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『わたしは光をにぎっている』松本穂香が“絵になる”理由 『四月物語』松たか子を想起させる瞬間も

リアルサウンド

19/10/28(月) 18:00

 松本穂香は地方が似合う。

 ブレイクした朝の連続ドラマ小説『ひよっこ』(NHK総合)では福島出身の女の子を、ドラマ『この世界の片隅に』(TBS系)では広島に生きる女性を、『アストラル・アブノーマル鈴木さん』では群馬のYouTuber、『おいしい家族』では離島に帰省する女性を演じた。彼女はあらゆる地方の風景に溶け込む。むしろ、彼女がいれば、そこがたとえ東京だとしても地方に見えてくるような気さえする。

参考:ほか場面写真はこちらから

 中川龍太郎監督作品『わたしは光をにぎっている』は長野県と東京を舞台にしている。本作は地方と東京を、田舎と都市の対立関係で捉えず、地方も東京も失われてゆく場所という点で等価であると描く。再開発で、かつての景観を失おうとしている葛飾区立石は、東京でありながらどこか時が止まった、周縁的な場所として登場する。地方もまた東京に対して周縁的な存在であるとすれば、松本穂香のまとう地方の雰囲気が立石を周縁的な場所に見せるのかもしれない。

 銭湯、呑んべえ横丁、さびれたラーメン屋等々、本作が映し出す景色は昭和的な事物に彩られ、ある種のユートピアとして描かれる。そのような風景に違和感なく溶け込み、しかし存在感を失わずに松本穂香は居続ける。彼女が本作にもたらしたものは何か、映画の魅力とともに紹介したい。

・「翔べない時代の『魔女の宅急便』」
 中川監督は、本作を「現代の『魔女の宅急便』」であると言う。インタビュー(http://kusagiri.jp/nakagawaryutaro/)によれば、幼稚園の時に『魔女の宅急便』を観たとのことで、彼にとって映画の原体験と言える作品なのかもしれない。

 本作の主人公、宮川澪は、早くに両親を亡くし、祖母の経営する民宿で育ったが、祖母の高齢化で民宿を閉めることになり、東京の葛飾区立石で銭湯を営む父の古い知り合いを頼ることになる。人生の目標があるわけでもない、特別な才能を持っているわけでもない澪は、居場所を失い、押し出されるように東京にやってくる。空を飛ぶというたった一つの才能を持って都会にやってきた魔女のキキと違い、一つの才能も持たない澪。中川監督は現代を「一つの才能ですら見つけることは難しい時代」と位置づけ、本作を「翔べない時代の『魔女の宅急便』」と呼ぶ。

 葛飾区立石という現実の再開発に揺れる街を舞台にした本作が、アニメ作品から着想を得ていると聞くと意外な印象を受けるかもしれない。しかし、中川監督は前作『四月の永い夢』も、『おもひでぽろぽろ』の実写版を作るというコンセプトから企画したと語る(http://kusagiri.jp/nakagawaryutaro/)。彼は自らを「アニメネイティブの世代」と言い、「アニメーションから実写を再解釈する」ことを実践していると語る。『四月の永い夢』について彼はこう語る。

「実写を再解釈するといったかたちでアニメーションが新しい表現を獲得して、僕らの世代はそれを観て育っているので、今度はアニメーションを再解釈して、実写映画を作ることが出来ないだろうかという、そういう意思が自分の中にあって。だから実写といっても、目の前にあるものを生々しく撮るのではなく、むしろ引き算しながら、作られた町として異世界を生み出せないものかということに、今回の作品で挑戦したかったんですよね」(SWAMP【平成生まれの映画論】『ウルトラマン』と高畑勲と山田洋次―― 『四月の永い夢』中川龍太郎監督インタビュー )

 ここで中川監督が語る「異世界として」実在の町を映す試みは本作にも受け継がれている。今回の舞台、立石はどこか「イメージで再構成された昭和」のような雰囲気が感じられるのだ。

 この映画は風景が主人公だと中川監督は語るが、その風景は、現実よりも情報量を落として撮ることを意識している。中川監督は、アニメは実写(現実)に比べて情報量が少なく、見せるものをよりコントロールできるものであると述べている(参照:http://kusagiri.jp/nakagawaryutaro/)。その定義を前提に本作を観ると、様々に興味深い点が見えてくる。脚本上でも、映像の上でも本作は観客に与える情報を極めて限定している。

・『四月物語』の松たか子と本作の松本穂香
 再開発に揺れる町を舞台にしながら、開発業者と町の住民の対立のようなドラマティックな展開は描かれない。まるで日常系アニメのように大きな事件は起こらず、消えゆく町での生活を淡々と映し出す。松本穂香の芝居についても同様のことが言える。本作で彼女は滅多に表情を崩さず、言葉も少なく、ゆっくりと歩く。初めての人を前にすると立ちすくんでしまい、微動だにできないが、そんな彼女だからこそ、発する台詞、わずかな動作にも大きな意味がある。アニメは全て絵である。どんな些細な芝居でも描く手間は膨大であるから、必然、本当に必要な芝居だけが選択され描かれる。それゆえ、アニメの人物の動作には必ず表現上の意味がある。本作の松本穂香の芝居も、動きが少ないゆえに全ての動作に意味があるように感じられる。そして、多くのアニメは動かさなくても様になるように設計されている。立ちすくむだけの松本穂香も見事に様になるのは、彼女がまさに「絵になる役者」だからこそだ。

 東京に向かう電車を待つシーンでは、列車が来たことにみなが反応しているのに、松本演じる澪はその列車に乗り込む本人であるにもかかわらず、反応が遅れてしまう。銭湯で初めて出会う人々を前にした時、微動だにできず立ち尽くしてしまう。表情を変えることも少ない。『アストラル・アブノーマル鈴木さん』で見せた無軌道ともいえる躍動感とは対照的だ。動きも表情の変化も少ないからこそ、彼女の発する台詞、わずかな動作には全て強い感情をうちに宿している。そして、印象的なのは本作の松本穂香は決して早く動かないことだ。走るシーンなどは一つもない。歩く速度も極端にゆっくりである。前述したように、再開発に揺れるこの町は、どこか東京の発展の速度から置き去りにされたような場所だ。

 町の変化が遅いゆえにここには昭和の景色が未だ残っている。そんな町を強制的に再開発という形で変化の速度を上げられてしまうことへの抵抗であるかのように、松本穂香の足取りはゆっくりなのだ。ゆっくりと変化してきた町を体現する存在として、静の芝居が求められたわけだが、それは彼女が立ちすくむだけでも絵になる役者だから可能だ。役者は、ただ美人であるだけでは絵にならない。立ち尽くす時にも心から立ち尽くすことができているからこそ、「風景に溶け込みながらも埋もれきらない(中川龍太郎監督)」存在感が発揮できるのだ。

 風景に溶け込む松本穂香と本作は、あたかも水墨画の美人画のように清廉だ。精緻に描かれた絵画のごとく、本作の風景は松本穂香がいなくては完成しなかっただろう。それほど彼女は自然に「絵になる」のだ。

 なぜ松本穂香は「絵になる」のか。それは彼女が自覚的に自らの魅力を引き出すことができているからだ。本作を観て、少女漫画的に東京の街を撮った岩井俊二監督の『四月物語』を連想する人が多いそうだ。当時すでに大スターだった松たか子が見せた『四月物語』での自然体の佇まいは、映画冒頭で舞い散る桜のようにどこまでも軽やかで、張り詰めたスター生活から抜け出したかのように素の魅力に溢れていた。

 どこまでも軽やかな『四月物語』の松たか子に対して、本作の松本穂香の足取りは重くゆっくりだ。しかし、その素直な佇まいは『四月物語』の松たか子のように透明感がにじみ出ている。岩井俊二いわく、良い女優とは「天然のよさがあって、それを、ひるがえって自分でちゃんと見られて、セルフコントロールしてそれが引き出せる人」(『NOW and THEN 岩井俊二』P24、角川書店)。素の魅力が素晴らしいと評される役者は数多いが、それを自覚的に引き出せるかは別問題。松本穂香は本作でその資質を確かに示してみせた。

異世界としての作られた昭和への憧憬
 本作は下町風景が残る葛飾区立石を主な舞台としている。澪がこの街で居候することになるのは、昔ながらの銭湯。一人で切り盛りする三沢京介(光石研)を手伝いながら、澪は何もできない自分を少しずつ変えていく。

 中川監督は本作の制作動機として、「失われてゆく景色をアーカイブとして残す必要」を感じたことを挙げている。映画内に街のドキュメンタリーを取る青年・緒方(渡辺大知)が登場するが、彼の行動はそのまま本作の制作動機とつながる。

 本作で取り上げられる景色は、銭湯に呑んべえ横丁、古びたラーメン屋に古びた映画館など、昭和の匂いのするものばかりだ。中川監督には、そんな昭和的な事物への憧れがあるとインタビュー(https://swamppost.com/enta/eiga/1761/)で吐露している。

 昭和的なものが平成生まれの中川監督にとって憧れの対象となっているのは興味深い。このような若者の傾向を、社会学者の宮台真司は、鈴木清順監督の『殺しの烙印』と『ピストルオペラ』の比較を比較してこう語る。

「■鈴木清順『殺しの烙印』(67)と『ピストルオペラ』(01)を学生達に見せると圧倒的に前者に反応する。理由は「懷かしい」から。確かに前者は60年代的文物のラッシュだ。アドバルーン・炊飯器・ビルヂング・ポマード髮…。でも学生達はまだ生まれていない。

■私の考えでは、彼らは個別の文物に萌えてはいない。記憶がないのだから。むしろこれら文物の背後に想像された奥行きある世界に萌えるのだ。映画内の文物は、想像された奥行きある60年代的データベースから抽出された一種のサンプルだと見なされているのだ。

■従って実際には「懷かしい」のではなく、本当は「現在の世界」よりも想像された「60年代的世界」の方が「カッコイイ」というのだ」(MIYADAI.com http://www.miyadai.com/message/?msg_date=20020429)

 本作に限らず、中川作品には銭湯が度々登場する。銭湯で想起されるのは裸の付き合いといった濃密な人間関係だが、中川監督もまた昭和的な文物の向こうに奥行きある、濃い人間関係を想像し、憧憬の念を抱いているのではないか。

 そんな昭和への憧憬で再構成された世界に、松本穂香はとてもよく馴染む。『ひよっこ』や『この世界の片隅に』など昭和に縁のある彼女であるが、現代の物語でありながら、昭和のノスタルジーに彩られたこの映画には、そんな彼女の雰囲気がぴったりだ。彼女自身、この役について「彼女の考え方や在り方に共感できる」と語るが、役だけでなく、映画全体が彼女の在り方に近いのではないかと思う。松本穂香は地方だけでなく昭和も似合うのだ。

 本作は、この町をある種の「異世界」として描いた。この世界には、現代が失ったゆるやかな時間の流れがある。あらゆる物事がものすごい速度で消費されていく現代社会に疲れた我々にとって本作は良質なデトックスだ。松本穂香の歩調のように、ゆっくりとした人生を送るのも悪くないと思わせてくれる作品だ。 (文=杉本穂高)

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