ではっきりと触れているわけではありません。シナリオや小説を読むとわかるのですが。

深田:ニートという設定は、市子への憧れと基子が変わっていくことを表すための設定でしたが、撮影段階で引いていった要素です。最終的にはわかってもわからなくてもいいやというくらい。市川実日子さんのジャージ姿の存在感が強かったので、記号的なニートっぽさは出さなくてもいいという判断になりました。この部分は脚本段階で非常に迷っていた部分でもあったのですが、ニートや引きこもりと呼ばれる人が歪んだ心を持っていて、人に害を与えるような行動を取るといった印象になると、それは意図と違うなと思い、あくまで背景にとどめました。

●誰もが被害者となりうるし加害者にもなりうる

――監督の中で言語化されていることを引き算していったように見えますが、曖昧なまま撮った部分もあるのでしょうか?

深田:曖昧なまま進めていくうちに後から変更していくという感じですね。脚本を直している時や編集している時は粘土をこねくりまわしているようなものなので。とりあえず付けてみたりとりあえず外してみたりして、たまたま外してみたら、いい形になったなと思って進めてみたり。

――撮影段階では脚本は固まっていたのですか?

深田:撮影のための設計図なので決定稿では決まってましたが、現場で変わったところもあります。

――構成がしっかりと作ってあるので、ストーリーは変えようがないですよね。

深田:細かい演技のテンションは俳優に演じてもらって変わった部分はありましたが、出さなきゃいけない情報は決まっているので、そこまで現場の即興で変わっていくということはなかったです。ただ、編集で削ぎ落としていった部分もあります。

――市子さんが「(機械的に)メールをCCで送るのが嫌だ」という話をしますが、その話に象徴的なように、“仕事の距離感”は難しいなと思いました。終末医療やヘルパーの仕事をしていると家族ぐるみの付き合いも多くなるし、濃密な付き合いがあったからこそ、ああいう事件が起きてしまったという側面もあるわけで。

深田:事前に訪問看護の方に取材をしたのですが、プライベートで家族とああいう接触を持つというのは基本的にはご法度なんですよね。でも、やっちゃう方もときにはいるようで、それが原因でトラブルにもなってしまう。人間関係が濃密になればなるほど、トラブルが起きるというのは訪問看護に限らないことですよね。

――ハラスメント等のトラブルの根底にあるのはそこですよね。契約で明文化されてない人付き合いの領域で起きることなので、関係が良好な時はいいのですが、愛憎が憎悪に反転した時に、2人だけの秘密として話していた話が外に暴露されてしまう。

深田:そういう意味でも市子と基子は似たもの同士で、誰もが2人の中にある部分を持っているのだと思います。基子は市子がどういう痛みを持つかというのを想像できなかったからこそ、ああいう行動に出てしまったわけだし、市子は市子で仲良くしていると言いながらも、誰にでも対等に接しているつもりで、基子がどんどん距離を縮めてきていてもそれに気づくことができなかった。相手の親密度に対して市子は鈍感だったとも言えるわけです。

――深田監督が手がけたドラマ『本気のしるし』(名古屋テレビ)も『よこがお』も、被害者と加害者の境界が曖昧ですよね。

深田:被害者と加害者は二項対立ではなく、誰もが被害者となりうるし加害者にもなりうるという曖昧な領域で私たちは生きているということです。例えば、裁判だと曖昧では許されないじゃないですか。システム上、加害者と被害者をはっきりと決めて、罪と罰をはっきりさせなければいけないけれど、曖昧なものを曖昧なまま描けるのが表現の良さだと思っているので。世界は自分にはこう見えている。それが曖昧だったら曖昧なまま描くということが大事だなと思っています。

――『よこがお』で起こったことを箇条書きにして時系列でつないでいくと、ワイドショーで報道されるような事件に回収されかねないのですが、存在したであろう感情の流れは見ている側が想像するしかない作りになっています。いろんなことが具体的なのに、人の心だけは曖昧というか。

深田:そういう映画を毎回撮りたいと思っています。昔、作った映画について、知り合いに言われて気に入っている感想に「すごく歩きやすい道を歩いていると思っていたら迷路に入っていった。そんな映画だ」というのがありまして。それは自分の中では理想だなと思ってます。

――まさに『よこがお』も気づいたら迷路の中にいた感じでした。市子とリサは二重生活をしているのかな?と思ったりして。

深田:双子と思っていた人もいるそうですね。まぁ、いろんな見方ができる作品が良い映画だと思っています。

――辰男(須藤蓮)とサキ(小川未祐)のことは、小説では少し触れていますが、映画では2人の間で何があったのかは描かれてないですよね。あくまで報道でしか知らされない。

深田:オーディションの時には設定を作って辰男とサキの出会いの場面を演じてもらったのですが、何が起きていたのかを明確にすることは、この映画にとってプラスにならないと思ったんですよね。ああいう事件が起こると事件の被害者が加害者と同じように社会に混乱をもたらした者として見られてしまい、近所に居づらくなって引っ越してしまうということが結構あるんす。社会心理学で公正世界仮説というらしいのですが。この映画においては、真実を追求することに時間を割くことにはあまり意味がないと思い、何が起きたのかは関係なく、サキが憶測でいろんな噂を言われて苦しんでいる、その痛みが描ければいいと思いました。

――辰男のことも、実際にこういう事件が起きたら「キレる若者」や「心の闇」みたいな言葉で処理されるのだろうなと思いました。深田監督の映画は、通俗的な言葉で消費された存在に対して、違う視点を与えてくれる作品だと思います。

深田:物語は極端な部分を描きがちなんですよね。心の闇を抱えた少年、もちろんそういう方はいるし、心に苦しいものを抱えているかもしれないけど、そういう人たちをピックアップして社会を語る時に、どこまで普遍的な部分を描くことになるのかという思いもあります。時代を反映している社会問題をとりあげたい気持ちはわかるんだけど、自分は、そこにある、もっと普遍的な孤独を描きたいと思って映画を作っています。マスコミのメディアスクラムの問題も背景としてはあるのですが、そこは本質ではなくて、巻き込まれた市子が自分の孤独と向き合うことの方が大問題なんじゃないかなと思っています。

――以前、『本気のしるし』についてインタビュー(ドラマ『本気のしるし』特集2 深田晃司&土村芳 Wインタビュー/yahoo! JAPANニュース)させていただいた時に、「人は自分がどういう人間かなんて意識しないし、自分の心なんて自分にはわからないのだ」と話していたことが印象に残っているのですが、深田監督の考えていることと、「心の闇」みたいな言葉で語られることは似ているけど違うと思うんですよね。「心の闇」という言葉で処理した瞬間に失われることが、あまりにも多すぎる。そこでわかりやすい言葉に逃げないで、留まってくれている感じがするんです。

深田:「心の闇を抱えた若者が~」と言ってしまった瞬間に、その人がものすごく特殊な存在になってしまうんですよね。しかも表現することで単純化されるし、名前を与えることによって心のどこかで自分とは違うという線を引いてしまうことになる。今、話題になっている植松聖被告のこともそうですよね。こんなことするのは人間じゃないと言いますが、こんなことをするのが人間だと自分は思うわけですよね(注:植松聖被告は自身が職員として勤務していた相模原市の知的障害者施設「津久井やまゆり園」で入居者ら45人を殺傷した)。

 彼がネオナチに傾倒していたらしいという報道が流れると「理由があった」「自分とは違う変な人なんだ」と心のどこかでホッとするわけです。でも彼も単なる人間で、そんな簡単に私たちとの間に線を引けるものではない。そういった意識を持てるかどうかで作品の奥行きが変わっていくのだと思います。

●最初の“編集”はタイトルと本編

――『よこがお』というタイトルを付けたことで、映像に意味が発生したと感じます。顔をどう撮るか、横から撮るか正面から撮るかの違いに何か意味があるのではないかと思ってしまうんですよね。

深田:元々『よこがお』は仮タイトルだったのですが、(仮)とはいえ『よこがお』というタイトルで撮っていたので、気づいたら横顔のシーンが多いよなとなっていましたね。

――台詞が曖昧な時は横顔で撮るとか、そういった法則性はあるのでしょうか? 

深田:そこまで意識はしていないですね。きれいな横顔を撮ろうとは思っていましたが。

――それこそ髪型の違いからはじまっているので、全てのカットに意味があるような気がしてくるんです。

深田:そうあって欲しいとは思いますね。やっぱり、タイトルの呪縛力は凄いと思います。タイトルには、単純に映画の内容がわかりやすく説明されている「看板」になるようなものと、見終わった後でタイトルを思い出すとより作品が豊かに感じられるものの二種類あると思うのですが、私は後者のタイトルが好きなので『よこがお』というタイトルは気に入ってます。

 「異物と異物の衝突がモンタージュ(編集)だ」と言う言葉がありますが、最初の“編集”はタイトルと本編の衝突だと思うんです。あらすじを知らないで映画を観る人がいても、タイトルを知らないで映画を観る人はいないじゃないですか。だからお客さんが最初に触れる映画の情報はタイトルであって、その後で本編が来るんですよね。そこがキチンとぶつかりあっているタイトルと本編の関係はいいなと思っているので、できれば毎回そうなっていてほしいなと思います。

――特典映像を観たら、市子さんの髪の毛が緑になってからのシーンが、まるごとカットされていたことに驚きました。本編で観た時は、気絶した時に観た夢であると同時に塔子(大方斐紗子)さんの絵の世界に入り込んだようなイメージショットだと理解したんですよ。

深田:素晴らしい解釈だと思います。正解はないんですけど。

――美容室で髪を染めて以降が、結構長いですよね。あれは現実の映像だったということですか?

深田:撮影稿においては現実の映像という設定でした。オープンカーまで借りてロケ撮影をしたんですけど、申し訳ないことをしたなぁと思いますね。

――何故、カットしたのでしょうか? 

深田:脚本段階でも撮影段階でも良いシーンだったのですが、構成がちょっと段取りっぽくなってしまって。心の流れがあまりにも腑に落ちすぎて、面白味に欠けたのですが、湖のシーンは力強いショットだから使いたかったので「説明をせずにポンと置く」という結論になりました。ですので、過呼吸の市子が見た脳内の映像と思っていただいてもいいですし、どこかでああいう一日があったのかもしれないと思っていただいてもいいです。ちらほら聞く解釈では、あれは市子の妹だと思った人も多いみたいですね。4年後に辰男のお母さんが死んじゃったという台詞があるので、あれは妹の入水するシーンなんじゃないかという人もいたりして。

――脚本では地続きの現実として書いた場面をカットした結果、意図しない観方をする人が出てくることに対しては、どう思いますか?

深田:面白いなと思います。編集段階ではイメージができていたので、あのシーンを切るまでに葛藤があって、あれこれ試したのですが。やっぱり編集は基本的に一から作り直す作業なので脚本から一回離れないといけないから、仕方がないですね。

――最終的に、自分の手を離れたものが作品だという感じですか?

深田:親と子みたいなものなのですよね。親はその子どもの一番身近な存在ではあるんですけれども、親からみた子どもなんてごく一面しか知らないわけじゃないですか、だからどう解釈されても構わないし、自分の知らない一面がお客さんの感想を聞いてあぁなるほどってこともあるし。ですので、違う解釈が出るのは嬉しいです。

――深田監督は音の使い方が毎回凄く面白いです。たとえば、塔子さんを介護している時に流れるクラシック調の音楽です。ふつうの映画なら劇伴なんですけど、実際にCDを流していたと後でわかるのが、深田監督の映画だなと思いました。

深田:フランスのエリック・ロメール監督が大好きで、彼はほとんど劇伴を使わないんですよ。基本的にそこで流れている音楽を使うというスタイルなんですが、すごく共感しています。やっぱり音楽って強いんですよね。一気に観ている人を同じ気持ちに持っていく力があるので。だから、使い方には慎重にならないといけないと思っていると、音楽がどんどん減っていくという(笑)。

――音楽のボリュームを上げることで、この音楽が流れていたものだとわかるのですが、あのシーンを見た後は、劇中の音、すべてが気になってしまいました。

深田:劇伴をほとんど使わない分、周囲の日常の音が際立っていくというのはあると思います。基本的には同録を活かしたものですが、音自体はアフレコでかなり足しています。

――音も映像も、すべてに意図があるように思えてきます。

深田:こちらの意図以上に感じ取ってくれているなと感じます。やっぱり実写映像って世界にカメラを向けているから、完全にコントロールするのは無理なんですよね。その代わり監督の意図以上に豊かなものが映っているはずなので、お客さんが主体的に観ようと思えば、おのずと色々なことを発見してくれるはずだと思っています。

――最後に、主体的に観てもらう上で大切にしていることを教えてください。

深田:想像できる余白を増やすということですね。それは芝居の間かもしれないし脚本の構成かもしれないし、俳優の演技で感情を説明しないということだと思います。

(取材・文=成馬零一)

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