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会社員の〈私〉は窓から身を乗り出して……津村記久子『サキの忘れ物』で発揮された作家性

リアルサウンド

20/7/29(水) 9:00

 津村記久子の最新短篇集『サキの忘れ物』は、全9篇それぞれ一風変わった状況で、人間の深層心理や物事の本質、はたまた事件の真相や観光地に隠されたカラクリまで浮かび上がる。たとえば「隣のビル」で、会社員の〈私〉が抱いていた閉塞感の正体に気付くきっかけ、それは建物への不法侵入によってだった。

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 仕事もろくにせず職場を見張ってばかりいる常務に、〈おまえ、トイレが長すぎるんだよ!〉と理不尽にも怒鳴られた〈私〉。気が沈み、会社のロッカールームで窓の外をぼんやり眺める。すると、〈突然目の前の建物への親しみが自分の中にこみ上げてくるのを感じた〉。〈私〉は窓から身を乗り出して、会社に隣接するビルの屋上の金網に手を伸ばしてへばりつき、網を乗り越えてしまう。

 後先考えずビルに侵入した〈私〉は、そこに住む「内さん」と鉢合わせする。事情を話したところ、親切にも内さんは入居しているテナントの情報を教えてくれる。さらに、〈害のある人ではないような気がして〉と、身の上話までしてくれる内さん。彼女に対して〈外にはこんな人がいるのか〉と思いながら、〈私〉は職場での悩みにとらわれすぎていたことに気付き、〈久しぶりに、窓が開いたような気分〉になる。

 津村記久子というとお仕事小説・会社員小説のイメージが強いけれど、設定の多彩な作家という一面もある。旅行代理店の担当者がパワースポットのある観光地・ペチュニアフォールを陽気に紹介するも、市長の銅像の頭がなぜか欠けているわ、宿泊するホテルの画像にカメラ目線でこちらを睨む幽霊が写っているわ、次々と土地の暗い過去が明らかとなる「ペチュニアフォールを知る二十の名所」。ゲームブック形式で読者が主人公の行動を選択しページを移動しながら、深夜の街で起きる事件を解決するよう導く「真夜中をさまようゲームブック」など、本書でもその個性は遺憾無く発揮されている。

 喫茶店を舞台にした作品が本書には2篇収録されているが、やはり物語の色合いは随分と異なる。「喫茶店の周波数」では、閉店2日前の紅茶専門店で店員にしつこく絡む迷惑客と、隣の席で〈最後までここはいい店だ〉と感慨に浸りたい常連客の〈私〉による、間接的な攻防が繰り広げられる。迷惑客を気にしないように、過去にこの店で遭遇したもっと酷い客を思い出して、あれよりはましだと考える〈私〉。ところが迷惑客はそれを上回る面倒さを発揮するから、〈私〉はまた注目してしまい、気をそらそうと店での別の記憶を呼び起こして対抗するのだが……。

 一方、表題作「サキの忘れ物」は、喫茶店で「読書」をめぐる物語が展開される。病院に併設されている喫茶店の店員・千春には、気になる〈女の人〉がいた。その人は18歳の千春から見て、おそらく母親と祖母の間くらいの年齢で、毎日のように来店してはしばらく本を読んで帰っていった。彼女がある日、文庫本を置き忘れたまま店を出てしまう。表紙を覗くと、忘れ物は「サキ」という外国の作家が書いた短篇集だった。

 サキはビルマで生まれたらしいけれど、ビルマってどんな国なのだろう?〈ビルマが民主化してミャンマーになったんだよ〉〈どこにあるんですか?〉〈東南アジアだよ〉。千春の問いに、仕事のこと以外滅多に話さなかった店長の谷中さんが答えてくれる。本を取りに来た〈女の人〉に返却した後、本屋で同じサキの文庫本を買って読んでみる。何にもおもしろくないからという漠然とした理由で高校を中退した千春は、〈おもしろいかつまらないかをなんとか自分でわかるようになりたい〉と思ったのだ。夢中になれるものなんてなかったし、自分のやることに意味なんてないから、何をやっても誰にもまともに取り合ってもらえない。そう信じてきた千春のないもの尽くしの人生は、一冊の本によって少しずつ変わろうとしていく。

 どちらの短篇も迷惑客がギャフンと言わされるわけでも、千春がサクセスストーリーを歩むわけでもなく、わかりやすいハッピーエンドでは終わらない。それでも消化不良とは感じない。物語を通じて、書かれてはいない登場人物の前向きな「その後」を想像できるようになるからだ。本書を読んでいると、自分の人生もいい方向に変わりそうな気がしてくる。

(文=藤井勉)

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