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アニメーションはふたたび時代を体現するジャンルへ 今夏アニメの“子ども”と“動物”の意味を考察

リアルサウンド

18/9/11(火) 12:00

■「アクタント」の氾濫

 今回、編集部からこの夏公開された3本の劇場アニメーション映画――スタジオ地図/細田守監督の『未来のミライ』、スタジオコロリド/石田祐康監督の『ペンギン・ハイウェイ』、そして、スタジオポノック/米林宏昌・百瀬義行・山下明彦監督のオムニバス『ちいさな英雄―カニとタマゴと透明人間―』(『カニーニとカニーノ』『サムライエッグ』『透明人間』)について、この3作に共通して登場する「子ども」と「動物」の位置づけをめぐるレビューを依頼された。

参考:小野寺系の『未来のミライ』評:いままでの細田作品の問題が、作家的深化とともに表面化

 それぞれの作品におけるこれらふたつのモティーフが具体的にどのように表現され、意味づけられているかを綿密にたどるにはそれなりの分量が必要だが、ここでは、おもに『君の名は。』以降に活況を呈す現代アニメーションの新たなパラダイムから、これらふたつのモティーフの登場にぼくたちが見いだせる意味について、おおまかに論点をひとつ、出してみることで満足したい。

 それでは、あらためて各作品の該当要素を確認しておこう。

 すでにレビューも出揃っているころだが、細田の『未来のミライ』は、4歳の男の子くんちゃん(上白石萌歌)を主人公にしており、そこに産まれたばかりの妹・ミライちゃん(本渡楓)やくんちゃんが出会う少女(雑賀サクラ)などが加わる。『ペンギン・ハイウェイ』の主人公も小学4年生の男児・アオヤマ君(北香那)で、ウチダ君(釘宮理恵)やハマモトさん(潘めぐみ)など、彼の友人の小学生も多数登場する。そして、『ちいさな英雄』の中の『カニーニとカニーノ』、『サムライエッグ』では、それぞれサワガニの幼い兄弟・カニーニ(木村文乃)とカニーノ(鈴木梨央)、卵アレルギーの少年・シュン(篠原湊大)が物語の軸を担う。あるいは、動物という点では、『未来のミライ』では「ゆっこ」という太田家のペットのミニチュアダックスフントが登場し、『ペンギン・ハイウェイ』ではその題名通り、大量のペンギンが登場する。そして、『ちいさな英雄』では魚や水鳥(『カニーニとカニーノ』)、鶏(『サムライエッグ』)、犬(『透明人間』)などの動物が出てくる。

 もちろん、これらの子どもや動物には、個々の物語や主題に沿った多様な意味や機能が存在し、そのすべてをひっくるめて語ることはできない。だが、いくつかの共通点を抽出することはできるかもしれない。

 まず第一に、これら3本に登場する動物はひとしなみに、人間と動物、あるいは動物とモノというような、ヒューマンとノンヒューマン、生物と無生物という二項対立的なかたちを流動的に掛けあわせるような存在として描かれていることが注目される。たとえば、『未来のミライ』では、くんちゃんの傍に現れる謎の男(吉原光夫)は飼い犬・ゆっこの仮の姿であることが暗にほのめかされているし、『カニーニとカニーノ』の主人公一家は、これも擬人化されたカニである。なかでも、とりわけ興味深いのは、『ペンギン・ハイウェイ』だろう。この作品では、主人公が好きな歯科医院に勤める歯科助手のお姉さん(蒼井優)は、コカ・コーラの缶を投げると、それがペンギンの姿に変貌してしまうのだ。このように、能動的・主体的な人間や生き物でもあれば、本来は受動的・客体的なモノとしての性質も宿す存在を、科学人類学などの分野では「アクタント(actant)」と呼んだりする。その点では、3本の作品に共通して登場する動物たちは、これらアクタントだといってよい。そして、ゆっこやペンギンと交流し、自らも甲殻類と一体化する子どもたちのイメージは、こうしたアクタントと一般的な人間の世界(それらは言い換えれば「大人の世界」だ)を結びつける媒質として機能しているといえる。

■現代アニメの変化を象徴する3作

 では、今夏に公開された新作アニメ映画には、なぜ、揃いも揃ってこうしたアクタント的なイメージがいたるところにうごめいているのだろうか。

 おそらくその答えのひとつは、今日におけるアニメーション表現全体の変化に関わっている。たとえば、ほぼ1年前、この「リアルサウンド映画部」に寄稿したアニメーション映画『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』(2017年)のレビュー(参考:渡邉大輔の『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』評:『君の名は。』との関係と「リメイク映画」としての側面を考察)でも記したように、2010年代、とりわけ『君の名は。』(2016年)や『この世界の片隅に』(2016年)以降の現代アニメーションは、制作プロセス全体のデジタル化に伴って、その体制や表現方法にも大きな変化を迎えているといわれる。よく知られるところでは、映像全般がデジタル化したことによって、これまでのフィルムの時代に強固に存在していた「実写」と「アニメーション」という区別が本質的に意味を持たなくなり、いわば「すべての映画はアニメになる」(押井守)とでもいうような状況が訪れていること。また、それゆえに映像文化全体のなかで、それまで映画のサブジャンルに見られていたアニメーションのプレゼンスが上がり、また、アニメーション自体のアイデンティティを問い直すような、「メタアニメーション」的な作品が目立ちつつあること……などなど。

 ともあれ、その変化の諸相を的確に論じた重要な仕事として、『個人的なハーモニー』や『21世紀のアニメーションがわかる本』などの土居伸彰の著書がある。これらの一連のアニメ論において土居は、デジタル化以降の現代アニメーションの注目すべき動向や本質を丹念に論じている。さて、この稿の論旨から重要な彼の指摘は、以下の3点だ。まず第一に、デジタル化による制作手法の相互流動化によって、それまで別々の文脈に属すと見なされていた、商業アニメとインディペンデントアニメ(アート系アニメ)、長編と短編、集団制作と個人制作、国内と国外……といった区別が急速になくなりつつある(土居の挙げている例ではないが、たとえば『ポプテピピック』)。第二に、それらの作品群では、主人公や作者個人のきわめて「個人的」な世界を好んで描くようになっている(まさに『この世界の片隅に』)。そして第三に、さきほども述べた実写とアニメの融合現象によって、かつてアニメーション映像の本質として注目された「原形質(plasmaticness)」(モノや身体の形状の自由な変形可能性)があらためて注目されていることである。

 さて、ここで結論をいえば、今回の『未来のミライ』『ペンギン・ハイウェイ』『ちいさな英雄』の3本の映画を観て、ぼくが実感したのは、これら土居が指摘していたような、現代アニメーションの変化がやはり如実に認められるということだった。第一の点についていえば、『未来のミライ』や『ちいさな英雄』には、通常の商業アニメの絵柄からは異質なインディペンデントアニメを思わせる作画が凝らされている点が挙げられるだろう。『未来のミライ』の終盤、くんちゃんが迷いこむ東京駅の遺失物受付ロボットの平面的でグラフィカルなイメージ、あるいはスタジオジブリで短編も手掛けた百瀬や山下の作品の驚異的な作画表現は、そうした印象を強めるものだ。もとより、コミックス・ウェーブ・フィルムの新作『詩季織々』(2018年)同様、「短編オムニバス」という形式で作られた『ちいさな英雄』というプロジェクト自体、きわめて「デジタルコンテンツ的」だといえる。

 また第二の点では、さしあたり『未来のミライ』がそうだろう。いうまでもなく、本作は4歳のくんちゃんのきわめて「個人的」な内面世界の物語だ。それはある程度は『ペンギン・ハイウェイ』にも該当するし、しかもこの両作に共通する、家族、兄妹、あるいはアオヤマ君とお姉さんの「対幻想」(吉本隆明)的な世界は、こうしたミニマムな心象風景のリアリティをより強調することにもなる(これらの作品における子どもの機能のひとつはそこにもある)。その意味で、『未来のミライ』は、むしろ『ウェイキングライフ』(2001年)や『コングレス未来学会議』(2013年)、そして湯浅政明の『マインド・ゲーム』(2004年)のようなラディカルなデジタルアニメの問題作群と比較されるべき映画なのであり、今回の『未来のミライ』の「失敗」とポテンシャルも、すべてはそこに起因している、というのがぼくの見立てだ。

 最後に第三の原形質性の問題。もともと原形質とは、「映画芸術の父」とも呼ばれる旧ソ連の偉大な映画監督セルゲイ・エイゼンシュテインが、ディズニーアニメに描かれる海の泡から人魚の赤ちゃんにメタモルフォーゼしたりタコがゾウのかたちを模倣したりする表現に見いだしたものだが、ここで明らかにすれば、この稿の最初に述べてきた人間と動物、動物とモノが結びついていくアクタント的なイメージとは、要はこの「原形質的なもの」のことである。すなわち、『未来のミライ』のゆっこ/謎の男や、『ペンギン・ハイウェイ』のペンギン、『カニーニとカニーノ』のカニの兄弟とは、アニメーションの本質である原形質性を前景化させたメタアニメ的なキャラクターとして造形されているのだ。さらに、こうした原形質的なイメージは、『サムライエッグ』の中で出てくる、ママ(尾野真千子)が踊るダンスの身体イメージにもはっきりと表れている。ここで、演出の百瀬は踊るママの身体をグニュグニュとした可塑的な表現で描くが、そもそも原形質性を提唱したエイゼンシュテインは、その具体例を、「脊椎のないゴムのようにしなやかな生き物とな」る「スネーク・ダンサー」たちにも見ていたからだ(「ディズニー(抄訳)」、今井隆介訳、『表象』第7号、160ページ)。また、この原形質概念とも共通するところの多い「映画造形(cine plastique)」という概念を提唱したフランスの美術史学者エリー・フォールも同じくダンスする身体に注目しており、『サムライエッグ』のママのダンスは、そうした無数のアニメーション的記憶を担うものでもあるのである。

■ミッキーマウスの子どもたち
 ……というように、以上は、いまだ仮説的な論点の提示にすぎないが、今夏話題の3本のアニメーションに見られる動物と子どものイメージの検討からも、現代のアニメーションが直面している巨大なパラダイムシフトの片鱗が垣間見られるように思われる。余談ながら、アメリカの著名な映画研究者ミリアム・B・ハンセンは、その浩瀚な遺著『映画と経験』(法政大学出版局)のなかで、ディズニーのミッキーマウスについて先駆的な論評を残したヴァルター・ベンヤミンについて論じている。まるで人間の子どもがネズミという動物と一体化し、しかも現実の物理法則から過激に逸脱して動き回るミッキーという「クリーチャー」に対してベンヤミンが見いだした本質を要約するハンセンのつぎの言葉は、まさにここで述べてきたようなアクタント性を象徴しているようにも読める(実際、ハンセンもまた原形質に言及している)。「生命を与えられたちいさくて多才な被造物(クリーチャー)のもつ魅力は──さらに、こうしたい謳い文句はミッキーだけに限定されるものではない──人間と動物、二次元と三次元、肉体的なエネルギーと機械的なエネルギーの境界を曖昧にするという、この被造物の異種混交的(ハイブリッド)な特徴にその多くを負っている。[…]身体をめぐるベンヤミンの省察の視界のうちにミッキーマウスが入ってくるのは、そのサイボーグ的性質によってである」(竹峰義和、滝浪祐紀訳、354-355ページ、訳文表記を一部改変した)。『未来のミライ』や『ペンギン・ハイウェイ』のアクタントたちは、このミッキーマウスのハイブリッド性からまっすぐにつながっている。

 かつて20世紀のはじめ、ベンヤミンや今村太平といったアニメを論じたマルクス主義者たちは、アニメーション(漫画映画)に資本主義社会の物象化と共通する要素を発見したが、よりグローバルな規模の「資本主義リアリズム」(マーク・フィッシャー)に絡め取られるつつある21世紀社会にあって、アニメーションはまたふたたび時代を体現するジャンルになろうとしているのかもしれない。(渡邉大輔)

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