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ZOC 香椎かてぃは、キャパシティを超えてどこまでも寄り添う存在に ラディカルなアイドルとしての姿勢を読む

リアルサウンド

20/7/4(土) 10:00

 偶像は神の似姿であり、崇拝の対象だ。つまり“アイドル(=偶像)”という言葉の原義に忠実になるならば、彼女たちは神仏の類なのである。そうした構図はしばしばファンとの歪な関係を生み出す。例えば、恋愛禁止やSNSにおける発言の規制など数々の制約を設け、清廉潔白であることを強要し、少女たちに幾重もの枷をはめていくような縛り方がある。そのような状況下では、偶像ありきの信者ではなく、偶像であることを信者側が強要するような、なんとも倒錯した構図が出来上がる。身勝手とも言える期待を一身に背負うはめになったアイドルたちは非常に窮屈な生き方を強いられる。信仰心が育つほど、本来靄のようにフレキシブルだったはずの人格は外から凝固させられ、キャラクターという檻のなかでしか身動きが取れなくなってしまう。誰かの神様であろうとすることは、非常にリスキーかつ厄介なのだ。そんな忌避すべき役割を進んで担っている存在が香椎かてぃである。

(関連:【写真】香椎かてぃ

 崇拝、信仰、カリスマ、教祖……カルト。香椎かてぃをとりまくものものしく宗教じみたキーワードは、一聴すると胡散臭く聞こえるかもしれない。だが、幼少の折よりアイドルになることを願ってやまなかった彼女は、その本来の意味を一心不乱に突き詰めている。パーソナルインタビューにて、アイドルに向いていないとプロデューサーに告げられロリータアイドルを辞めた経験や「今までのアイドルの概念を壊すなとよく言われる」ことを語った彼女は今、ひとりの女の子が崇拝対象になるということの苦々しいほどの重さを逆手に取り、誰よりもラディカルにアイドルであろうとしている。

 その取り組みを象徴しているのがスタイルブック『新あいどる聖書』だ。読んで字のごとく、これは香椎かてぃという宗教の教典である。冒頭のページには「信仰承認します」の文字と香椎の捺印が踊る。近年特定の人物やコンテンツを盲目的に肯定する人々を「信者」と呼ぶ風潮が主にインターネット上でみられるが、そうした疑似宗教の垣根をいよいよ飛び越えて、ここまで形式的かつ段階的に自らの信奉者を増やさんとする動きを見せた者は彼女くらいではなかろうか。現在重版を重ねて各地へ送り出されている彼女のバイブルによって、香椎かてぃは着実に布教されている。また、彼女が立ち上げたブランドが冠する「CULT」という単語は、一般的には宗教的な儀式や崇拝の他、流行という意味も持つ。集団を定義づける言葉と身に纏うものを売り出すファッションブランドはとても相性が良い。なぜならそれが一種のユニフォームになるからだ。一方で、ブランドの指針が「何にも囚われず、自由に変化し続けて」(CULT TOKYO公式HPより引用)であることも興味深い。固定化された何かを信仰するのではなく、流動的な教え――言い換えればそれは香椎かてぃそのもの――を信仰する集団なのかもしれない。いわば教条なきカルトである。

 偶像としての彼女はとどまることを知らずに膨れ上がり続ける。するとやはり、先に述べてきた通り、信仰の器に亀裂が入ってくる。数カ月前にTwitterにて吐露された彼女の心情は、とても慢心しきった教祖のようには映らなかった。ひび割れてゆく自身の心身を感じながらも、ダイレクトメッセージを封鎖出来ないという悲痛さ。ひたむきに信仰心の受け皿を全うしようとする姿勢に喉が詰まる。ファンに対し「わたしはあなたの味方です」と言い切った言葉に嘘はなく、だからこそ、キャパシティを超えてどこまでも寄り添おうとする。崇めるのに距離感は関係ないのだと気付かせてくれる。「嘘かどうかわかりやすい距離にいたい」と主張する彼女は、誰よりも近い神さまだ。そしてきっと直接わたしたちの手を取って渋谷の街を案内してくれるのだろう。(清家咲乃)

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